0913 深海という魂の部屋(22:21)

真っ暗な部屋に大きくスクリーンのような水槽。

青く反射し部屋のあちこちに光の波が映りこんでいた。水族館。だがそれにしては水槽の向こうどこまでも続き、一つの箱ではない完全な海が広がっていた。
ゆらゆらと泳ぐ魚や海草、珊瑚にプランクトン。生物が暮らす一つの宇宙。

香はそれを眺めながらどこか懐かしい唄を鼻歌で囀っていた。

「香」

その少し離れた後ろの方で遼が立っている。香はその気配に気付きながらもずっと水槽を眺め、遼には背を向けている。そのわざとらしい雰囲気に遼は泣きたくなった。

「遼、楽しかった?」
相変わらず熱心に水槽の向こうを眺める香はガラス越しに指をとんとんと動かしながら明るく尋ねた。
遼はずきずきと痛む何かに気付きながら「そうだな…」と目を伏せた。香はその答えに満足した。充分だった。もうお腹がいっぱいになるほど。


目の前の水槽は少しずつ眩しく、白くぼやけてきた。香は目を細めて微笑んだ。

「ずっと一緒にいることは本当に無理なんだな」

「当たり前よ。でも充分な程にあなたとはたくさん出会えた」

「もう一人で行くのは嫌だ」

「たくさん勉強して魂は磨かれるのよ」

香は優しくそう言って、色んな結末を迎えた記憶を再生させた。数々の、喜び、や悲しみ、憎しみと慈しみが映像と共に飛び去った。


「愛してるの。それだけで充分じゃない」


その言葉を聞いた遼はすねたように唇をとがらして、お預けを喰らった子どものようにぼそっと小さな声で愚痴を零した。「俺ばかりのような気がするが」
一向に振り返らない香に対しての当て付けでもある。


香はふふっと笑った。本当は全部ガラス越しで遼がどんな表情でこちらを見つめているのか見えていた。私だけが見えるから、香は振り返って分かちあうのは嫌だと思った。だっていつもあちらでは私ばかりがあなたを追いかけてたじゃない。香はたくさんの苦労を思い出して、せめて此処にいる時だけは上に立ちたいと思った。

そう思っているうちに水槽の中が白い光の海になった。目映く、遼は目を細めて、とっても哀しそうにこちらを見つめている。でもね、あなたがまた違う場所で生まれることはとても素晴らしく、愛おしいことなのよ。どんな人間でもいい。あなたが、生きている所を見るのは心が浮き浮きしてはらはらして、愛おしいのだから。

香の姿が光に塗れ、消えてゆく。また一から始まる。遼は彼女を抱きしめることもその顔を見ることも出来なかった。

香はまるで母親を求めるような子犬の目でとっても辛そうに新しい場所へ消えてゆく遼を見送った。徐々に遼の体は小さく少年のようになって光の洪水に消えてゆく。香はその光景をかみ締めながら、ようやく振り返った。



それにね、遼。

私がいない世界で私に恋をするなんて

なんだか素敵じゃない?



「いってらっしゃい」

香は悪戯っぽく笑った。








0901 そんなはずがない(13:16)

珍しく手負いの遼は止血をしながらチッと鬱陶しそうに舌を鳴らした。
後ろでぴったりと怯える依頼人は時々「冴羽さん…」と涙目で呟く。

「大丈夫さ」いつものように軽く笑って見せたが、本当は少し余裕がなかった。追ってくるのはわざわざ海外から日本へ来た特殊部隊。それも俺と同じ匂いがする連中ばかりで、人数が多い分どうしても余裕を持っている暇はなかった。
まだ海坊主と美樹ちゃんが援護してくれているのが救いだ。それに、もうすぐ相棒がくるはずだ。人が多いところは避け、港で立ち並ぶ倉庫に隠れながら遼は息を潜めた。無数にある気配。パイソンに弾を補充しながら気配を辿っていると斜め先の路地で何かが動いた。パイソンを突きつけ、さらに気配を探る。

