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 女の声が聞こえる。か細く、けれど鋭い。甲高い声だ。ほど近い所で起こっては頬を掠め、鼓膜にまとわりついて脳を引っ掻く。知らない女の声。それはヒイロが胸に長いこと沈ませていた澱を巻き上げ、波立たせるけれども、ヒイロにはどうすることもできなかった。ぽっかりと暗いところに意識だけが浮いて、耳を塞ぐ腕すらも回路が千切れたように重くぶら下がるばかりで動かず、姿無く響き渡る悲鳴にじっと忍ぶことしかできない。思わずその身を強張らせる、するとその分だけ、尖った声の切っ先は鋭くヒイロの身に突き刺さって疼くのだった。ヒイロは思わず口を開いていた。苦痛に喘ぐためではなく、ただ何かを言おうとして、けれど喉元で蟠った何かは形にならず、外気に触れる前にほろほろと崩れた。ただ薄く開いた唇だけが後に残された。乾いた舌先がかすかに動いて、歯列の裏側をさわる。吸い込もうとした息が、気管を詰まらせる。
 悲鳴は止まない。それどころか四方から止んでは響き止んでは響き、波のようにうなってヒイロにのしかかる。絶望のうちに地を這う掠れ声、拒絶を含んだ割れるような声、諦観に滲むすすり泣きの声、連なった声が耳を通り、ほどけて、一つ一つの泣き声が粒立って聞こえてくる。ヒイロの脳がそれらを聞き分けられたのは、何よりヒイロがそれを聞いたことがあったからだ。
 引き金を引く指の感触、構えた銃の向こうで縮こまる姿、あるいは気づきもしないで踏み潰されて、鋼鉄にこびりついた赤黒いしみ、それらが発した最後の肉声。ヒイロはそれを確かに聞き、そして終わらせた。光を受けてきらめく白いワンピース、あどけない声、差し出される花、それらをどす黒い炎が包んで、最後には何も残らない。ヒイロはずっとそこに立ち尽くしている。自らが焼き尽くした大地を、ずっとその足で踏みしめている。

 ヒイロは目を覚ます。長く閉ざされていた瞳が、よく見えるようになるのにはしばらくかかった。最初に分かったのは白。徐々に広がる視界にたちまち差したその色が、ぼんやりとまぶしくヒイロをひるませ、思わず逃げた瞳の奥に奇妙な残像を焼きつける。苦心しながらもレンズを拭き上げるようなまばたきを繰り返すと、ようやく視界はゆるやかに焦点を結んで、吸い込む空気も新しくなる。冷たく、肺が洗われるような、知らない空気だ。体内の澱みが澄んでいって、指先にまで神経が通ると、久しく弛緩していた指のひとつが不意に、ぴくりと跳ねた。両手は胸の上で組み合わせられていて、その指の隙間に、じっとりと汗が滲んでいるのに気がつく。それを一つ一つほどいて、体の横について体重を乗せると、清潔なシーツがざらりと手のひらに織り目を伝え、音を立ててわずかに沈み込む。ゆっくりと上体を起こしたヒイロの額からなにかが落ちる。それは落ちた先でシーツを濡らすと力なくくずおれてしまった。濡れタオルだ。ヒイロの体温を吸い込んで、拾い上げた手のひらをしっとりと湿らせる。
 その冷ややかな温もりを手の内に感じながら、ヒイロは辺りを見回した。物が少なく、きちんと片付けられた部屋だった。テーブルの上のマグカップや戸口のわずかにばらついたスリッパが、唯一うかがえる人間の生活痕だ。
 最初にヒイロの目に飛び込んできた白とは裏腹に、この部屋は鈍色に満ちていた。壁は光を通さない無骨な金属が打ち合わせてあり、間取りもコンパクトで、居住性より機能性を追求した造りに見える。ヒイロが寝かせられていたベッド際の壁には大きな窓があって、それが唯一、新鮮な日光を部屋に注いでいた。斜めに差し込む光の通り道だけが、闇をくりぬいたように明るく、起き抜けのヒイロの瞳を眩ませたのはこの光であった。
 手狭なのに閉塞感を感じさせない。ここで過ごす人物の暮らしぶりがヒイロにはありありと感じられた。全てのものが手の届く範囲にあって、きちんと管理されている。
 金色の光が肌をくすぐり、吹き込む風が頬を撫でる。ヒイロの心は不思議と凪いだ。こんな気持ちを最後に感じたのはいつだったか、もうはるか昔のようにも、その時だけがヒイロの人生であったようにも思えた。その間にあったさまざまなことはすべて日々の亡骸で、ヒイロが生きていたのは本当は、この不思議な心地を抱いていた瞬間のみなのだと。
