亡霊
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笑い声が聞こえていた。その声はぼやけていて、群青の空に突き抜けていくように楽しげだった。ケースケは耳を澄ませたけれど、どこからその声がやってきているのか分からない。笑い声と、それを追いかけるようなガサガサという音が動く。どこからともなくはしゃぎ声が漏れ出てきて、その度にケースケは辺りを見回したが、背丈よりも高く生い茂ったひまわりの茎と葉だけが視界を埋めていた。見上げた日差しが眩しく、白んだ。ケースケはとっさに手のひらをかざして日陰を作って目を細める。ひまわりの葉が擦れる音がした。しかしふとそれらの雑音が弱まって、訪れた静寂の中、際立つように。
 ほら、また聞こえた。草むらの中を逃げるような音もすぐに付いてきた。ケースケは振り向く。雑草が僅かに残るあぜ道がほぼ直線上にうねり、その左右でまっすぐに上へとひまわりが伸びているなかで、そこだけ掻き分けられたように茎が歪んでいた。誰かがちょうど今しがたくぐったかのように、ひまわりがそこだけゆらゆら揺れている。半身ほどの隙間の向こうは茂った草のビリジアンで見通せないが、いままで不規則な場所から響いてきた笑い声は、今ではその空間の向こうからしきりに聞こえていた。
 つま先を軸に体の向きを完全に変えたとき、スニーカーが砂利の音を鳴らした。そうしてその穴を正面に据え、一歩二歩と近づいていくたびに笑い声は大きくなる。それに伴って、音も鮮明になっていった。
 あと数歩を残したところでケースケはぴたりと立ち止まる。頬から汗が伝った。それを手の甲で無造作に拭って、腕はそのまま体の脇にだらりと垂らした。思ってもみなかったが、これは、自分の笑い声だ。
 鏡に映る自分が違う動きをするとか、捨てたはずのものが戻ってきているとか、そういった類の不安感をケースケは覚えた。自然の理に逆らっている。自分が笑っていないときに、自分の笑い声が響いているなんて起こりうるのか? これが自分の声かもしれないなどとケースケは思いもしなかった。だって、自分は今笑っていないから。そして確かに自分の声に聞こえるのに、いまだに信じきれずに別の可能性を探してしまうのだ。
 確かめるように、ケースケは一歩近づいてみた。音の出所を探ろうと穴の向こうの空間を注視して、同時に耳に意識をそそぐ。笑っている。友だちと一緒にいるときのような、飾らない笑い声だ。パーソナルスペースが溶け合ったときに起こる、大して面白くない事でも笑えてしまうみたいな、そんな笑い声だった。
 そして確かに自分と同じ声をしていた。だけれど、自分はこんな笑い方をしただろうか? 声は同じでも、これは自分のものではない。じゃあ、誰の?
 疑問に駆られたみたいにケースケは早足に穴を眼前に迎え、そうして僅かに湾曲したひまわりの茎に手を添えた。そっと腕を差し入れスペースを作り、ひまわりを踏まないようにつま先で地面を探りながら、静かに足を踏み入れた。数歩進むと背後でひまわりのカーテンが閉じ、深緑色の影に閉じ込められる。せめぎ合って生えるひまわり達の向こうから漏れ出てくるように、今までの比にならないほど近く、クリアに、あの笑い声がしていた。最初はひとつの笑い声だけが聞こえていたが、奥深くにケースケが進むほど、声は重なっていく。四方八方から同時に、時に小さく時に大きく、絶え間なく笑い声が響いていた。音の波に圧されて、ケースケは息苦しかった。時折進むのをためらったが、首をぶんぶんと振ってひまわりをかき分ける手を速めた。一刻も早く抜け出したいあまりの焦燥だった。
 ケースケになにかを考える余裕が無くなりかけていたとき、ひまわり畑は急に途絶えた。ケースケは切羽詰まったままひまわりをかき分け続けていたので、ひまわりの手応えが急に無くなり、視界が一気に眩しくなり、そうして身動きしやすい地面にぱっと投げ出されたため、二、三歩の受け身を取らなければいけなかった。さっきまでとは打って変わって、自分の鼓動まで聞こえるほどの静けさが訪れていた。きょろきょろと周辺を確認すると、どうやら別のあぜ道に出たらしかった。あぜ道と言うよりかは広場の体をしていて、道がそのまま広がってできた丸い空間があり、木製の古びたベンチが陽の光を浴びていた。
