浄土
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 いやだ、怖い、怖いよ。
 善逸は一目散に走った。深い山林のあぜ道、時折突き出す木の幹や根をかわしながら飛ぶかのように。視界はどこまでも暗く、でっぷりと更けた山奥の夜、得体の知れぬ不気味さに包まれていた。一刻も早く遠ざかりたいと、心臓がうるさいほどに言っている。耳朶を通り過ぎていく風、全身を巡る血潮、早鐘を打つ鼓動、喉元をひりつかせる息の音がすべて、ひっきりなしに耳に響いてくる。
 あのとき、全身が凍りつくほどのおそれを感じたあの一瞬、善逸の体は硬直したが、すぐに脳のしんから、かっと燃え上がる本能が体を突き動かしてそのまま、もう、どれほど走ったかも分からぬ。
「ぜんいつ」
 あれは、違った。優しげに目を細め、人の警戒心を解きほぐすような微笑みで、敵意を完全に排した声色でこちらを呼び寄せようとも、あれは。
 炭治郎ではなかった、決して。決して、決して。

「おおい、だれかあ」
 むろん、返事は無い。踏み締めた小枝が折れる音で思わず飛び退いた善逸の口から、か細い悲鳴が飛び出る。
「ハァ分かってますけど、はい枝、木の枝ね!分かっててもびっくりしちゃうでしょうが!」
 もう、と足元の枝を睨みつけ、歯と歯のすき間から漏れる震えるため息をそのままに、歩みを再開する。一人は怖い。一人じゃなくても怖いけど。否応なしに気が張り詰め、些細な事で恐怖心が暴れてしまうのは善逸の常だが、今は一際心細い。夜の帳が、やけに重い。
 夜に動く鬼殺隊ともあればそれなり、夜目は効く。いま善逸が光を拾えるのは一尺ほどであろうか、両の腕の届く範囲では動作に支障はない。しかし尋常の夜ならば、どんな夜中だろうと辺り一帯を見通せないはずはない。そういう訓練をした。はるか頭上にあるのは広がった梢なのか夜空なのか判別つかず、そこからは深い暗闇が降っていて、その下に立つ幹を更に暗くしていた。踏み締める足元には枯れ葉が敷き詰められ、その間になんとなくできたあぜ道がどこかに続いている。善逸は身震いした。寒々とした空気はおそらく、季節のせいだけではない。
 ここは静かすぎる。善逸の耳に届くのは、落ち葉が砕けるパリパリという細かな音、自身の肉の内側から聞こえる息と血と鼓動の音、擦れる羽織の布の音、遠くで木々が落とすざわめき、だけであった。生き物には音がある。人にも、鬼にも。もちろん獣にも。それが、ここにはない。
 善逸は生まれ付いて耳が良い。それは単なる感覚器官としてではなく、人の機微や嘘さえ聞き分けることのできる耳である。普段善逸がこういう自然の中に分け入ろうものならば、囀ったり身づくろいをしたり、跳ねたり羽ばたいたり、掘ったり、駆けたりする小さな小さな音が、時に喜びや痛みという感情さえを伴って聞こえてくる。人間が発する音とは違ってうるさくない音だ。ひとつひとつの微かな音が大きなまとまりに調和して、包み込んでくれる心地よさがある。
 いつも多くの音に囲まれて生きている善逸にとって、完全な静寂というものは無いに等しい。それがどうだ、ここで善逸が立ち止まろうものならば、時折木の肌が擦れ合うざわめき以外に、なにも無い。それが怖くて、善逸は立ち止まることすらできない。
「一体どうしちゃったの、なんで俺こんな所に置き去りにされてんの?いや敵の音がしないのは嬉しいけれども、めちゃくちゃ一人ぼっちだし、ねえ、お願いだから誰か助けてくださいよ。後生だから……」