 窓の外で一本の照葉樹が、実りに艶めく木の葉に風を含ませ揺れている。生い茂る肉厚な葉の一枚一枚が、風が向きを変える度に揃って陰影を変化させ、魚の鱗のようにも、あるあは小魚の群れのようにも見える。絶えることのない揺らめきの中で、いっとう強く風が吹いたのか、何枚かの葉が木から離れて散らされ、ちらちらとひらめきながら地面に落ち、芝生の指先ともつれあいながら草原を滑っていったかと思うと、前触れなくふわりと宙に浮いて、高く高くに舞い上がっていく。その先で三つ四つと飛び出したのは小鳥の群れ、弾丸の如く草むらから飛び出した体が太陽と重なったそのとき、小さな翼が膨らみ波立ち、けれどその翼が悠然と風を孕むのは一瞬、すぐに小鳥らしいせせこましさで忙しなく羽ばたきはじめ、離れたり身を寄せ合ったり、けれど決してはぐれることなく、丘の向こうの町並みに向かって飛んでいく。ヒイロにはもう見えない。葉っぱや小鳥がどこへ行ってしまったのか、ヒイロの目にも、もうわからない。
 戸口にもたれて、その横姿を見つめる影があった。けれどもヒイロは動かなかった。すきま風に髪をなびかせるままにして、頬を光に縁取らせて。影はゆっくりと近づき、ベッドの傍の椅子に腰かける。ヒイロの意識を妨げない、ほとんど音のしない動作だ。それでも普段なら、ヒイロは気付いていたに違いなかった。そういう訓練を受けている。晒された無防備を見定めるような視線がヒイロに向けられたが、すぐに解ける。二つの影は互いの領域を侵すことなく、ただ緩やかに時が流れる。
「何か気になるようだな」
 ヒイロのまぶたがぴくりと動いたそのとき、ついに沈黙が破られた。ヒイロは振り向く。反射的な動きだった。開いた瞳孔が声の主を捉えると狭まる。
 トロワ・バートンと呼ばれる少年がそこにいた。落ち着いた佇まい、ヒイロにとっては異物に他ならないのに、まるで最初からそこにいたかのようにこの部屋と調和する。ヒイロは彼の名前しか知らない。その名前すらもトロワの生来のものではない。借り物だ。しかしトロワの纏う空気は、ヒイロが先ほど思い描いた部屋の主と不思議に一致した。それがなにより状況を語った。ヒイロを介抱していたのは、このトロワ・バートンに他ならないと。
「見張りなら心配するな。どちらにしろしばらくは追ってこないだろう」
 手に持っていたマグカップの一つを差し出しながらトロワが告げた。受け取ろうとヒイロが手を伸ばすと、肋骨のあたりに激痛が走る。見下ろすと胸から腹にかけて、包帯がきっちりと巻かれていた。
「あまり無理をするな。完治は当分先になる。もっともあの爆発では、生きていたのが十分奇跡的だ」
 トロワが痛みに竦んだヒイロの手にカップを包ませてくれると、冷えていた指先にすぐに温度が流れ込むのがわかる。立ちのぼる湯気を鼻先で受けながら、頭の片隅にあの爆風がよぎった。ヒイロはあの中にいた。一瞬で膨らんだ赤い熱が鋼鉄よりも硬い合金を砕き、粉々に吹き飛ばすそのさなかに。そうしなければいけなかった。そうすることをヒイロが選んだ。
 とろみのある白い液体がカップの中で揺れている。口をつけると、甘いやわらかな口当たりが広がって、温もりを煮詰めたら、こんな味になるだろうと朧気に思う。飲み込むと熱が喉元を過ぎり、腹の奥底でかっと燃え上がるのがわかる。
「なぜ助けた」
 ヒイロが口を開いた。それは静かな呟きだった。その問いが、口の中を侵食する甘い舌触りとすぐさま乖離していくのを感じながらもヒイロは投げ掛けていた。やわらかな日差しと、この温もりと、爽やかなシーツと。すべてがヒイロを優しく抱いていた。しかしそれを快と享受するには、もうヒイロの肌はあまりにも硬く無骨すぎる。
 トロワは何も言わなかった。代わりにテレビを点けてみせた。手元のスイッチを操作すると、壁に埋め込まれたモニターが灯る。ニュースのレポーターが険しい面持ちで報じているのは、未だに反抗勢力によるOZへのテロ行為は続いているということのみで、宇宙コロニー壊滅のニュースはない。