 脱力感に襲われたので、ケースケはベンチに座ることにした。近づいて手すりをなぞり、座面に腰掛ける。少しきしんだ音がしたけれど、座るには問題なさそうだった。
 太陽は眩しく照っているし、その光線がひまわりの橙色をいっそう眩く輝かせている。背もたれに重心を預けて、目を閉じ首の力を抜いた。心地いい。日光は熱いが、刺すような強さではない。リラックスして、脈が緩やかになっていくのがわかった。胸元で張り詰めていた緊張がゆっくりと解けていくようだった。
 かたん、と音がした。目を開けてずり下がっていた姿勢を正すと、自分の傍らで白い何かが光を反射していた。手に取ってみると、それは時計のようだった。カラフルな盤面を半球状の透明なドームが覆っていて、白いベルトには癖がついているのか、手首の細さにくるりと丸まっている。
「これって…?」
 ケースケはしばらくそれを眺め回したあとで、自分の手首に装着してみた。時間調節のつまみだと思った部分はどうやらボタンのようで、押すと赤みがかった光が前方を照らし出したが、日中の眩しさにライトはほとんど溶けてしまっていた。
「へええ、けっこう便利じゃん!」
 面白がって何回もライトを点滅させていると、急に白い腕が視界に入ってきて、ボタンを押す手をがしっと掴んで制止される。驚く間もなく、
「ちょっと!そんなにしたら壊れちゃうでしょうが!」
「うわっ!」
 金切り声で怒鳴ったのは奇妙な物体だった。面食らって、ケースケはそれを凝視したけれど、よく分からない。絶対に人間ではない。顔面大の白い、ねじりとった白玉みたいな球体に、まん丸の目と青い唇が乗っかっている。ふわふわと浮いていて、触れている手がやたらと冷たかった。
「聞いてるんでぃすか!?まったく、今更こんなことを注意されるなんてどうしたんです?」
 それは大げさな仕草で肩……少なくとも腕の付け根の箇所……をすくめ、わざとらしいため息をついてみせた。どこか胡散臭く、コミカルなのにどこか不安を与える見た目をしている。
「えっと……誰?というか、何?」
「ふふふ……とぼけようったってそうはいきませんよ。ワタクシはアナタの超有能な執事です!忘れたとは言わせませんよ!」
 はあ? ケースケは思った。どうやらこいつは自分を知っているらしかったが、ケースケからすると知らないどころか未知の生物なのである。
「あ、あのさ。誰かと人違いしてるんじゃないかな……」
 勢いに呑まれつつ遠慮がちに告げても、それは逆に反骨心を発揮するばかりで、いきり立った後に自慢げな表情で胸を張った。
「ワタクシが!?まさか!有り得ません、お仕えする主人を見誤るなど言語道断!アナタ様は、天野……」
「……え?」
 蝉が、急に鳴き始めた。小刻みに波打つだけのジージーという音が、なぜかあれだけうるさい白い餅の声を遮って聞こえなかった。
「……きゅんです!」
「えっと……何?」
「今度は無視!?なんか今日いつもにも増して扱いが雑じゃありゃーせんかあ?」
「いや、違くて!ホントに聞こえなかったんだって……」
 蝉の声は既に背景音に戻って、もはや何ものも阻害しない。けれどさっきは、確かに。耳にイヤホンを差したみたいに、聴覚を占領していたのだ。
 目の前のそれは不貞腐れたような表情で腕を組んでいる。ねえ……とケースケが声を掛けると、いいんです、こんなのいつもの事ですから、と地面に座り込み、人差し指でぐるぐると螺旋を地面に描き始めた。
 なんなんだ、これは。
「め、めんどくさ……」
  いやでも、確かに自分が悪いのかもしれない、と、そんな気がしてくるいじけようだった。ケースケはふっと息を吐くとしゃがみこんで、哀愁漂う背中に声を掛けようとしたのだが、なんの気まぐれだろうか、立ち上がって、全く知らない素振りでくるりとそっぽを向き、そのまま遠ざかる方向に歩き始めた。あぜ道が徐々に広さを増して胃のような形に広がる広場を突っ切って、言うなれば食道に逆流しかけようとしたとき、
「ってオイ!!無視すんなコラァ!!!!」
 と目の前に白い物体が、唾を飛ばしながら滑り込んできた。やっぱり。ケースケは思った。こうなると思った、いつもこうなんだから、ウィスパーは!
