ね、知ってる 香さん
意識や思い出から過去に還る現象
まれに先に行っちゃう時もあるんだって
―へえ、
特に小さい時にある現象らしいわよ
思春期にある念力とか、不安定なバランスの時にあるんだって
―何それ、映画や本みたい
ふふ、そうね でもなんだか素敵でしょう




「遼、私も一緒に行くわ」
「いんや、俺と美奈子ちゃんだけで良い」
「でも」
「キャッツで待機。あとは1時間置きに連絡する。海坊主にも言付けてあるから、何かあったら頼れ」
遼はそう言ってポケットから出した小型の無線機を渡して、依頼人である美奈子さんを呼んだ。
私はただそれを握って立ち尽くすだけ。いつもその背中を見送るだけ。
嫉妬ではなくて、ただ悔しくて、ちっとも気を使ってくれないこの男に嫌気が差しても、嫌いになれない自分がいた。

ビルの雑踏で走る遼と依頼人の後姿を見ながら、私は頬についた汚れを無造作に拭った。
遼はいつだって私を通り過ぎた所を見ている。
そして私を通り越して先にどこかへ行ってしまうのだろうか。
ね、遼 私は何度だってあなたに出会いたい
相手をおびき寄せる為、依頼人のパーティーに参加して着たドレスは汚れ、ヒールも片方だけ。口紅は掠れて、髪もぐちゃぐちゃ。
チークも取れたし、なんだか情けなくて唇を拭ってため息をついて新宿の夜空を見上げた。



独りで留守番をしていると、こっそりと沈んでゆくような感覚に背筋がぞわりとしたことがある。
そして閉じた瞼の裏に浮かぶ記憶の断片で私はすぐに色んな過去へいく。
いや、過去というより思い出だ。微かに覚えている思い出の中をもう一度再生するように、目を閉じて耳をすませる。
こわくはない。むしろ安心するような気持ちで、私は瞼を下ろした。
両手で耳をふさぎ、深呼吸をする。手の甲は耳の穴をふさぐように。
閉ざされた中で、わずかに腕の筋肉の軋む音がして息を吐き出した。
私は今ソファで丸まるように縮こまっている。
遼は前の依頼料が入ったから、今頃どこかでツケでも溜めているだろう。
彼がどこかで楽しんでいる間、私も独りで楽しむのも最近では結構気に入っている。
足を折りたたむように、耳を塞いだまま願うように丸まった。
(かおり)誰かが呼んでいる。
とろとろと意識がまどろんでゆく。
体の感覚を忘れるようにた、胎児のように。
思い出の中で私はチーズのようにとろけ、共に溶け込んでいった。


そこは、懐かしい場所だった。少し色あせた視界は古い映画を見ているような不思議な感覚だった。
歩けば、なんだか体が軽く感じて周りを見渡して、とある家の窓越しに自分をよく見た。
そこにはあどけない、まだ背が低い私がいた。
写真で見た顔。私は思わず体をじっくりと見た。
少し焼けた手足は細く伸びて、よれた黄色のシャツは兄貴のお下がり。
半ズボンで靴ではなくサンダルだ。相変わらず短い髪の毛を右手でつまんだ。
(小学校の頃くらいかな…)
なんだか少年みたい。
膝に張ってある絆創膏を見て、確かに昔の私はよく怪我をしたな、と思い出した。
そして今いる場所は確かに小さい時遊んだ近所だった。
幅狭い小道はあちこちにあり、子供ながらそこをすり抜けていくことが妙に楽しかった。
家々の間や坂に道は入り組んで、時々突拍子もない所に出たりするうちに自分だけの地図が完成していく。
なつかしい、と思ってしまうほど古い家や空き地、今ではもう取り壊しやマンションなどで見ることはない風景だ。深呼吸して、どうせならこの思い出にひたろうと足を進めた。

