とても滑稽な恋愛ごっこ

「先生?先ほどから何を書いているんです?」

それはマジックショーが無事成功した後のこと。彼女はおもむろに古めかしい手帳を取り出して嬉々としてペンを走らせる。近宮先生の弟子になってからというもの、先生のこの光景は何度も何度も見かけてきた。だからいったい何をしているのか聞いてみたかったけれど、この時の彼女はとても楽しそうに何かを書き込んでいてこちらからは話しかけづらい雰囲気で聞くにきけなかったのだ。だけどその日は申しわけないと思いながらも意を決して先生に聞いてみたんだっけ。そしたら案外、すんなりとその手帳について答えてくれたので拍子抜けしたのを覚えている。

「あら、私はマジシャンよ。いつどこで思わぬマジックのネタが転がりこんでくるのかわからないじゃない。そういうときのためのこのトリックノートに書き込んでるの」
「へえ、さすが近宮先生。それじゃ、今もそのトリックのネタが浮かんで?」
「そうよー」

トリックノート。彼女はそう答えた。
私もそういった類のものはあるが、いつも部屋の中でうーんうーんと唸ってひねり出したりしていたからあまりいいマジックは出てこない。なるほど、近宮先生みたいに日ごろから持ち歩いて思い浮かんだときにその場で書き込めるようにしたら、新鮮なアイディアが出てくるかも。
閉鎖的な空間で無理に考えようとするから、偏ったものしか出てこないのかもしれない。
彼女の手帳を見ながら、私は考えさせられる。

「私もトリックノート作ってみるべきかな」

何気なくぼそりとつぶやいた言葉は先生にばっちり聞こえていたらしい。先生は顔を綻ばせて私の背中を軽く叩いた。う、けっこう痛いです。先生。

「ふふ、どんどん作りなさい!貴女なら思いがけないネタをどんどん書き込んでいけるわ。私も貴女の発言や行動から拝借してたりするもの。大丈夫よ」
「ええー!そんなの全然知りませんでしたよ!なんだかちょっぴり恥ずかしいです」

拝借されるほど変なこと言ったりしてたかなあ。今まで一緒にいた中で近宮先生のお役に立てたなら嬉しいけれど、どこか気恥ずかしい。うぅ…、と顔をうつむかせる私に先生は小さくため息を一つ。

「あらあら貴女はもっと自信を持つべきね。いつまでも私の腰ぎんちゃくなんかしてないで、華々しい舞台に飛び込んでみなさい。貴女はとても輝かしい素質を持ってるのにもったいないわあ」
「そ、そんな!私なんてまだまだです!それに……私、まだ近宮先生のお側で先生の素晴らしいマジックを見ていたいんです。だから、その…」
「ほんと、もったいないわ」
「そんなあからさまに呆れた顔しないで下さいよおっ!それとほら、私高いところ無理ですし……」
「高所恐怖症、ね。別にそのままでもいいと思うけど?無理に治すなんてしなくても、貴女なら十分やってけるわよ」
「そう、ですね」

そして、ちょうど思いついたアイディアを書き終えたのだろうか。先生がノートをパタリと閉じ、それをカバンにしまおうとする。その動作に私は思わずあっ、と声を上げた。
すると近宮先生は少しびっくりしてそのノートを床に落としてしまう。すすすみません!そういって落としたノートを急いで拾い上げ彼女に渡そうとするが、私はさっきから考えていたことを口にした。

「あの、先生?もしよろしければ、そのトリックノートを見せてくれちゃったりしないですかね?」
「調子に乗らない」
「あだっ」

だけど返ってきたのは先生からのチョップ。なんだか今日は痛い日だなあ、もう。
チョップされた箇所をさすりながら私は近宮先生に謝る。確かに少し調子に乗ってしまった。反省せねば。
うう、とうなだれていると先生は「勘違いしてるようだから話しておくけど」と今まで見たことないようなとても優しい目をしてノートを撫でてこう付け加えた。

「このノートは私が演じるんじゃなくて、私の大切な人に贈るために書いてるものなの。いくら貴女でも見せることはできないわ」
「え、先生の大切な人……。もしかしてっ!!?」
「貴女の考えてることじゃないから安心なさい。けれど、そうねえ。もし貴女が私の元から巣立って華々しい世界で活躍していたら、もしかするとこのノートを見ることができるかもね」
「それってどういう……」
「私は貴女のことをとても気に入ってるっていうことよ。手放すのがおしいと思わせるぐらいにはね」