「……え?」
 ケースケはちょっと首を傾げて、無意識に瞳を空中に向けて二、三度、まばたきをした。
「……ウィスパー?」
 恐る恐る指をさすと、白い塊が目をゆっくりと、舐めるように細める。抑揚のない黒目が一瞬てらりと光って、覗き込むケースケの姿を朧気に映し出した。ケースケが、思わず、一歩後ずさった時、
「やれやれ、やっとおふざけが終わりましたか」
 といつもの調子でウィスパーが、茶化した。
「ねえ、ここ……どこなの?」
 不安になってケースケが聞いた。
「行けば分かるでうぃす!」
 ウィスパーはわざとらしくもある明るい声で言い、空中で翻る。そうしてそのまま、ねえ行きましょうよ、とウィスパーが広場の先へケースケの歩をうながした。
 恐ろしい。今ケースケは確かに恐ろしいのに、なぜだか体が歩みを止めない。ほら。ウィスパーが囁く。ほら、ほら。その声がだんだん大きくなる。ほら!
 広場が徐々にすぼんでいって、あぜ道へと続く。ひまわりに囲まれていた広場はしかし、進む事に緑が深くなっていく。最初はくるぶしほどだった雑草は進むにつれ膝の丈にまで伸び、木々が落とす影も濃くなっていく。ケースケの額を汗が伝って、前髪を張り付けた。
 ケースケはいつしか不思議な感覚に満たされていた。雑草を足で割り、足元の小石を避け、そうやって進んでいくごとに、既視感が強まっていく。いや、そんな生易しいものではない。確かにケースケには、この場所が懐かしかった。それどころかもう歩いている自覚すらないほど、何かに、突き動かされて。うしろから着いてくるウィスパーが鼻歌を歌っている。童謡のような短い旋律を繰り返している。
 しばらく歩き続けると、正面にぽつんと何かが置かれている。人工物のようだった。近付いて注視してみると、立ち入り禁止の置き看板だった。元は黄色だったようだが色褪せ、文字も薄れている。立ち止まったケースケの背後からウィスパーがつうっ、と飛んでいき、看板の真上で浮遊した。
「蹴ってください」
 蝉の声は止んでいた。
「え?」
「この看板を蹴って、こちらに来てください」
「でも……」
 ウィスパーが近くに来て、ケースケの頬を両手で包む。
「大丈夫。それでぜんぶ、終わりますから……」
 こわいくらいの静寂の中、烏の一際大きな鳴き声がした。
 自分の足が持ち上がるのを、ケースケは感じ取る。最早どうすることもできないというのも。意思の外、存外に軽い動作でつま先が看板を蹴飛ばし、それは少し跳ねて、草を潰し横たわった。
 瞬間、頭上のあちこちから飛び立つ羽音が聞こえたかと思うと、まぶしいくらいの木漏れ日が、ふたりへと、降り注いだ。
「ウィスパー……」
 ケースケは、喋っていない。けれども確かにこの口から発せられたのが自分でも分かっていた。ケースケの体は、さっきまで看板が塞いでいたところをなんの躊躇もなく通り抜ける。ゆっくりと、踏み締めるように。
「ごめんね」
 ウィスパーはゆるゆると首を振る。「いいえ」
「ずっと、待っていましたでうぃす」
 夢を見ているようだった。自分の意識はあるのになにもできない。声を出すことを体を動かすことも出来ない。今自分を動かしているのは、自分ではない誰かだ。しかし不思議ともう、恐ろしくはない。
 ふたりの目の前にはしめ縄をいただいた巨木があり、その根元にはそぐわぬガチャガチャの機械がぽつんと佇んでいる。
「ウィスパー、オレ……」
 上手く言葉を継げないのか、オレね、ともう一度噛み締めて、つづける。「見えなくても……みんなのこと、ウィスパーのこと、忘れたことは一日もなかったよ」
「ワタクシもですよ」
 ウィスパーの声は穏やかだった。
「これからだって、忘れることはないでうぃす」