 今地球圏を事実上支配しているOZは、巧みな印象操作で世論を味方につけている。もしヒイロが実は生きていたと知られていたならば、あのときヒイロが自分の命と引き換えにしたコロニーは、既に堕とされているはずだ。しかもそれは、ヒイロたちガンダムのパイロットに濡れ衣を着せる形で、正体不明のテロリストの破壊工作として悲劇的に報じられることになる。OZはコロニーと地球との平和を乱したばかりか、コロニーへの攻撃も厭わなかった。確かにヒイロはOZを倒すためにコロニーから地球へと送り込まれた。しかしそれはコロニー住人の総意ではない。一部の科学者たちの決死の反抗である。それでもOZの士官はあのとき、ヒイロを排除するためだけに、なんの罪もない人々の生活を一瞬で塵にできる兵器を、ためらわずにコロニーへと向けた。
「おまえの故郷も含め、コロニーに対するOZの動きは今のところない。やつらにとって、あのときおまえは死んだ、ということになっているらしい」
 今や、ヒイロの命は捨て置かれているということだ。それはヒイロの自由を意味していた。ヒイロの戦う理由は、もうどこにもなかった。これまでヒイロを動かしてきたコロニーとの繋がりも絶え、自爆装置によって不完全な抜け殻になってしまった機体すらも、もうヒイロの手元にはない。
 ニュースはテロからガンダムの話題に移り、過去に起きた数々の破壊工作を糾弾している。トロワはマグカップを口元で傾けながら、もう片方の手でテレビの電源を落とす。沈黙が反響して、窓の外で木の葉が擦れる音が急に大きく聞こえてくる。
「これからどうするつもりだ」
 沈黙が二人を打った。部屋の外で風は一層強まり、女の悲鳴を思わせる甲高い音で空気を揺らした。トロワの答えを聞いてどうしようというのか、ヒイロにも分からない。一度吹き始めた風は止まないばかりか勢いを増し、木々にその身を裂かせては悲鳴の苛烈さを響かせている。ヒイロは吸い寄せられるように窓の外を見た。木が手招きをする指先のように、木の葉を波打たせ蠢いていた。トロワもそれを見た。ヒイロの肩越しに、窓の外の空が曇り始めたのを。
 そのときノックの音が聞こえた。軽やかに二回叩かれたかと思うと、トロワの返事を待たずに扉が開く。
「ああっ、気がついたのね。よかったぁ」
 ベッドの上のヒイロを見るなり駆け寄ってきたのは、二人より少し年上と思われる女性だった。すらりとした体躯は彼女に少女のような雰囲気をまとわせ、頬にかかる巻き毛が歩くたびに揺れる。
「初めまして。私はキャスリン、トロワの仕事仲間。心配したのよ、あなた、ひと月も眠ってたんだから」
「ひと月……」
 一ヵ月。長すぎる空白だ。宇宙コロニーと地球の情勢はひっ迫している。だからこそのガンダムなのだ。けれどもうヒイロには、何もするべき手立てはないのだ。
 それきり沈黙したヒイロに、キャスリンは腰に手を当て、眉を上げてみせる。その動作とは裏腹に口元は緩やかな弧を描いて、彼女の気立てのよさを伺わせた。
「ええ。トロワが大ケガしたあなたを連れて帰ってきたときは、もうびっくりしちゃった。その日の公演は落ち着かなくって、ナイフ投げの手元がくるわないかちょっと心配だったわ。トロワはいつもと変わらず、完璧に綱渡りをこなしてたけどね」
「公演?」
「巡業サーカスだ。俺が今身を寄せている」
 腕を組んだトロワが事も無げに言った。
「すごいのよ、トロワは。いきなりサーカスにやってきたと思ったら、なんでもこなしちゃうの。本番では仮面で半分隠れちゃうけど、かわいい顔だしお客さんに人気もあるのよ」
 ね、トロワ、とキャスリンはいたずらっぽく片目を瞑ったが、トロワは「それが仕事だ」とそっけない。それがたとえ一時の享楽を与える道化だとしても、求められる役割を淡々とこなすのが、トロワという男であるらしかった。
「そうだわ、おなか、空いてるわよね。胃に優しいもの、なにか作ってくるから!」
 顔の前で合わせられた両手がぱっと開いたかと思うと、キャスリンは小走りで部屋の奥へと駆けていく。部屋の奥はいったん細くなって、通路の奥に小さなキッチンが続いているらしい。
「サーカスなんてものが、地球にはあるのか」
 その後ろ姿を見送りながらヒイロは呟く。
「ああ。各地を巡りながらショーをしている。さしずめ、刺激的な娯楽とでもいうところか」
