05
「あ、あの…わたし、帰りますね」
甘ったるい香水の匂い、影山先輩に話しかける甲高い声、返事をする先輩の声。全てが不快でたまらなくて、その場にもう1秒たりとも居たくなかった。絞り出した小さい声は、先輩には届いたようで勢いよく振り返られて扉を開けようとしていた手を上から掴まれて、驚いて声も出なかった。
「俺と今日約束してたのはお前だろ。勝手に帰んな」
「ねぇ〜飛雄」
「お前は鍵返せ。それからもう一生来んな」
甘えるように先輩の名前を呼んでいた女の人の空気が一瞬でピリッとしたものに変わった気がする。先輩は靴を乱暴に脱いで、女の人を連れてリビングへと向かいわたしは玄関で立ち尽くす。次に女の人が戻ってきた時には、両手に大量の荷物を抱え、わたしにぶつかるようにして玄関から出て行った。ぶつかられたわたしは情けなくそのまま玄関に座り込んでしまい、2人きりになった玄関に沈黙が流れる。
先輩は鍵を閉めてからわたしのヒールのストラップを外す。その手つきが優しくて、触れられたところから燃えるように熱くなる。ドキドキ、と自分の心臓の音だけが聞こえて頭がおかしくなりそうだった。先輩は無言のままわたしのヒールを脱がせて、綺麗に揃えて玄関に置き、わたしの脇の下に手を入れて立ち上がらせる。
「怪我、ないか」
一瞬、自分に聞かれていることもわからず反応が遅れる。
「おい」
もう一度声をかけられ「だ、大丈夫です」と小さい声で呟くのが精一杯だった。一体全体、どういうことなんだ。何が、起きている。説明を求めたい気持ちと、彼女でもないのに聞いてしまって面倒臭い女だと思われるのは嫌だという打算的な気持ちが戦う。床に散らばった荷物も先輩が全部拾ってくれて、腕を引かれてリビングへと向かった。一歩ずつ、先輩の部屋の奥に進む度もう後戻りが出来ないのでは、と恐怖すら感じる。
「驚かせたな、悪い」
「い、いえ…。良かったんですか?」
「ああ」
それ以上、何も聞けなかった。踏み込んでは行けないのかもしれない、となんとなく自分で線引きして一歩、引いてしまう。
「なんか飲むか?」
「先輩とおんなじの、飲みます」
「座っとけ」
大人しく指さされたソファに座っていると、先輩がお茶を両手に持ってわたしの隣へと座った。沈むソファ、さっきまでどん底だった気分も先輩の顔を見ているだけでみるみるうちに元気になっていく。ああ、なんて単純な女。
「いただきます」
極度の緊張から、喉も乾いていてごくごくとお茶を飲んでいく。シンとした部屋の中にわたしのお茶を飲む音が響いているように感じ、少し恥ずかしかった。お茶のコップをテーブルに置くと先輩がぐっと距離を詰めてくる。
「せ、狭いです」
「いいだろ」
「…せ、先輩が、何考えてるかわ、かんない」
「今は…お前のこと、考えてる」
ソファとわたしの背中の間に先輩の腕が入ってきて、一瞬で体を引き寄せられる。「うぇ、」と可愛げなんて全くない声が出てしまい、体は緊張でガチガチでもう涙がいつ出てきてもおかしくなかった。
「せ、んぱ…」
「なんだ」
「ほんとに、む、無理…恥ずかしい、です」
「…可愛い」
今、なんて?と自分の耳を疑う言葉が聞こえてきて、戸惑いを隠せない。
「すげぇ、顔してんぞ」
「み、ないで…ください」
多分、もう涙は出てたと思う。自分の感情のコントロールと涙腺のコントロールは別物で。目から零れないように必死に止める涙で、視界が歪む。先輩が、優しく笑ってくれているような気がするけど、もしかしたらわたしの見間違いかもしれない。それでも、わたしにはこの腕を振り解くことは出来なかった。だって、どんな形であれ影山先輩に求められたい。そうずっと、思ってきたのだから。
「そんなに俺のこと、好きか?」
好きな人にそう聞かれて、イエス以外の返事を出来る人間がいたら紹介してほしい。わたしは、そっと瞬きをして「はい」と先輩の目を見て答えた。もう、後戻りはできない。