それを微笑みで受け止めて、「たまにさ」と、ウィスパーに背を向ける。背中側で握り合わせた手の力を、きゅっと強くしてから、「たまに……見えなくても、ウィスパーやジバニャンがそばに居てくれる気がしてた」
 ええ、と、後ろから聞こえたウィスパーの口調はいつになく優しい。「いつだっていますとも」
 ケースケは、泣いていた。あの二人の間には何があるのか、そもそも今自分の中にいるのが誰なのか、それすらきちんと分からないのに。ケースケの中にいるだれかが、瞳から落ちた雫に驚いてまばたきをした。
「なんであーたが泣くんでうぃす」
 ウィスパーがケースケの顔を覗き込んで、どこからともなく取り出したハンカチで頬を拭ってくれる。
「だって……」これが、しばらくぶりにケースケが自分の意思で発した言葉だった。でも、そこから先は言葉にならずに嗚咽になってしまった。
「申し訳ありませんでうぃす。あなたを利用してしまって」
 ウィスパーがケースケを見つめた。ケースケ自身に向けた言葉だとなぜだか分かる。それは、口調に込められた親密さ、というのか、ケースケに対しても打ち解けたような声音ではあったが、もう一人と話すときのウィスパーには昔なじみを見るような、それでいて自分の子供でも見るような、隠しきれない慈しみのようなものが滲んでいるのだ。
「オレ……最初はこわかったよ。でもなんだか今は懐かしくて、それに……不思議な気もちなんだ」
「あなたが、ワタクシ達を繋いでくれたんでぃす」
「オレが?」
 はい。ウィスパーが頷く。そしてケースケの方を見て、しかしケースケの奥の奥の方まで見つめるように、呼びかける。
「ケータくん」
 その瞬間ケースケの体から主導権が失われる。このひとは、ケータというのか。どこかで聞いた事のあるような名前だった。
「もうすぐ時間です」
「そっか。」
 ケータという名の彼は、落ち着いていた。おそらく別れが迫っているのだろうに取り乱しもしない。それがケースケには悲しかった。ケースケの中から少しずつ、ケータの存在が薄れていくのが分かる。きっとウィスパーにも分かっているだろう。二人は、静かに視線を交わらせるだけで何も言わない。
「ねえ!」
 気づくとケースケは叫んでいた。
「また、会えるんだよね!?これでおしまいじゃ、ないよね?」
 ウィスパーは一瞬だけ考えるような目をしてから、微笑んでみせた。「アナタが妖怪ウォッチを持っている限り、きっと」
 ケータが消える間際に呟いた。
 ありがとう、二人とも。
 蝉の鳴き声がじわじわと耳元に迫るように頭に響いてきて、そしてぱちんと、切れた。最後に少しだけ見えたウィスパーは、逆光で陰しか見えなかったが、手を振っていた。

 ケースケは草むらの中で身を起こした、らしかった。というのも、目を凝らしても何も見えない程の暗闇の中で目を覚ましたのだ。起き上がる際に地面についた手のひらに、雑草と、土の感触がした。不安になるくらいの静けさだ。どうやらカラスも鳴かないくらいの真夜中のようだった。
「オレ、どうしたんだろう」
 ケースケは訝る。こんな場所に覚えはなかった。しかもこんなところで寝ているなんて明らかにヘンだ。たしか、彼岸のお参りでひいじいちゃんの所から帰ってきて……。
 手探りしながら、立ち上がる。頬に張り付いた草や土を手の甲で拭おうとしたとき、手首にあるなにかに気がついた。指で輪郭を辿ってみたところ、それは腕時計みたいだった。けれど少し妙で、そもそもの造りが大きめだし、それに文字盤にあたるところが半球状のドームになっている。その脇には一つボタンがあって、押してみると赤みを帯びたライトが前方をわずかに照らしだした。
「へええ、けっこう便利じゃん!」
 これで帰れるかも。と思うと同時に、思うところがあった。この時計、前にもどこかで見たことがなかったか?
