暗闇の中を漂う。
どこまでもどこまでも漂い続ける。
そうすれば、周りはいつの間にか深い深い青色をした海中になっていて、ごぽごぽと空気の泡が上へと昇っていく。
ぼんやりとそれを眺めていれば、視界の隅を何かが横切る。
なんだろう?
反射的にそれを追いかければ、視界を掠めたのは伸ばされた私自身の手だった。
ゆらゆらとたゆたう手は、なんの為に伸ばしたんだっけ。
ああ、何か。とても大事な何かを忘れている気がする。
必死に追いかけて、届かなくて、痛くて、寂しくて、寒くて、
あれ、なんで必死だったんだっけ。
思い出せない。
頭に靄が掛かっているかのように、私の思考は迷走する。
思い出せない、見つからない、わからない。
いっそのこと、考えるのを放棄してしまおうか。
それもいいかもしれない、と伸ばされた手を下ろそうとする。
《護らなくていいのか。》
ぴくり。下ろそうとした手が止まる。
《願ったのだろう?行くな、と。》
でも、届かなかった。
《だから諦めるのか。》
だって彼はもう、去って行ってしまった。
《連れ戻せばいいだけだろう。》
追い付くことが出来なかったのに?
《それでも、だ。ああ、ほら見てみろ。泣きながらも決意した奴がいるぞ。》
首をめぐらしてみるが、私以外誰かが居るようには見えない。
そういえば、この声はどこから聞こえてくるんだろう。
立ち昇っていく泡から発せられているような、この空間全体から発せられているような。
《さあ、そろそろお前も決意するときだ。》
脳に直接喋りかけられるような、不思議な声。
《何を護りたいのか、何が大事なのか、よく考えろ。》
ぱちん。なにかが弾けた。
**********
仲良しこよしでお手手繋いでくっついていた上瞼くんと下瞼ちゃんをゆっくりと引き離す。なんかごめん。
うっすらと開いた目に射し込む外からの光が眩しい。
…ん?光!?
がばりと勢いよく体を起こせば、部屋は朝日で一杯になっていた。
ね、寝ちゃったのね私…。
何時の間に寝ちゃったの。じい様の部屋から戻って来てからの記憶が無いよ。
若呆けとか嫌すぎる。
「そういえば、変な夢、見た気がする…。」
真っ暗で怖くて、水が泡でこぽこぽなってて…意味わからん。
後は、叫んで、伸ばして、漂って…護るって…。
「まも、る…。」
あぁあぁあわわわわ私行かなくちゃ!
上着も羽織らず外へと飛び出す。
行かなくちゃ!思い出した!思い出したよ!
水の中で聞こえた声も、何を追いかけたのかも、何に手を伸ばしたのかも!
鳥が飛んでいく。雲が流れていく。
私、思い出したよー!
駅伝で区間賞くらい取れるんじゃないかというぐらいの速さで邸の中を突っ切る。
おほほほほ!誰も私を止められないー!
「咲夜っ!」
「ぐえっ!?」
鋭い声と共に首への圧迫感。
あれ、デジャヴュ。
遠慮なんて知りません、なにそれ美味しいの?とでもいうかのように思いきり引っ張られた襟首。
犯人が誰かなんてわかりきってる。
きっと後ろを振り向けば、
「私を絞め殺す気、宵藍!?」
グッバイ現世、ハローあの世状態になる所だったよ!?
やっぱり私の襟首を引っ掴んでいた宵藍。
なんとか振り払い向き直れば、怖い顔した宵藍がひとーり、太裳がひとーり、勾陳がひとーり…。
若干集合状態になってらっしゃる…っ!
「どこに行くつもりだ。」
「安静にしていて下さい。」
言われると思ったよ!
心配して言ってくれてるのはわかるけど、けど!
今は聞けないの!
「無理、私は高於に会いに行く!」
「後日でもいいだろう。」
「駄目だよ、今から、私が行かなくちゃいけないのっ!」
行かなくちゃいけないの!
お願いだから行かせて!
「駄目だ。」
「っ行く!」
ごめんなさい。
私を出さまいとするのは貴方達の優しさだってわかっているのに。
わかっているのに、それを拒む私を呆れてくれたって構わない。
嫌われ…たくはないけど、嫌ってくれたっていい。
「部屋に戻って下さい!」
「嫌だ!」
「また倒れたらどうするつもりだっ!?」
「匍匐前進で行く!」
剣が降ったって槍が降ったって、何があっても、どんなことが起ころうとも私は行ってやる!
どうしてそこまでしても行かなくちゃいけないのかなんてわからない。
勾陳が言ったみたいに、明日とかでもいいのかもしれない。
けど、今日じゃなきゃ駄目なんだ。今日じゃなきゃ、今からじゃなきゃ、駄目なの。
そうしないと手遅れになってしまう。
手が、届かなくなってしまう。
「何故そこまでして行きたがる!?」
「掴みたいからっ!」
伸ばした手で、きちんと温もりを感じたいからっ。
欲張りな私は、自分の世界から何かひとつでもピースが抜けちゃうのが嫌なの。
皆が悲しんでるのも、苦しんでるのも見たくないの。
陽だまりみたいに暖かい気持ちを何時でも持っていて欲しい。
我が儘?今更。
私の世界から夕暮れが消えたなら、取り戻すだけ。
皆の悲しみの原因が、失ってしまった暁なら、見付けるだけ。
「私は欲張りだから、私の世界も、皆の笑顔も護りたいの!」
だから、そこを退いて下さい。
「咲夜…っ!」
「お願い。」
「……っ!」
「…行かせてみたらどうだ。」
「!?」
「勾陳!?」
「咲夜が決意したことだ。私たちは、もう何も言えないだろう。」
ふ、と微笑と苦笑を零した勾陳にうる、と涙腺が緩むのがわかった。
「勾陳の言うとおりだ。咲夜自身が決意して実行に移そうとしているんだ。邪魔は出来ん。」
「白虎!」
「しかし…!」
頭に暖かい手が乗せられたと思ったら次いで降ってきた言葉。
見上げれば優しく微笑む白虎。
勾陳と白虎。二人が味方になった!
しかし太裳と宵藍は未だに眉を顰めたままだ。
「…駄目だ。」
「宵藍!」
「相変わらず頑固だな…。」
やれやれと言った体で肩を竦めた勾陳が、白虎になにか目配せをする。
次の瞬間には、私の足は地面とさようならをしていた。
「え!?」
「貴船でいいんだな?」
「うえ!?あ、うん!」
頬に当たる風と、裾を翻す服と、私を抱きかかえる白虎の腕で、ああ、私は白虎の風に乗ってるんだなと理解した。
どうやら太裳と宵藍を強制的に振り切った様子。
下を見れば、すでに安倍邸は小さかった。
「…約束するから。」
待っててくれる限り戻って来るって約束を守るって、倒れたりしないって、約束するから。
だから、ごめんなさい。
ぎゅ、と拳を握って見えてきた貴船を見据える。
違えないよ。
ただいまを言うのも、貴方の元へ帰るのも、無茶をしないのも。
絶対に守ってみせるから。
欲張りな私は、約束も絶対守って見せる。
そして、夕暮れと暁だって取り戻して見せる。
その為に、力が欲しいんだ。
今度はちゃんと伸ばした手が届くように。
手の平から、大切なものが零れ落ちていかないように。
全てを護れる力が欲しいの。
頭を撫でてくれた白虎の手に、少しだけ心が軽くなった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
馬鹿、と小さく呟いた。