そして見えてきた商店。
それはよく行った駄菓子屋さんが近くにある印だった。
タタタタ、時々走っていく近所の子たちは、笑い声をあげて通りすぎていく。
あの、電信柱―…
そう、いつも皺がよって色落ちしたポスターが貼られて、あの角を行くと見えてくる。
色落ちた看板と木の骨組み。ずらりと並ぶお菓子たちにいつも圧倒された。
そしてどのお菓子もきらきらしていて、宝石のようで見ているだけでわくわくしてきた。
思わずポケットに手を突っ込めば、100玉が入っている。
(買える)私はどうしようもなく嬉しく仕方がなかった。
ずらりと並ぶお菓子の奥ではおばあちゃんが座っている。
色合いや雰囲気、刻まれた皺もあの時のまんま。
挨拶をすれば、優しい音色のように返事が返ってきて、時々とおまけでシールや風船ガムをくれる。
なつかしさが胸の中で広がった。
そういえば、今はどうなっているんだっけな、この駄菓子屋さん。
ふと現実に返って今の新宿を思い起こした。
行きかう人とビルと雑踏。どれも此処には不似合いなように見えた光景は、確かに28歳の私が生きる場所。
じり、とサンダルを踏み、駄菓子屋の奥へと入った。
ここは中も広い。昔のお菓子もおもちゃもみんな置いている。あちこちを見ながら、好きだったお菓子を選んでいく。
その時、ふと視線を感じた。顔をお菓子から上げて、お店の奥にある引き戸を見た。木製でガラスだろう。
ガラスに映った私はぽかんと、いかにもまぬけ顔だった。

でもそこに映っていたのは私だけではなかった。




背丈はその子の方が高く、性別も違う。茶色の私の髪とは違う、真っ暗な髪と瞳とよく見知った雰囲気。
それでも子供で、幼いあどけなさ。(あなたは―?)
でも見間違えるわけがなかった。
ガラスに映りこんだ私の瞳は大きく見開き、後ろに立つその少年を見るため振り返った。
未発達に健康的にすらりとした体、シャツに短パン。
少し焼けた肌はしなやかに少年の体をかたどり、不思議な雰囲気の魅力が零れている。
前髪がぱらりと瞳の上にかかり、少し見下ろすような形になっている。
彼は私を見て、お菓子を握った手を払って、掬うように手を繋がせた。
「え、」
びっくりして、一気に汗が出てくるように思えた。
あなたは―、
声を上げようにも、ひゅ、と喉が詰まるように出せなかった。
ぐっと私を引っ張るように駄菓子屋から出て走った。
その少年の手火傷しそうなくらいに、あたたかい。
じりじりと焦げるように。
子供の体温だからだろうか―

吹き抜けるように駆け巡る。
息が上がって、汗を手の中で感じて、風のように狭い路地を駆けてゆく。
馴染んだ手の体温に頬があつくなってゆく。
走ってるから暑くなるだろうけど、きっとそれだけではない。
彼はぐんぐんと駆けてゆく。私は引っ張られるように、それについていく。
前に走る、少年の瞳や鼻や唇。額から汗が流れ横頬と伝っていく姿。
私は、彼を知っている。そんな気がしたでもなんで彼が此処にいるのだろうか。
(あれ?)
子供の心と大人の心が入り混じり、不安定に物事が洪水のように襲ってくる。収集がつかない。
でもこの少年を―知っている。
それは子供の私がではなく、大人の私が、知っているのである。
どちらの記憶も、心も重なり
走っているのに、息苦しいのに冷静に頭は考えていた。
「なんで」
(此処に―)
ようやく出た言葉は苦しくて、はあはあと息が乱れた。
少年はちらりと目線を私に落として、口元を上げて、
ぐっと繋いでた手に力が篭もってより密着するようになった。
それは、いやらしいものではなく、自信に溢れたもので、彼の瞳の奥は夜空のようにちりめばめられ煌いていた。
胸が高鳴った。きっと今の私はトマトのようで熟して赤くなっているだろう。
(走ってるからわからないだろうけど)
少年はそんな私に気づいてか気づいてないのか、口元を私の耳に寄せて、声を落とした。
「          」
その言葉に全身があつく、あつく燃えるように熱を持ち、こみ上げてくるような苦しさと歓喜が私の中で広がった。
そしてぐっと支えてくれる腕に私はしがみつくように力を込めた。
(離れたくない)
ずっとこのまま遠くへどこまでも駆け去りたいと思った。義務感のようで、心から願う欲望にかられた。
すると握り締められていた手がするりと抜けた。
驚いて、慌てて掴もうとしたけど、そのまま空中で手が泳いだ。
少年の体は煙のように薄れていってるのだ。霧のように水蒸気のように薄れて、消えてゆく。
(いやだ!離れたくない)
必死に手に力を込めたが、彼は少し悲しそうに空気の流れの中で消えていく。
悟ったように諦めている表情。
前髪が風で揺れて、その瞳の上で揺れながら細めている。
黒の瞳の奥でつぶらに小さく光る宇宙に魅せられながら、彼は、
「また、な」そう言って目を瞑った。私はその言葉に首を振った。
だけどそれと同時に、あっという間に空気に溶けていなくなった。
私は途端にひくひくとこみ上げてきたものを我慢せず涙にした。
(いやだ)
首を振って拒んだけど、あの人はあっという間に私の手からすり抜け、いなくなり、足は止まった。