 恐怖を紛らわしたくて言葉を発すると、ついでに静けさも掻き消せる。善逸は元々よく喋った。相手が自分の話を聞いてくれるなら、いつまでだって話していられる気がする。ねずこちゃん、ねずこちゃん、と善逸は唱えてみた。この恐怖から少しでも逃れたかったのだ。
「この間も禰豆子ちゃんに、町で見かけたきれいな簪のことを話したっけなぁ、あの時の禰豆子ちゃん最高にかわいかったなぁ、どこにいるのかなあ」
 禰豆子は赤ん坊のような表情で善逸の話を聞いてくれた。話の意味をどこまで理解しているのかは善逸にはわからなかったが、時折善逸の語り口調に合わせて目の色が変わったような気がした。昼間なのに珍しく箱から頭だけを出して、明るい声色の時には明るく、悲しげな声の時には少ししょげたような瞳をして、ジッと善逸を見つめていた禰豆子。
「こ、怖がってないかしら禰豆子ちゃん、炭治郎が一緒だといいんだけど!ああ不甲斐ない、不甲斐ないよ俺は……」
 あの兄妹を思い出すと、善逸はいつも不思議な気持ちになった。それはこんな時でも変わらずに、胸のあたりに何かが滲む。善逸には、家族が分からぬ。知らぬ人からすれば、ほとんど天涯孤独と言っても差し支えない身の上だ。家族、という言葉を聞いてまず善逸が思うのは、なんだろうなあ、というぼんやりとした感覚、少なくとも自分はそれを持って生まれてはこなかったということを、ぼんやりと思い知らされる。
 善逸は、腰に提げた剣の柄を握りしめた。振るうべきときにろくに振るえもしないのに、怯えたときにはいつもこうしてしまう。善逸にあるのは今やこれだけだからだ。剣と羽織だけが善逸の中にある繋がりだ。
 一人で生きてきた善逸に、剣を教えてくれた爺がいた。善逸にとっては、その人が家族だ。時に酷く厳しく、怒鳴り声はやかましかったが、それでも善逸に対してのなにか、とても暖かい感情をひしひしと感じさせてくれる人で、頭に拳を落とされ髪の毛をひっつかまれても、善逸は師たるその人をじいちゃん、じいちゃんと呼んで慕っていた。それにもう一人、善逸より早く其の下で剣を学んでいた兄弟子、彼とは最後まで和解こそできなかったが、しかし。ともあれ、そのぬくもりの残響を家族という言葉は思い出させる。
 家族がほしい。善逸は幸せになりたかった。それに……
「ひっ」
 耳元を、音もなく何かが這った。反射的に押さえた指先がなにかを掴んでいる。
 蜘蛛だ。小指の先よりも小さな黒い蜘蛛が、一瞬の硬直ののち逃げようと手のひらを這いずる。普段なら虫には進んで触れないけれど、心細い今となってはこの小さな虫に少し情が湧いてきて、手のひらの上でせかせかと脚を動かすところをじっと観察してみた。親指の付け根のふくらみを乗り越え、中指のまわりをぐるりと一周して、手のひらの形に沿って親指に戻る。
「蜘蛛も頑張って生きてるんだねぇ」
 善逸の声に反応したのか、小さな蜘蛛は動きを止めた。「いっそ俺も虫だったら、ってたまに思うけどね、でも俺は人間だからさ」
 もし、を考えるのは最後の最後だ。どうしようもないけど、逃げられもしないとき。逃げられた気分になりたいときだ。善逸の人生には、幸か不幸かまだ足掻く余地がある。
 はーあ、と大きくため息をついたとき、
「いてっ」
 手元にチクリと痛みが走って、思わず手を振り払ってしまった。確認すると親指の付け根の少し上、赤みが差して小さく腫れている。ちょうど、直前まで蜘蛛がいたところだ。
「なに!怒ったの?だからっていきなり噛むことないじゃない、痛いよ俺は特に弱いんだからこういうのにさあ、聞いてる?」
 足元を見回しながら声を上げても、もう蜘蛛の行方は知れない。
「おーい」
