09
股関節に気を使いながらゆっくり起き上がり、テーブルの上を見ると相変わらず綺麗ではない先輩の直筆のメモがありそっと写真に残す。
・風呂使え
・飯食え
と箇条書きにされたメッセージと共にサンドイッチが置かれていて、ぐぅっとお腹が鳴るのがわかる。人間、どんな状況でもお腹は空くもんだなぁと用意されたサンドイッチを食べてお腹を満たす。
ソファで昨日のことを思い出せば、思い出すほど夢にしか思えない。だけど、自分の太ももや胸、お腹についた先輩の跡を指で触れると夢でないことは明白だった。
「…なんで、」
そう、理由がわからなかった。先輩に限って、誰でも良かったとかとりあえず、でわたしを選ぶことはないだろう。だって、昨日もあのままわたしを帰してあの人を抱くことだって出来たわけだし。そうなると、わたしでないといけなかった理由があるはずだった。
「そんなもん、なくない?」
自分で言ってて虚しくなるが、わたしにしかない魅力はもちろん自分で思いつくわけもなく。一つ可能性で浮かび上がるのは、先輩がホームシックにでもなっていたというバカげた理由だった。そのままソファで昨日の疲れが抜けず、うとうとしてしまう。こんなところで寝てはいけない、そうわかっていたが頭と体は分断されてしまい気付けば夢の中にいた。
「名前、…名前。風邪ひくぞ」
ゆさゆさ、と体を揺られ寝ぼけたまま目を開けるとドアップの影山先輩の顔が目の入ってくる。刺激の強すぎる寝起きに一瞬で覚醒する。
「お!おかり、なさい!」
「シャワーまだ浴びてねぇだろ」
「あ、えっと…眠気が勝っちゃって…すいません」
「いや。別に名前が気になんねぇならいいけど」
先輩はロードワークを終えてそのままわたしを起こしてくれたのか、顔に汗をかいていて昨日の夜のことを思い出してしまう。ドキドキしてるわたしに気付いたのか、先輩が少し目を細めて笑いかけてくる。心臓に悪い先輩の笑顔に、わたしの心臓はさらに早く動き出した。先輩の手がわたしの寝癖を撫でてくる。恥ずかしさで目線を下げると霰もない自分の太ももが目に入り自分の今の服装を思い出した。
「みっ!見ないでください!」
顔を近づけてきた先輩の目を、自分の手で覆うと限界だと言わんばかりに先輩が声を出して笑い出す。こんなに笑う先輩を見るのは久しぶりで、つい嬉しくなって一緒に笑ってしまった。
「そんな可愛い格好しといて、見ないではなしだろ」
ひとしきり笑ったあと、そんなセリフを耳元で囁かれてオチない女がいたら紹介してほしい。わたしは、無理だった。
最初は可愛くソファで戯れていたはずなのに、気づけばぐずぐずに甘やかされて、これまた気づけば先輩を受け入れていた。昨日よりだいぶ先輩のことを受け入れる準備が出来てしまっていたわたしの体は、すんなり受け入れてしまいそのまままた何度も抱かれる。
結局先輩の家を無事に出れたのは、夕方で。重い腰に、怠い体を引きずりながら先輩と一緒にエントランスまで降りるのが精一杯だった。タクシーを呼んでくれていて、乗り込むと先輩まで一緒に乗り込んできてわたしは状況を把握できず惚けた顔で先輩を見つめてしまっていた。
「送ってく、つっただろ」
「…いや!いいですよ、そんなの」
「出してください」
先輩はタクシーの運転手さんにそう告げると、わたしに住所を告げるよう目くばせしてくるので諦めて一緒に帰ることにした。タクシーの中で他愛もない話をしている時が本当に幸せで、家に帰って1人になったら寂しくて死んでしまうかもしれないなんて考えていた。
「今日はゆっくり休めよ」
玄関先で、そのまま帰ろうとする先輩を思わず腕を引いて引き止めてしまう。このまま、先輩が帰ってしまったらもう一生こんな幸せなことは起きないんじゃないかとマイナス思考に陥る。わたしがあまりにも寂しそうな顔をしていたのか、先輩は優しく笑ってからわたしをぎゅっと抱き寄せ頭を何度も撫でてくれる。
「飛雄先輩、って呼んでもいいですか」
「あ?呼べって昨日から何回も言ってんだろーが」
「…飛雄先輩、好きです」
「ん、知ってる。じゃあ、おやすみ」
最後にされたキスは、触れるだけのキスで。物足りない、もっとして欲しいと思ってしまうくらい短いキスだった。玄関が閉まり、わたしはその場でしゃがみ込んでしまう。嬉しい気持ちと、寂しい気持ち、もう言葉では到底表すことのできない気持ちで胸が張り裂けそうだった。
「夢、じゃないんだよね」
そう呟いてももちろん返事が返ってくるわけもなく。わたしは自分の体を抱きしめるようにして眠りについた。その日から先輩は忙しいのか連絡もあまり返ってこないし、もちろん会えてもいないけど、それでも良かった。だって、わたし先輩に抱かれたんだもん。キス、いっぱいして、いっぱい好きって伝えて。…それで、幸せだからいんだもん。あの晩のこと何度も思い出しながら、何度も夜を超えて、ある日。
先輩と女優のスキャンダルがすっぱ抜かれていて、それでもわたしは自分が幸せだったと言い聞かせるほか無かった。だって、あの日だけで良いってわたしは最初からそう思っていたんだから。彼女でも、なんでもないわたしが傷つくのは可笑しい。そう、わかっていたからもう涙は一粒も出なかった。