 そのとき風が草むらを大きく揺らして、八月の湿った風がケースケの頬をじっとりと舐めた。ケースケの周囲ではどこからかともなく雑草どうしが擦れる音が響いて、それはケースケに、やがてその雑音の中から何かがやってきそうな、そんな不安を呼び起こさせた。ケースケは帰路に就こうと急いだけれど、覚えのない原っぱで、暗闇の中、帰り道はなかなか見つからない。自分がいた場所を見失わないように、腕時計のライトを使って少しずつあたりを見回していると、ケースケの頭上よりも遥か高いところ、縦に連なった菱形の白い紙片がいくつもくくりつけてある縄が、巨木のまわりにぐるりと結んであるのを見つけた。ライトを少しずつ木の幹に沿って下げると、その木の根元には、石材で作られたガチャガチャマシーンが少し傾いて鎮座していた。それは言語化には至らなかったが、強いて言うならば、時代錯誤。そんな違和感がケースケの喉元で引っかかった。そのチグハグさゆえか、こじんまりとしていたが、存在感は強烈だった。けれど近づく勇気もなく躊躇っているケースケの耳に、声が聞こえたような気がした。低く、滑らかだ。風の音に邪魔されて所々しか聞こえないが、その声はなにやら、歌っている。民謡のような古風な旋律で、同じメロディを何度も繰り返している。風が止んでいくにつれてはっきりしていく。
 いれろ、いれろ。いれろ、いれなば、いれずんば。
 声はケースケの正面のガチャガチャから聞こえている。それの意味を理解するのにしばらくかかった。
 入れろ、入れろ。
 ケースケの足は驚きで引きつってしまったようだった。「お、オレ、なにも、もってません」
 歌声が近付いてくる。何も見えないが、声を発している何かの存在が目の前まで迫り、ケースケのまわりをぐるりと旋回した。そのままケースケが動かないでいると、肩にひんやりとした何かが触れ、体がぐいっと反転させられた。そのまま、とんっと背中が押されて、足が前に出た勢いで、ケースケの体は動き出した。気づくと歌は止んでいた。雑草原を突っ切っていくと正面、少し先にあぜ道が見えて、ケースケは必死でそこに走った。ちょうど道に入るというところ、草むらで隠れた何かにけっつまづき、よろめいて受身をとったとき、宙に浮いた何かが手を振っているのが視界の影で見えた。
 ウィスパー。なぜだかその単語が頭に浮かんだ。


 「なあ、祟りの噂、知ってるか」
 アキノリがキーボードを叩く手を止め、椅子ごと振り返った。
「たたり?」
 ナツメが繰り返す。
「ああ。オオモリ山のずっと奥のところに、古い工事現場があるんだよ。今は立ち入り禁止になってて、二十年くらい前らしいんだけどさ。でも工事に携わった人達みんなの様子がおかしくなって、止めたんだって」
「なにそれ。本格的だね、なんか……」
 オオモリ山のずっと奥のところ。ケースケは、ゲームの手を止めてこっそり耳を傾ける。
「そう思うだろ?でもよ、その祟りの内容がなんだかさ。それっぽくないっていうか……」
「なんなの?」
「ホラ吹きになるらしいぜ。あることないことみんなにバラまいちゃうっていう……だから怪我人とか死人は出てないらしいんだけど」
「そこまで癖があると、むしろ妖怪のしわざっぽいわ……」
 だろ?とアキノリが、指を指して同調する。ケースケは、一週間前に迷い込んだあの場所の事を考えていた。
 雑草に囲まれたあぜ道を走り抜けて、学校の裏が見えたとき、それで初めてあそこがオオモリ山だというのが分かったのだった。ケースケはあれから時々、夢を見た。自分が必死に逃げてきたあの場所の夢だ。そこには眩しいくらいの陽が差して、蝉が鳴いて、ひとつの姿が木の正面でふわふわ浮いている。その姿が、こちらを向いて手を振っている。そして、自分も手を振り返す……。
「行ってみる?」 気がつくとふたりが話している。ケースケは、咄嗟に声を上げてしまった。
「あのさ!」
 なによ、とナツメが首を回す。ケースケは少し困りながらも、おずおずと誤魔化すように言った。
「あそこ、何もなかったよ」
「なんであんたが知ってるのよ?」
「いや……。虫、取りにオオモリ山に行ったらさ。結構奥まで入っちゃって。でも、なにもなかったよ。本当に」
 ふうん、と二人が頷く。どうやら興味の大半を失ったようだった。「じゃあ、ただの噂か」
 あからさまにほっとしたのが自分でも分かって、不思議だった。
「ていうか、そもそもそんなのいる訳ないし!」気をそらすように言って、思う。
 なんでオレ、こんなことしたんだろう?頭に、朧気ながらまた浮かんだ。白い塊が発する声。こちらに向かって、手を振りながら。
 ……くん。
 自分ではない。けれども、懐かしい感じが確かにする。
 釈然としないまま手元のゲーム機に視線を戻すと、ゲームオーバーになっていた。



天野ケースケが不思議な体験をしてから二日後の昼間、ナツメもケースケもまだ学校にいる頃、部屋の掃除をしようとして二人の部屋に入った人がいた。彼はケースケの机の上で、妙な時計を見つける。白いベルトで、文字盤は透明のドームに覆われている。使い古されたのかすこし薄汚れて、ベルトには手首の癖がついて、くるんと丸まっていた。三十年ぶりに目にしたそれを自分の手首にあてがって、天野景太は少しだけ、泣いた。
20190311








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