 自分以外の初めての生き物だっただけに少し寂しいけれど、見つかるまで探し回る訳にもいかない。噛まれた傷跡をもう片方の手でさする。痛みは既に治まっていた。皮膚と肉が微小に裂けただけのようだった。
 フと思いついて、後ろを振り向いてみる。変わらず木々が乱立している。が、冷静になると、さっき見回したときから何か違和感があった。善逸はそのまま、少しあぜ道を戻ってみる。と、すぐに分かった。にわかに信じがたいが、十歩足らず歩いたところで、さっきまでずっと歩いてきた小道が途絶えているのだ。木と木の間を縫うようにして伸びていた道をふさぐように両側の木がうねり、進路はもはや前にしかない。善逸は口をぱくぱくと動かした。声にならない声が言葉にもなれずに喉からひり出してくる。
「な、な、な……」
 なんで。
 敵意を感じる。今まで音もなく寄り添っていた木々たちが、頭上から善逸を嘲笑っているように見えてくる。まわりじゅう、すべてが善逸を陥れようとしているように。
「も、もう嫌あ!なんなの、なんなのさ!だっ誰か、誰か来て炭治郎、伊之助でもいい、誰か助けてえ」
 周りを見ないように脇目もふらず走りだす、と、すぐ地面から飛び出た木の根につっかかってしまった。
「ギャッ」
 辛うじて受け身を取って転がったものの、善逸はもう泣き出しそうである。
「本当に誰もいないの?いないよねこんなに静かだもん、わかってるよ、もうヤダ、もうヤダよ本当、誰か来てくれよ俺を一人にするんじゃあないよ」
 それどころか、ほとんどもう泣いていた。じわりと、生理的な涙が熱を伴って目頭から滲む。善逸は頭を抱えたまま、目を閉じて空想をはじめる。そうだ、この間の簪屋に行って禰豆子ちゃんへ何か選んでもらおう、きっと喜んでくれる、そんなに豪華なものは買えないけど、禰豆子ちゃんならなんでも似合うだろうなあ……。
「帰れたらね、帰れたら、俺一生このままかもしれないけど、ここで死ぬのかな、死ぬよ俺、こんなところで一人で死ぬのかよ、死……」
「ぜんいつ?」
 突然、背後から見知った声が聞こえた。身をよじって振り返ると、木々を分けて歩いてくる影には見覚えがある。
「たんじろ……」
 炭治郎だ。人を威圧しないその柔らかな佇まい、善逸は思わず飛びつきそうになる、しかし、強烈な違和感が体を強張らせた。
「どうした?どこか痛むのか?」
 身構えた善逸を見て、炭治郎は一歩、二歩と近づいてきた。足踏みの度に、パキパキと小枝が折れて小さな音がする。音が……。
「伊之助とは、一緒じゃなかったんだな。俺も探していたんだけど見つからないんだ」
 音だ。
「ぜんいつ?」
 炭治郎からは、何の音もしない。
 これは、
「そうか。心細かっただろうに、一人で頑張ったんだな」
 炭治郎じゃ、ない。
 善逸の膝元まで歩み寄ってきた炭治郎が、手を差し伸べる。眼前には炭治郎の微笑み、見下ろすその瞳は、仄暗い。それが、きゅっと細まって。
「うわああ!ああ!あああ!」
 善逸は駆け出した。クラウチングスタートのように、座り込んだところからそのまま、振り返りもせずに必死で走った。
「ぜんいつ?どうして逃げるんだ」
 なのに、炭治郎の姿をした何かを振り切ることができない。それはいつもの炭治郎の困った表情で眉頭を上げて、同じ間隔を保ったまま、ゆっくり、ゆっくりと歩いてくる。
「どうして、どうしてって君、炭治郎じゃあないでしょう、わかるよ俺には、騙そうとしても駄目だよ、聞こえるからね、やだもう来ないで!怖いんだよ!」
「なんでそんな事を言うんだ、折角会えたのに」
「だから音、音、音だよ!炭治郎の音じゃないの!なんなら人間の音でもないよ、音がしないんだもんおかしいでしょうが!」