ナマエ――――……。
それから、一週間後のことだった。近宮先生がリハーサル中の事故として亡くなったのは。
その頃の私はそんなこと思いもしなくて、この先ずっと先生のマジックに魅了され続けていくのだと思っていたんだ。

*

「…せ、んせ、い…」

窓から吹き付ける風の冷たさに沈んでいた意識が浮かび上がる。あれ、私いつの間に……? 体を包む自室のベットのシーツの感触に目を瞬かせた。確か金田一君たちと別れた所までは覚えてるんだけど。そこからは何故か記憶が曖昧だ。

「わ、たし……」

ぼーっとする頭とだるい身体に眉を寄せる。そしてゆっくりと記憶を手繰り寄せようと重い頭を働かせた。そうだ、あの後なんだか気分が悪くなって……それで、遙一が部屋まで送ってくれて、あったかいココアを入れてくれたんだっけ。私は喜んでそれを受け取ったけど、それからだんだん眠くなってって……。

「そうだ、遙一……っ!?」

思い出したことによって覚醒した私はようやく自分の置かれた状況の違和感に気づいた。
起き上がろうと体を起こそうとしたのに全く動かない。首から下が鉛のように重たくて自分ではどうしようもできず、私は混乱する。

「どうして……」
「あ、起きたみたいだね」
「よー、いち?」

声が聞こえる方へと視線を動かせば椅子に腰かける遙一の姿があった。
遙一、体が重たいの。重たくて重たくて動かせないの。怖いよ、遙一……っ。手を伸ばそうにも動かせずにただ震える声で彼を呼ぶ。いつもの彼なら私の異常に気付いて焦りだすだろうに、何故か彼は椅子に座ったまま。彼の纏う空気
が冷たさを含んでることに私は戸惑った。

「ねえ、っ……」

助けを請うように呼びかけた声が震えて掠れる。それを何度か繰り返して、漸く彼は重い腰をあげたのだった。そして私にゆっくりと近づき、ベットに身を沈める。この恐怖から解放してくれるのだろうか。そんなことを思ったのも束の間、彼は私へと手を伸ばした。
ひんやりと体温の低い手が私の頬に触れる。まるで壊れ物を扱うみたいに優しく触れる手は本来ならば安心してその手を受け入れているはずなのに、何故か頭の中で警報が鳴った。何かがおかしい、と背筋がゾワリと凍るのだ。

「本当はもう少し後の予定でしたが、事情が変わりました」
「なに、を……?」
「先に貴女の口を封じておかないと5年前の事件だけではなく、あのノートの行方さえ喋りかねない」

遙一は私の耳元に口を寄せ、いつもとは違う低い声で囁く。
ノート……? 私は彼のその言葉に何のことか分からず困惑した。それと今の私のこの状況がどう関係するのだろうか。未だ私の頬を撫でる彼を見上げてみても、彼が私の疑問に答えてくれるわけもなく、ただうっすらと笑みを浮かべるだけ。それが私の知ってる彼と重ならなくて動揺した。そういえば眼鏡をかけていない。視線だけを動かせば、机の端に転がる彼の眼鏡を発見する。
そんな私の視線に気づいた遙一は「あぁ」と零して、机の上にある眼鏡をとって自分の顔にかざした。

「こっちの方が好き?」

顔がカアッっと熱くなるのを感じた。それを隠すように彼から顔をそむけるが、遙一の手によってそれは遮られる。気付けば、遙一の顔は鼻と鼻が触れ合うぐらいすぐ近くにあって、目を見開く。
その時、たれ目がちの目がひどく冷めてるのを見て、私はまた背筋がぶるりと震えた。

「え」
「とぼけても無駄ですよ、ナマエさん」
「遙、一?」

「――近宮玲子のトリックノート」

彼の口から飛び出た単語に私は酷く驚いた。どうして、遙一がそのノートのことを。近宮先生を知らないはずの彼がなぜ? 疑念ばかりが膨らんでいく。

「なんで……そのことを……」
「さあ、何でだと思う?」

そう言った彼の目はどんどん鋭く冷たいものになっていく。私はカラカラに乾いた喉から絞り出すように声を出した。

「遙一……どうしたの。なんだか…」
「なんだか、なに?」

彼の問いに何も言えなくなってしまった。
怖い。彼が怖い。彼が違う人みたいに思えて怖い。そんな感情がぐるぐると私の心に渦巻く。怖くなって彼のシャツをぎゅっと握りしめる。今、私の目の前にいるのは一体だれ?
顔に触れていた手はゆっくりと下に下がっていき、首の周りを覆うように添えられた彼の手に私は体を震わせた。