私は一人ぼっちになって、その場でしゃがみこんだ。うえ、うう、喉が痛くて胸が苦しい。
じゃり、砂を踏む音で私は目を拭いながらその音の方を見上げた。
そこには眼鏡で優しげな瞳で私を見ている兄貴だった。
「どうしたんだ、香」
あたたかな音色のように感じた声に、私はまた堪らなくなって嗚咽がひどくなった。
しゃがみこんだ兄は私の背中を混ぜるように撫でて、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭って背中を出した。
「ほら、おいで」
しがみつくようにその背中に頬をつけた。何も聞かない兄の背中に守られて眠る。
かなしい。さみしい。幼い感情と、今の感情に折り合いのつけ方がわからない。
(かおり、かおり)私はまた瞳を閉じた。


両耳を塞いで、温かな鼓動と筋肉の縮小を感じる。
独りでとろけていくような感覚がしびれて肩をとん、と叩かれた。
「どうした、香」
は、と目を開ければ、遼が私を覗き込むように見ていた。
「なに、こんなとこで寝てさ」
むに、と私の頬を大げさにつねって遼は呆れたように目が半眼だ。
それはあの少年ではない、遼だ。
「あれ、」周りを見渡しても、そこはリビング。
ベランダへ続くガラス戸に映っていたのは28歳の自分。
丸みを帯びた体で、すっかり成人しきっている。
(夢か…)
ほわりと欠伸をして伸びをした。もう深夜も良い所。
遼の帰りを待ってるつもりもなかったんだけど、なんだかそんな風になってしまった。
「         」
ふと、あの少年の言葉が胸の奥で水面で落ち波紋に広がるように、じんと響いた。
遼は返事もしない私を見て、台所から水を持ってきて私に渡した。こくんと頷いて受け取って水を口に流し込む。
どうせまたツケでも溜めて、飲みに行ってたのだろう。まだ抜けきれない子供の感覚。
ふともう一度ガラス戸を見た時、そこにはあのあどけない少年―
息をのんだ。「おい、まだ夢見心地なのか」
遼のむすっとした声と共にぐっと体が起き上がった。そして私の手を引っ張って立たせると寝室へと連れて行った。
力も入らなくてふらふらとその手についていくと、遼は私の部屋を開けて私をそのままベッドへと転がした。
手が離れた瞬間、思わず「あ、」と声を漏らした私に遼はただ怪奇そうにした。
そしてぽかんとベッドに座った私には目もくれず、人の家具の引き出しをあさって、うす桃色のパジャマを取り出して私の頭の上に置いた。
そして、「おーい香ちゃん服着替えて、さっさと寝ろよ」
聞こえてますかーとばかりに頭をくしゃくしゃにかき回すと、じゃあ、なと部屋を出て行こうとした。
「ね、遼」
「あん?」
遼は止まって振り返らずに返事をした。
「変な夢を見たの」
「へえ」