 パキ、パキ。炭治郎の歩みに合わせて小枝を踏む音がする。それ以外に、気配を感じる術がない。いくら走っても背後からその音が離れない。生身の人間なら音がしない訳がない、たとえ、死体であっても。この考えは一瞬善逸の頭をよぎったが、すぐに振り払う。これは炭治郎とは一切関係ない、ただの化け物だ。
「もうこんなの余計にタチが悪いよ、お化けでも出てくれた方がよっぽどいいわ、どうしようもないよ炭治郎の顔しちゃってさ、いざ斬るとなっても斬れないよあんなの」
「ぜんいつ、話を聞くんだ、俺は」
「アアーッもう話しかけないで、聞かないよ、聞かないからね!第一お前禰豆子ちゃんはどうしたのさ、一緒じゃないのに心配する様子も見せないでさ、もし炭治郎なら見損なってるよ!」
 炭治郎もどきは禰豆子の箱を背負っていなかった。のに、懸念をおくびにも出さない。本ものの炭治郎ならばそんな事はないはずだ、絶対、絶対、絶対に。炭治郎、どこにいるの、炭治郎、炭治郎……。
「ぜんいつ」
 その声に血の気が、さっと引いた。今までとは違う、相手を黙らせる、背筋が寒くなる声色だ。思わず首だけで振り向くと、偽炭治郎が歩みを止めていた。少し俯いたところから睨め上げる目つきが善逸の、ある一点を見つめていることに気がつく。それを認識した瞬間、地面を蹴る足が空を切った。接地するはずの右脚にその感覚が無くて、地面に強かに体躯を打ち付ける。思わず咳き込む善逸の、今度は右腕が痛み出す。呻きながらも頭を必死に浮かせて偽炭治郎のほうを睨むと、その指先は、善逸の右手を指していた。熱を持って疼いている。右手足は腫れ、感覚が麻痺して立ち上がる事もできない。先刻蜘蛛に噛まれた部分から、痛みがジンジンと滲んでいる。必死に呼吸をするも、うずくまる善逸に偽炭治郎は刻々と近づいていた。額に脂汗が滲んで、地に落ちる。痛みを殺そうと目をぎゅっと瞑った瞬間、耳元でパキ、と枝が砕ける音がした。
 偽炭治郎が、刀を頭上に振りかぶっている。
「……!」
 金属音。善逸は辛うじて左手で刀を抜き、首元めがけて振り下ろされた刃を片腕で受け止めた。拮抗。押し返す力を少しでも緩めれば、斬られる。見下ろす偽炭治郎の表情は影になって見えないのに、目元だけが光を帯びてぎらついていた。
「ぜんいつ」
 耳から入った音声を処理するのに手一杯で、善逸は歯を食いしばるばかりなのに、偽炭治郎は平然と言葉を続けていく。
「ここから先、君の生きる道はきっと苛烈を極めていく。いっそ、あの時死んでいたらと思いさえするかもしれない。それでも、まだ生きたいか?」
 はい?
 その一瞬、善逸がしたのは、長い瞬きだった。
 死にたいなんて今まで何度も思ったよ。俺には家族も強さも何もないし、生きててもしょうがないし。でもどうしてか死ななかった。そりゃあさ、生き延びちゃったら生きてくしかないよね。ひとりぼっちだった俺をじいちゃんが拾ってくれて、その後も炭治郎と伊之助と禰豆子ちゃんに、色んな人に出会って、皆んなが俺を助けてくれて、俺も皆んなを助けたいって思ったりなんかして、いつのまにか、死にたいってあんまり思わなくなってたなあ、そういえばね。
 瞼が閉じて開く間に、走馬灯のように思考が巡った。最後に脳裏に浮かんだのは、不思議なことに、太陽のように明るいいつもの、本物の炭治郎の笑顔だった。禰豆子、鬼、家族、剣士、炭治郎……
「俺さア、もし俺が鬼になったりなんかしちゃった時は、炭治郎が斬ってくれたらいいなって思ったりしたけど、でも、こんなんヤだよ。俺、俺……今は何もできないけど、まだ頑張らないといけないんだ」
 善逸は幸せになりたかった。それに、周りの人を、幸せにしてみたかった。