 娯楽。サーカス。ヒイロは頭の中でうまく像を結ばないその言葉を繰り返し、そうか、と短い返答だけを返す。トロワは変わらず腕を組んだままで応じた。
「気が向いたら、おまえも見てみるといい」
「ああ……」
 その言葉のさりげなさが、ヒイロをなぜか落ち着かせる。ヒイロは一つ息をつき、湖のように静かなこの少年を見上げる。
「そうだな」
 そのとき、キッチンのほうからぱたぱたと足音がした。二人が目を向けると、戸口からおたまを片手に持ったままのキャスリンが顔を出す。
「いけない、トロワ。団長が今日の打ち合わせをしたいって言ってたんだった。ほら、風が強くなってきてたでしょ。ロープが風に煽られると危険だから、あなたと確認しておきたいんだって。時間があるときに来てほしいって」
 トロワは言葉少なに諾う。それを聞くと、もう少し待っててね、と言い残して、キャスリンはキッチンへと身を翻す。その姿が消えた奥からは、湯が沸くシュンシュンという音がかすかに聞こえてくる。
「だそうだ。少し外すが、問題はないな」
 トロワが椅子から立ち上がって言った。やはり音のない静かな動作だった。ヒイロは頷きだけを返す。トロワもそれを見るとかすかに顎を縦に動かして、出口の扉に手をかける。蝶番が音を立てて、トロワは無駄のない動きで扉の隙間から身を滑らせたが、その一瞬、風が中へと吹き込んできた。
 キャスリンが言っていた通り、気付くと外の風は更に強くなっていた。ヒイロが残された部屋はすっかり静かで、時折キッチンから気配がする以外、何の物音もしない。
 だからだろうか、近くの窓から吹き込んでくる風の音が一際大きくヒイロの耳に届く。鋭く、大きく吹きこんでヒイロの体を冷やす。切り裂くような、切り裂かれるような、鋭く痛ましい声音で風は叫ぶ。ヒイロは目を閉じた。この音に、もうずっとヒイロは苛まれ続けているような気がする。
 ヒイロは自らの手で堕としたシャトルの、最後の瞬間を思い出す。敵の情報に踊らされ、ヒイロは連合の平和主義者たちをその手で屠った。墜落していくシャトルの、あの窓から見えた目。あれは、コックピットの中のヒイロを確かに見ていた。
「ごめんなさい、待たせちゃったわね。これ、あなたの口に合うといいんだけど」
 目を開ける。湯気の立つボウルを持って、キャスリンが部屋に入ってくる。白く立ち上る湯気は一瞬で空気に溶けて、煮込んだトマトと香辛料の香りを部屋に広げ、ヒイロの鼻腔を確かに刺激した。昏睡していたヒイロの肉体はエネルギーを求めて覚醒し、口内に唾液を滲ませ、腹の中では胃液を湧き立たせる。ひとりでに、自動的に、ヒイロの意思とは関わりなく。
 はい、とキャスリンがスープの入った器をヒイロの手元に差し出す。受け取ろうと徐に持ち上げられたヒイロの手が、滑らかな器の表面に触れた瞬間、
「あなた、寒いの?」
 とキャスリンがきいた。ヒイロは顔を上げる。その指先は、小さく小さく、震えていた。
「気付かなくてごめんなさい、すぐ、窓を閉めるから」
 キャスリンは器を傍らの椅子に一度置くと、身を乗り出し、わずかに開いていた窓を閉めようと手を伸ばした。しかし窓枠にかけた指先を、ヒイロの手が反射的に掴んで制した。
 いいんだ、とヒイロは言った。このままでいい、と。キャスリンは身を引いてスープの器を取り上げ、代わりに自分がそこに腰かける。ヒイロは未だ震える手元へと目線を落とす。なぜだか、震えが止む気配はなかった。
「これ、あたたかいから……」
 キャスリンはヒイロの手を取り、まだ熱の残るスープの器へと添わせる。ヒイロは逆らわない。もう片方の手も同じようにして、ヒイロの手のひらにスープを包ませる。
 ヒイロの手の中で、赤々とした液体が揺れている。トマトを煮潰して、肉と野菜の旨味が溶けて、その油分が表面に丸い形をして浮かんでいる。ヒイロの手の震えが伝わると、小さな波紋が丸い器の中に起こる。
 ヒイロはずっと分かっている。これはただの風の音だということを。どうしたってちゃんと、分かっている、分かっている、分かっている、そのはずなのに。

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