「でも何の夢だったっけ」
そんなことを呟けば、遼は「もう、寝ろよ」と呆れるように部屋を出ていった。
(何の夢だっけ…)
本当に浮かばなくて、もやもやしたけど、仕方がない。さっきは何か、言葉まで思い出したのに。
もう私の中からそれらの映像は霧のように消えていっていた。遼の背中を見送った私はパタンとベッドの布団に寝転がった。瞼を閉じてもう一度、意識を離した。


「なんであの時あんなに泣いてたんだ」
兄貴は、そういえばと言って私に聞いた。
温かい味噌汁の匂いが立ち込める。
制服をハンガーにかけて、部屋着に身を包んだ私は
サラダのキュウリをつまみながら、首を傾げた。
兄貴はコンロの火を止めて、エプロンを取って、昔話をした。
それは、香が小学生の頃。
夕暮れになって家に帰らず、私は家の近所とは少し離れた空き地でぐすぐす泣いていたという。
そんな私をたまたま見つけた兄貴はおんぶして慰めて、家に帰っても慰めて、
それでも私は泣いて泣いて夜中も嗚咽を零して、さすがの兄貴もお手上げ状態だったという。
いじめられたのか、こけたのか、嫌な目にあったのか、
どれを尋ねても「知らない」と言っては泣く。
(知らないならどうして泣くんだ)と困ってずっと夜中も付き添った。
でも次の日にはけろりとして、昨夜はなんだったんだ?と、
おかげで寝不足になったよと
兄貴は笑いながら、お椀にご飯を入れていく。
私は手伝いながらもう一度首をひねった。
(覚えてないなあ)
意識はゆっくりと逆さまに落ちて行く。
あたたかな空気とその気持ちよさに涙が出そうなほど幸せだったと思いながら、窓から漏れる光に意識がようやく、こちらへと戻ってきた。



服を着替えて、リビングへ行く。
伸びをしながら、珈琲の用意をしてTVをつけた。
フライパンを温めて卵を割って、じゅわりと香ばしい匂い。
太陽の光が眩く部屋を明るくしていく、しばらくすれば遼がやってくる。
寝癖をつけてぼさぼさの髪をかいて、眠たげに「うんと濃いめのやつをくれ」と言った。
私は「はいはい」と手を振って返事を返した。
「なあ、」遼がそう言葉を続けようとしたので、「何」と顔を上げた。
新聞を広げた遼はうっとうしそうに欠伸をして影と前髪で表情が見えない。

「どんな夢だった 香」
はっとして遼を見た。
途端に世界は狭まって、切り取られた空間のように思えた。
曇りガラスのように向こう側で昨夜の記憶がぼんやりと浮かび上がってくる。
そして、私は、
カチャリと手に持っていたカップをお皿に置く音と、
昨日、美樹さんが教えてくれた話の続きを思い出した。


ね、知ってる 香さん
意識や思い出から過去に還る現象
まれに先に行っちゃう時もあるんだって
―へえ、
特に小さい時にある現象らしいわよ
思春期にある念力とか、不安定なバランスの時にあるんだって
―何それ、映画や本みたい
ふふ、そうね でもなんだか素敵でしょう

―今でもできるかしら
さあね。でも案外自分より他の人が出来てたりしてね
――ふふ、何それ
わからないわよ?今だってそう。過去だって。誰かがあなたに会いに来ていたかも



薄暗いスクリーンの向こうで、少年のシャツが浮かび上がる。
日差しの中を駆けて、その手が繋ぐ先には少女が―
はた、と目を瞬かせた。
今度は目を伏せて私はまだ何も入ってないカップの中を覗き込んだ。
そして、返事をした。

「……そうね、

泣きたくなるくらい、幸せな夢」












私は目を閉じる。両耳を塞いで、すべての呼吸に集中した。
血液、吐息、筋肉。私を構成するもの、構成してくれているものを思い描きながら、あの少年の煌きを思い浮かべた。
少年は、―は、私の手を握って、あの時こう囁いた。
吐息が落ちてくすぐったくも、苦しいほどの衝撃が私の胸をかき乱した。
純粋な瞳は黒く、少し濡れていた。



ずっと、会いたかったんだ
まるで秘密の言葉のように耳元で
少年の彼は遼は、そう、私に言ったんだ。


Fin

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