 けれど、刀を押し返す左手にはもう力がほとんど残っていない。柄を余力いっぱい握る手は緊張と弛緩を繰り返し、ひどく震えた。徐々に自分の刀が押し下げられ、いくら力を振り絞ってもむなしく、喉元に冷たい感触がヒヤリと走った瞬間に。偽炭治郎は刀を浮かせ、そのまま鞘に納めた。そうして、また指をさす。善逸の額だ。しかし善逸が身構えた瞬間に、今回は違うとすぐにわかった。
 横たわる善逸の頭上を、蝶が一羽飛んでいる。暗がりの中でうすぼんやり光っているように見える、綺麗な蝶だ。それは少しの間善逸の顔の近くをはばたき、挨拶するみたいに鼻先に捕まった後、ヒラと右手のほうに飛んでいった。不思議なことに、ひやりとした、蝶のか細い六本の脚が右手に止まった感覚がしてから、徐々に痛みが引いていく。右手を持ち上げて見ると、蝶は幾度か指先で羽ばたいてから、今度は右脚のほうへとひらめいて行った。見なくとも、痛みがすうっと引いていくのが分かる。鼓動に合わせて脈うっていた熱が鎮静されるのが。それに合わせて呼吸も静まる。痛みでぼやけていた視界のピントがゆっくりと合っていき、その中央で炭治郎が善逸を覗き込んでいる。暗がりと痛みのせいで辛うじて分かったが、その口元は、緩い弧を描いていた。
「なんで……」
 その笑みは悲しかった。最早救えないものを目の前にして、尚慈しもうとするような微笑みだ。悲哀に彩られた赤い虹彩はそれでも揺らがずに、きゅっと細まり善逸を見つめた。
「たんじろう……」
 手を伸ばすと、答えるように炭治郎は身を屈めた。善逸の頭の横に膝をつき、おもむろに、善逸の額に手をあてがった。その手ははじめ触れるのを恐れるみたいにゆっくりと伸ばされたが、一度皮膚が触れ合うと、善逸の面に付着した土や枯れ葉を指で拭ってくれた。そのまま、その手は善逸のまぶたを覆い、目を閉じさせた後で、善逸の耳をふさぐ。皮膚が厚くなった、硬い手のひらだ。それに蓋をされて、自分の体の音がよく聞こえる。落ち着き始めた鼓動、湯が沸いたやかんからシューシューと漏れる蒸気のような血潮の音、肺に染み入る息の音、自分の音が、こんなに心地良いなんて知らなかった。この音は、確かな温もりを感じさせた。炭治郎に塞がれた耳元から、全身にじんわりと巡っていくのだった。
 それは、善逸が望んだならいつまでだって傍にいただろう。親に捨てられ、剣士に育て上げられて、生死の境を走って渡る刹那のこの世を憂うならば、甘やかな暗闇で善逸を眠らせてしまうことだって出来る。
 このまま……。それは、足元で眠りに落ちゆく善逸の姿を見下ろした。羽織は擦り切れ、肉は縮み骨は砕け、鍛えられた身体はあどけない少年の寝姿に似つかわしくないほど強くて、痛ましい。けれども、彼の耳を塞ぐ両の手から、どくん、どくんと打つ脈が伝わってくる。小さな体を満たすこの音は、間も無く善逸を現実へと引き戻すだろう。痛みや、別離や、喪失が、この先待っているだろうに。
 それはいつだって善逸の背後に控えている。鬼の牙が、爪先が、善逸の肉体を掠る一瞬、善逸の首元に指を絡ませようと待っている。
 でも、まだ。
「ぜんいつ」
 炭治郎は眠りに落ちる寸前の善逸の手を取った。「まだやることが残っているから」
 善逸の四肢は脱力して地面に投げ出されている。先刻炭治郎の刀を受け止めた左手は、今は開ききって刀の柄を零している。炭治郎はそれを自分の手で上から包みこみ、刀を握らせ、善逸の手ごと持ち上げると自分の首元へ刃を当てがった。
「こうやって」
 ぐっと力を込めると、刀が皮膚を裂いて食い込む。
「斬った感覚を覚えていなくちゃいけない。自分の手で、死を退ける生々しい感触を」