「遼」
そこから聞こえたのは相棒の声だった。路地は暗く見えにくい。少し光があたったところからひょっこりと顔を出した―…香。少し見えにくいが、相棒に間違いはなかった。

「おせーよ、香」
遼はふうっと肩の力を抜いてパイソンをおろした。

「彼女は無事?」
その声が届いたのか遼の後ろに隠れていた依頼人も「香さん」と斜めに顔を出して安息の声を漏らした。
「…そう」香はその様子を見ると、腰をかがめず堂々とこちらへ来た。遼は慌てて「っのばか!気配を消せ!」どこにいるかわからない敵に標的にされることはわかりきっているはずなのに香は平然としていた。

暗闇で薄暗く見えにくかった香の姿が徐々に見え、それはいつもの身軽な格好とは違った。赤い膝丈までのドレス。香はこつこつと靴を鳴らし優雅にこちらを見ている。香には不釣合いなほどの赤が煌き、剥き出しの膝がいっそう白く浮き出ている。そのずれた光景に遼は呆然とした。


「お前…」


「今のうちに逃げた方がいいわよ」


「何言って?」


「一度だけ見逃してあげるから」

香はにっこりと笑って、ごく自然の動作で遼の足元ぎりぎりのラインを銃で撃った。
それはとても優雅で、簡単な行為だった。銃弾が地面に突き刺さり、それは確かに実弾であり、本気だと言う合図でしかなかった。「ひいっ」と依頼人が短い悲鳴を上げて驚愕したように震え遼の背中で縮こまるのがわかった。だが遼は何も出来なかった。思考を停止したまま、香を見つめていた。


「香…?」




「見間違えないで。私達はこれから敵よ」


香は美しく残酷な笑みを浮かべていた。





0707 ようやく silent番外編 *冴羽遼の死後(22:42)

「―りょう」


その声だけで、全ての神経が揺さぶられた。霧が少しずつ晴れて、向こうに立つ香の表情がはっきりと見えてゆく。
「遼、」そう微笑んだ香は、頬がこけた顔でも、寂しそうに元気を取繕う姿でもない。健康的な肌と溌剌とした笑みが、そこにはあった。


香、香香香香


そんな風に動揺する遼を横に、香は当たり前のように駆け寄って腕をそっと組んできた。そして頭を遼の肩へ置いた。程よい体重がかかる。体が歓喜している。待っていた。待っていたのだ。

「かおり」
ようやく出た声は掠れ、平然としたように取繕ったものの、隠しきれなかった。

かおり、

遼は腕を組んできた香の手を解くように引っ張り、両腕を掴んで、互いが正面を向くような形になった。そして両手で香の頬をしっかりと包み込むようにすくいとった。
香の顔は遼の様子に驚きながらもされるがまま、その手にすっぽりと収まり、目線が外れないように遼が香の瞳を覗いてくる。香は少し頬を染めて、照れたように遼を見ると、しっとりと湿った目を弓なりにして優しく微笑んだ。

「りょう」

雨が降る。それは水ではない、光彩の雨。赤も青も黄色もピンクも黄緑も、吹雪のように光の小さな球体が降る。濡れることはない。瞼を閉じ、開いた瞬間消えることもない。もうどこにもいかない。もうどこにも、



行かせはしない




0705 見つけた  *ソルト番外編(19:16)

「やっと見つけた」
香はパジャマ姿のままリビングに立っている。遼は珍しく早起きをして、珈琲カップに口をつけて新聞を読んでいた所だった。「んあ?」と手を止めた遼は呆然と立つ香に目を向けた。

今日は遅くに起きた香。しかもパジャマで寝癖は整えてないのか、ぴょんと跳ねている。少し抜けたように見える姿に遼は「どうした?」と首を捻った。
そんな香はやわらかに微笑んだ。「よかった」呟いた。そしてふらふらと遼の隣に座った。ソファが軋み、音がなる。付けっぱなしのテレビは天気予報が流れている。「香?」遼は香の顔を覗き込んだ。香は目を細めてそのまま遼の肩にもたれた。遼が、おい、と声をかけたのと同時に香の寝息がすうっと響きわたり、穏やかな朝の続きが始まった。

