洞窟のイデア
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 また、夢を見た。汗で額にべっとり張り付いた髪をかきあげて、そのまま、暗い虚空をぼうっと眺め、この動悸が一刻も早く鎮まりますようにと願う。いつもの夢だ。乱れた呼吸に重なるのは、発作にあえいで、痛みを和らげようと背を丸める、僕が置き去りにした……。
 きゅっと目を瞑った暗闇は、あの真っ暗な部屋と同じだ。光は差さない、小さな部屋、誰かが泣いている声がする。いやもう分かっている、暗闇の真ん中で、膝を抱えて小さくすすり泣く背中……。陸、と僕は呼ぶ。大丈夫、怖くないよ。僕がついてる。ほら、なんのお話が聞きたい?いつまでも泣いていると、こわい魔女が来て弱虫を食べちゃうぞ。怪物のふりをして華奢な体をくすぐりまわすと、次第にしゃくり上げる声が、黄色い抗議の色へと染まる。僕の体は陸を喜ばせようとひとりでに動く。小さな、小さな、僕の弟。涙で濡れていた瞳にはいつの間にか、期待の色が滲んでいる。そうして僕をきらきらした目で見つめる、僕の初めてのお客さん、ただ一人の観客。君と僕がいれば、いつだってショーは幕をあける。演目は君次第、君が笑うのなら、僕はピエロだって喜んでやる。真っ暗だって、君が笑うのなら幸せだ。だってその笑顔で照らせないものなんてどこにもない。
 目を開けると、やがて視界は焦点を結び、見慣れた部屋の天井が映る。枕元の時計は三時を示している。今から寝れば、二時間は眠れる。心臓は、いつのまにか自分のペースを取り戻して、重く、ゆったりと脈を刻んでいた。大丈夫。いつも通りだ。
 あの夢を見るのはしばらくぶりだった。今日、道端で遠く聞いた声。かすかだったけれど、鼓膜を、真っ直ぐ突き抜けて記憶に届いた。柔らかく、けれどよく通る。僕のそれとも似ているけれど、その温度は、僅かに違う。予感はあった。けれど、充足に忙殺されて張り詰めた毎日でさえ、一瞬その歩みを止めてしまいそうなほど、その声は……。記憶のテープを巻き戻すように、何度も、何度もその声を頭で聞く。自然と僕は歌い始める。その声に合わせて、ゆるやかにハミングする。僕が知っているより、ずっと豊かな声だった。それを、無尽蔵に張り上げられたなら!そんなことを、陸より誰より、いくら願ったか知れない。不毛。声に出して呟いたそれこそが、なにより不毛だ。そんなものに囚われているから、あの光景がまた夢に出る。真っ暗な部屋、幼い僕ら、その最後に僕は片割れを捨てる。
 陸がいればそれでよかった。真っ暗闇でも。他の誰もがいなくても。なのに、真っ暗だった部屋には、いつのまにか光が差していた。扉だ。四角くくり抜かれた扉の向こうから無限の光が差している。そして、そのむこうで真っ黒な人影が、ぽつんと立って僕を待っている。僕は、あそこに行かなきゃならない。ゆっくりと歩み始めた僕の手が後ろに引かれる。陸だ。座り込んだ陸が、両手で僕を引き止めようとする。汗で湿った子どもっぽい手のひらが、何度滑ろうと僕の手を離すまいと握り直す。僕は振り向かない。背後で嗚咽が嗚咽が漏れ始めても。僕を何度も呼ぶ声が聞こえようとも。発作の兆候が顕れ始めても、息が気管で詰まる痙攣の呻きが漏れようとも。そうして最後に離れた手のひらをも振り向かずに、僕は真っ暗な部屋を出る。扉をくぐる寸前、一瞬だけ首を向けてみると、肩の向こうで見えたのは僕の影だった。僕の形に伸びた影が、部屋の中でうずくまる陸の上に落ちる。それが最後だった。
 その部屋の外で、今日も僕はステージに立つ。真っ暗な部屋からは出たはずなのに、そこは暗いドームで、しかし無数のサイリウムが色とりどりにきらめく……。ライトを浴びている間、僕は笑える。九条天でいられる。僕に生きる力を分け与えてくれる。素晴らしい仕事さ。家族を捨ててまでやらなきゃいけない事なんだから!なんとまあ、馬鹿げた皮肉。僕は誇りを持っている。九条天に。トリガーに。けれど分かっている。僕がたった一人、背を向けている観客がいることを。光を浴びる僕の背中でうずくまる小さな影。ごめん、僕はもう君には歌えない。君がもう、その身を焦がして歌おうなんて思わないように。
 かわいい、かわいい、僕の弟。

20200717








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