 炭治郎は更に手に力を入れて、そして。

 霹靂一閃。鬼を斬った善逸の体が宙に投げ出される。覚醒した善逸の目に真っ先に入ったのは、自分の死を予期すらしない鬼の顔。それを、斬った。刀を鞘に納めた右手にまだ感触がこびりついている。鬼を斬った。鬼を……。
 余力の残っていない善逸の体が落ちて、朽ちた廃屋の上に打ち付けられる。背中を打った痛みすら分からないほど、全身が酷く痛くて、反射的に反ろうとする背がまた痛い。駄目だ、息をしろ、息を。
 そうして善逸は考える。今の自分を形作っている人たちのこと、これから出会う人たちのこと、助けてくれた人、助けたい人、炭治郎、禰豆子ちゃん、伊之助、じいちゃん……。
 気が狂いそうな痛みの中で、彼らの顔だけが頭へ浮かんでは消えていく。
 まだ死ねない、まだ。
 善逸の眼前に、一羽蝶が舞い降りてきた。
「大丈夫ですか?」
 その蝶の手は、冷たかった。



 雀の鳴き声がした。
 あれからどれ程経ったか、もう定かではない。三日か、十日か、はたまた一月過ぎたか否か。病室での毎日はどうも退屈で、勘定が難しい。善逸は強張った体で伸びをし、手の指を何度か握っては緩めた。寝っぱなしの毎日で感覚が鈍っているが、手足は大分元通りになってきた。今日初めてベッドから出、地に足を着けられるまでには。まだ少し歪な右脚のせいで少しふらついたが、治療の進行に異常無しというのがアオイの見立てだ。軽く歩いても問題はないどころか、早めに感覚を取り戻しておいたほうがいいらしい。
 病室の外、日を直に浴びるのは久々だったが、縁側の日差しは柔らかくてちょうどよい。ふちに腰掛けた体勢のまま上半身も後ろに倒すと、心地よさのあまり瞼が下がる。温もりと皮一枚隔てた薄闇に浸りながら、いろんな音が聞こえる。小鳥のはしゃぐ声だったり、木の葉が擦れ合う音だったり、蝶屋敷の三人娘が洗濯を干す音だったり。呼吸を、深くする。こうしている時は息が浅くなりがちなのだ。おやひとつ増えた、自分の息の音にまぎれて、裸足が廊下を歩く音だ。生理的に湿った足のひらが、木の床をひたひたと近づいて来る。それは善逸の頭の少し手前で止まって、見なくとも善逸にはわかる。
「炭治郎」
「ごめん、起こしたか?」
 目を開けると果たして炭治郎その人が笑っていた。片手に、湯呑みとカステラを盛った皿の盆を乗せている。
「いや起きてたよ。座って座って」
 寝そべったまま自分の横を軽く叩いて促すと、「なら良かった」と炭治郎も腰を下ろす。
「すみちゃんたちがカステラをくれたから、一緒に食べようと思って。歩けるようになったって聞いたんだ」
 茶呑みとカステラ皿が二人の間に置かれる。
「あら有難うねわざわざ。ちょうど暇でさ、持て余してたから助かるよ本当」
「善逸は布団から出られなかったからなあ」
 と、眉を下げる炭治郎に善逸は、流れるように口をつきそうだった愚痴をはたと堰き止めた。それをさせたのは困惑というには少し軽妙で、感動というには少し淡白な感情で、
「炭治郎ぉ……」 同時に思い出されたのは、動けない善逸のためにトランプを借りてきてくれた炭治郎、自分も最近の遊びには疎いくせに、アオイに婆抜きのやり方を教わって来て、飲み込みが極端に遅い伊之助も交えて三人で遊んだ記憶、寝っぱなしで動けない善逸の背を揉んでくれた炭治郎、とかく枚挙に暇がない親切の数々……。
「お前はさ、本当に良い奴だよなあ」
 今更湧き水のように心に染みてきた事実を、素直に噛み締める。当の炭治郎は「どうしたんだ、いきなり」と笑うばかりで取り合わないので、いよいよ器の違いを思い知らされたような気分になる。