「お前、寝ぼけてたのか」
遼はそう言ってそのまま香を起こさず、テレビのチャンネルを変えた。

「後でベッドに運ぶか」遼はしばらくしてから、そう穏やかに呟いた。








「待って」

途端に狼は人型をとって、少し離れたソルトを見た。そして仕方がないとばかりに人ごみをかき分けてソルトの手を引っ張った。先生はいない。大都市の書庫へ行っているからだ。ソルトは狼の手を掴み、「行かないで」とぎゅっと手の力を込めた。何かに怯えたように。

一緒にいて

ソルトは―…香は、そう言うと、目を兎のように真っ赤にして、手を握ってくれている遼を見た。小さな子供の香の手を引く大人の遼は怯えた香にそっと答えてくれた。子供に言い聞かせるように恋人に言うかのように。



「離さないさ。俺が見つけたんだから」

ずっと一緒だ


その言葉を聞いた香はもう子どもではなく、彼の元で相棒を務める年齢になり対等に肩を並べていた。「嬉しい」香は頬を染めて遼の肩におでこを置いた。目元から涙が一粒、落ちた。




0424 魔女っこカオリン 「肉体改造」(23:46)

「これだわ」
香はいきなりそう呟いて頷くと、徐に立ち上がった。そして隣のソファで雑誌を読んでいた遼は何事かと手を止めて香を見上げた。「遼、私肉体改造する」

びしっと指を向けた先にはTVの中で微笑みながらポーズをとっている女性ボディビルダーだった。遼は途端に顔をさっと青くさせた。
「香ちゃん。こんな体になって何の意味があるんだ」
少なくとも、筋肉はあってもこんなにもむきむきで柔らかい胸の感触までどっかいってそうな肉体に、遼はまったくもって関心はなかった。だが、香は違ったようだ。
目をきらきらとさせながらお腹をさすって「まずは腹筋を6つくらいに割って…」とぶつぶつ計画を立てている。
「おい、香…」「遼、やっぱりシティハンターとして強靭な肉体は必要だと思うの。見た目なんかに左右されては駄目。丈夫に鍛えないと」
ね、と微笑む香だが、遼はちっとも納得していなかった。体を多少鍛えることには文句をつけるつもりもないが、香が目指そうとしているものは究極すぎだ。しかも香には魔法という完全無欠の方法があるのだから洒落にならない。(勘弁してくれ)遼は持っていた雑誌を床に置いて体を起こした。説得という説教をしなくばならない。むきむきの香なんて、何も嬉しくないのだから。

遼はさすがに譲れないとばかりに、意気込む香の腕をひっぱり説教の為に座らさせようとした時、「えい」と香がその5秒前に人差し指を回した。そしてこう付け足した。「見本はやっぱり海坊主さんよね」「え、」遼の中で稲妻が突き刺さった。
すると、なんということでしょう。
自分よりもほっそりとした腕だったはずなのに、一瞬にしてその幅が広がり、遼は目の前で掴んでいた腕が、自分よりも筋肉質に太く硬くなっている事を肌で実感したのです。

「……」遼は香の顔を見上げれず、ただその腕を見ただけで硬直してしまった。
そんな事はお構いなしに、香は「すごい。やっぱりたくましいと自信がつく」と遼の腕をひっぺがして自分のシャツをめくった。
いつもならくびれが見えて、それこそかぶりつきたくなるのだが、そこに映ったのは、たくましく筋肉をつけてきれいに六つに割れた腹筋。遼はぐぐぐとようやく首を動かし、香を見上げた。確かに香の顔はそのままだった。

「顔」は。

顔と体の対比が海坊主のようになってしまい、遼より体格は大きく、香の顔が遠い。遼はその2秒後、生涯初めてかという程の絶叫をすることになる。


その数分後、発狂した遼の声を聞いたミックとかずえがドアを蹴飛ばして駆けつけ、その2秒後、今度は三人で一緒に絶叫することになる。




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