「……っ!」

徐々に力を入れられ、きゅっと締まる圧迫感に息が詰まる。なんでどうして、と重たい手足をバタバタさせ、必死に彼の手をひっかくが思うように動かせないこの状態ではまるで効いている気配はなかった。首をきりきりと締め上げる彼に酸素が入ってこない私の頭では全く現状を理解できない。息苦しさからか視界が歪み、遙一の姿さえも曖昧になっていく。

「ナマエ、さん」
「よ、いち…っ」

遙一の悲痛な声が耳を擽る。だけど彼の言葉の意味でさえ考えることができなくて。
ただ、自分の頭には近づく死の存在を感じるしかできなかった。なにが一体、遙一ここまでさせるのだろう。でもここで死ぬのもいいかもしれない。遙一の手であの人のいるところへ逝けるなら、それはそれで素敵なこと。
私は抵抗していた手を止め、もう涙で歪んだ彼の頬にその手を添え微笑んだ。短い人生だった、と首の圧迫感を感じながらも冷静に対処し始める自分の感情にただただ呆れるばかりである。
でもできれば、この先も遙一とずっと一緒にいたかった。最後にそう思ってしまったのは結局、私は彼のことがどうしようなく好きだったから。

「す、き」

ようやく絞り出せた言葉は罵詈雑言でもなく、自分の紛れもない本当の気持ち。その言葉には遙一も予想外だったのか一瞬、首を絞める手が緩み、息を飲む音が耳に届く。

「――――っ」

そしてそれと同時に首を圧迫していた手は離れ、頭上から力のない声が降ってきた。え、と閉じていた目を開けるとそこには眉を下げ、悲しそうな顔をした彼の姿。
そんな彼を見て、私は驚愕した。なにせ初めてだったのだ。彼のこんな顔を見るのは。
圧迫感から解放された私の気管は勢いよく広がり、失った酸素を体に吸い込んだことで酷く咳き込む。

「ッ……げほっごほっ!」

歪む視界の中、見たことない顔をして自分の顔を覆う遙一が見えた。それは凄く動揺しているようで、彼の顔に汗が浮かんでいる。その姿がどこか幼い子供のように見えて、私は彼に重たい体を引きずって手を伸ばした。拒絶されるかと思ったけど、そんなこともなく彼はその手を受け入れてくれた。彼の細い髪を撫で、ゆっくりと抱きしめる。

「ナマエさん」
「ケホッ…なぁに?」
「ごめん、痕が」

残っちゃったね。そう伏し目がちに顔をうつむかせる彼に私は今まで感じた違和感の正体に気付かされた。どうして遙一がこんなことをしたのかは分からない。けれど出会った時から感じてた違和感。それはここ最近日に日に増していき、彼という存在が分からなくなるほどに感じてたそれは気付いてしまえば簡単なことだった。

「ねえ、遙一」
「…………」
「好き」
「…………」
「好き、大好き」
「……ナマエさん」
「愛してるの」

私は彼を抱きしめる腕に力を込める。だけど彼は答えない。その代わりに私の首に浮き出た指の痕をするりと撫でて、眉を下げて何とも言えない曖昧な笑みを浮かべた。その時、鼻に届いた薔薇の香りに私は確信する。
今までこの香りに知らないフリをしてきた。じゃないと、この関係でさえも壊れてしまいそうだったから。気付かないフリをして無かったことにした。でも、もうだめだ。

「ねえ」
「はい」
「遙一、だよね」
「僕が僕じゃない別の誰かに見える?」
「ずるい」
「そうだね」
「遙一が……っ」

その先は言えなかった。口を開いた瞬間、彼は私を引き寄せ、噛みつくようなキスをした。
歯の間にぬるりと舌を滑り込ませ、荒々しく口内を嬲る。そして充分すぎるほど堪能してから遙一は私を解放した。

「――んうっ…っ」
「っ……私もナマエさんが、好きです」

耳元でそう囁かれ、私は泣きそうになった。
初めて彼の口からその言葉を聞いた。聞いたはずなのに、私はそれを待ち望んでいた筈なのに心が引き裂かれるように音を立てて軋む。顔をくしゃりと歪ませ、私は熱くなる目を覆うように腕を交差させて隠すことで精一杯だ。ずるい、ずるい。遙一はずるい。大声で泣き出したい。

「うそつき」
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