「いや俺はね、自分で言うのもなんだけど、すっごく自分本意なの。他人の命を背負い込むなんて重くて仕方ないし、そもそもそんなんできる奴じゃないし。」
 炭治郎が口を挟みそうな気配を首肯で抑える。炭治郎は渋々といった感じで聞いていたが、その表情はすぐに消えた。善逸が再び口を開いたからだ。
「でも、この間のあれで……初めて鬼を斬った感覚が残ってるんだ。体もほら、こんなんなっちゃって、いよいよ死ぬかと思った時に、全部ハッキリ覚えてる訳じゃないけど、今まで関わってきた人たちのことがぼんやり頭を過ぎってさ。手には鬼を斬った感触が残ってるし、体は死ぬほど怠いし、もう訳わかんなくて。でも俺があの時死なないでいられたのはその人たちのおかげなんだよな……」
 刀が、人のものより遥かに硬い肉を優に裂き、その奥の骨を、少しの抵抗と共に断つ感触。落雷の如き一瞬の事なのに、ありありと手のひらに焼き付いて離れないのだった。覚醒して一挙にやってきた苦痛、体に巡る毒や筋繊維の痛み、それらにあえぐ暇もなく呼吸を巡らせながら、右手に残る生々しい感覚が更なる熱を持っていた。しかし今でも不思議なのは、剣を握らなかったはずの左手にも同じ感触と、剣戟の後のような痺れが残っていたこと、瀕死の善逸を治療した蟲柱・胡蝶しのぶの冷たい手の感触に、なぜか覚えがあったこと。平静を取り戻した今でもそれが何故かは分からないまま、
「善逸?」
 炭治郎の声にハッとした。思索から呼び覚まされたからではなく、自分を呼ぶその声に重なるものが過ったからだ。善逸は寝ていた上体を起こし、炭治郎の膝元へかじりついた。「もう一回」
「ど、どうしたんだ」
「もう一回、俺のこと呼んでみて!頼むよ炭治郎、今何かビッて来たんだ、ビッて」
 炭治郎は少し考える素振りをした後で、食べかけのカステラを皿に戻して、
「善逸」
 と、いつものように名前を口にした。
「もうちょっとゆっくり!」
「……善逸?」
「もう少し!」
 身を乗り出す善逸に気圧されながらも、善逸という名のひとつひとつの音を粒立てて声にした炭治郎の声は、
「ぜんいつ」
 急に静かになった善逸に炭治郎は尋ねる。「なにか分かったか?」
「うーん……」
 しばらく目をつぶって記憶を掘ってみたが、「分からん!」と再び倒れ込んだ善逸に、
「そうか……」
 と、炭治郎はそれ以上追及せずに、湯飲みを傾けて茶をすすった。
 聞かないの?善逸は思わず問うてしまいそうになったが、やめた。かわりに、もう一度座りなおして、その口で、カステラを一口頬張った。全部思い出したら聞いてもらおう、と思った。
 暖かい日の光の中で甘いものを食べて、幸せな重みが腹に溜まり心地よい。目を閉じると、そんな空気を彩る様々な音が遠くから混じり合って、淡い水彩の滲みのように感じられる。けれどすぐ隣から、優しい優しい音が響いてきて、善逸は何故か泣きそうになる。柔らかで、広がりがあって、決してこちらを威圧しないのに、なぜか心がストンと落ちていくような、体が浮遊していくような、こころよい怖ろしさがある。莫迦げているけれど、きっと、死というものはこんな心持ちなのだろう、と考えた。何者も拒まず、時に人を落とし、時に人を救う。
「こわいね……」
 善逸は声に出さずに呟いて、少しだけ耳をふさいだ。こうすると体の中の自分の音だけが聞こえてきて、地に足のついた安心感がある。
 でも、これって誰が教えてくれたんだっけ。
 ぜんいつ、と何かが呼んだ気がした。


2020.01.03








「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -