▼ あやめ様
佐久早は今日、牛島と顔を合わせる予定があったのだがまさか女連れ、しかも何度も顔を合わせたことのある名前がいるとは思わなかった。佐久早は驚いて、名前と若利を交互に何度も見比べてる。名前は勝ち誇ったような顔で佐久早のことを見ており、そのことが佐久早は余計に面白くないようだった。
「若利くんと、付き合うことになったから!」
「お前は黙ってて」
顔を合わせてすぐに、一触即発の空気。
「はあ?」
「若利くん、どうしたの…?え、意味わかんねぇ…」
「俺は名前と離れ、名前が必要だと気づき、名前も俺と同じ気持ちだった」
「…はぁ…」
若利は幸せそうに名前の手を取り、名前と見つめ合う。その顔が今まで見たことのない表情で佐久早はとうとう頭痛がしてきた。
「佐久早さんも、若利くんのこと好きなのはわかるけど。なんかごめんねぇ?」
名前の発言はイチイチ佐久早の神経を逆撫でさせるもので、佐久早もそんな安い挑発に乗ってたまるかと思ってはいるが表情筋は正直で。マスクがこんなにも役に立つのは久しぶりかもしれない、とマスクの下の自分の顔を想像する。
「考え直したら?」
「何をだ」
「若利くんに、この女は合わない」
「それ決めるのアンタじゃないけどね!」
「いや、俺は名前と結婚もするつもりだ」
「…」
佐久早の記憶に、若利が引退試合のあと一般人にプロポーズをしたというニュースが話題になっていたことが蘇る。そうだ、でも、まさかこいつだったとは…と佐久早は本日何度目かわからないため息を深く、それは深く吐いた。
「若利くんが、選んだんなら…」
「ああ」
「……若利くんが、幸せなら……」
「ねえ!そのなんか苦渋の選択みたいな顔やめてくれない!?」
「当たり前だろ」
「言っとくけど!若利くんが!わたしがいいって!言ったんだからね!?」
「そんなわけな、」
「ああ、そうだな」
また若利の声、表情から名前との関係を目の当たりにして佐久早はもうため息すら出なかった。もう、これ以上は若利のことを遠回しに否定していることになるのか、と受け入れる他なかった。
「これから言うことは、お前にじゃなくて若利くんに、だから」
「はぁ?」
「おめでとう、お幸せに」
「ありがとう。佐久早も良い人に出会えるといいな」
「うん、ありがとう」
名前は完全に自分が今蚊帳の外であることに気付き、佐久早のことを睨みつけるが佐久早は一度だけ名前のことを見て「若利くんに迷惑、かけんなよ」とだけ小言を言い、一口も飲んでいないコーヒーを持ち上げ席を立った。
「あの人、昔からわたしに当たりキツイんだよね」
「…俺は名前と佐久早が仲良さそうに見えたが」
「はい!?」
名前は若利が佐久早に妬いている、とあまりにも都合の良い妄想を一瞬脳内で行うがそんんなはずないだろう、と直ぐに消し去る。
「名前は、俺に思っていることを何でも言っているか?」
「言ってるよ?今日も好きだし、かっこいいって思ってるよ」
「そういうことではなく…お前は俺に不満を言わないだろう」
いや、結構言ってると思うけどな…と名前は自分の発言を思い出す。
「違ったら、恥ずかしいから、聞きたくないんだけどさ。その…」
「何だ、言ってみろ」
「妬いてる?」
「ああ」
さら、っと言ってのける若利に名前は自分の顔が一瞬で真っ赤に染まるのがわかる。全身で照れてしまい、カフェで横並びの席に座りながら手を握りあって見つめている姿は少し周りから浮いてしまっていた。
だがそんな事はこの2人にはお構いなしで、そのまま見つめ合う。
「若利くん…どうしよ…」
「何だ」
「これ以上、好きになれない…」
「大丈夫だ。問題ない」
「好き…!」
「俺も、好きだ」
きっとここがカフェでなければ、2人はキスの一つや二つをしていただろう。佐久早はカフェから出て、ガラス張りの店内に目線をやると明らかに浮いている2人の姿を見て案外似たもの同士なのかもしれない。と、名前のことを受け入れるのは難しいが、若利が名前を選んだならこれ以上自分が文句を言うべきではない、というところまでは納得したらしい。