▼ 中編
「体調、悪いのか?」
「え?!」
「お前が元気ねぇと、調子狂う」
「大丈夫!めっちゃ元気!」
ガッツポーズをして見せると、飛雄はくしゃりと顔を歪めて笑う。あ、やばい。泣きそうだと思いながらぐっと堪えてわたしも飛雄に笑顔を見せる。
「どこ行く」
帰ろうと身支度をして、ロードワークを終えた飛雄がシャワーを浴びてリビングへ入ってくる。聞き慣れない言葉が聞こえ、目をまん丸にして呆けていると「名前が行きてぇとこ行くぞ」と飛雄も着替えを始めた。お泊まりデートもそもそも久しぶりで、次の日に2人のオフが重なること自体も久しぶりだったためまさか普通にデートに行くことになると思わず狼狽える。
(え、夜に別れようって言われんの?最後のデートってこと?)
デートに行く前に、すでに心が折れそうだったがぐっと切り替えて笑顔で飛雄に行きたいところを告げ2人で向かうことにした。飛雄が助手席のドアを開けてくれて「女の子隣に乗せる時はドア開けるの!わかった?!」と車でデートをする時に自分が言ったことを思い出し、目頭が熱くなる。すっかりエスコートも板について、この車に他の女の子も乗ったのかななんて地獄のようなことを考えながらただ真っ直ぐ前を向いて目的地へと向かった。
「眠かったら寝てろよ」
不意にそう声をかけられ、自分の目の下のクマがひどいことを思い出す。飛雄の方を見ながら「ありがとね」と返事をすると信号待ちだというのに飛雄は前を向いたままで、視線が重なることはない。
「昨日あんま寝れなかったのかよ」
「あ、うん...でも、大丈夫」
寝れなかったの、誰のせいだと思ってんの。なんて心の中では強く言えるのに、すっかりもう自信を無くしてしまったわたしは今までみたいに飛雄に言いたいこと一つ言えなくなってしまっていた。
青信号に変わり、飛雄の手がわたしの手を包み込む。最初は硬く握られていたわたしの拳を上から包むだけの手は、優しく手の甲を撫でられ気付けば指が絡め取られる。女のわたしより綺麗に整えられているその指が、今はボールじゃなくてわたしの指を愛おしそうに撫でつける。
ねぇ、やめてよ。お願い。そんな一言すら言葉にできずわたしはただ、重なり合った手をまるで脳内に保存するかのように見つめる。...飛雄の顔は、見れなかった。
「今日楽しかったね。ありがと」
驚くほど、いつも通りのデートはあっという間に終わり飛雄の車がわたしのマンションの前に止まる。別れ話をされるのが怖くて、いつもなら少し話すが何も話さずに降りようとすると飛雄の手によって引き止められる。
「名前」
そんなに、優しい声で呼ばないで。最後に飛雄に呼ばれるのがそんな優しい声だとわたし、忘れたくても忘れられないよ。ドアに掛かっていた左手を下ろし飛雄の方へと顔を向ける。いつの間にシートベルトを外していたのか、車が揺れ気付けば目の前に飛雄の顔が。キス、されると気付いた時には飛雄の胸元を押し顔を背けてしまっていた。
「や、...!」
「...おやすみ」
もう一度車が揺れ、飛雄がそう言う。別れ話すら、してもらえないのかと悲しくて昨日からずっと我慢してきた涙がいっきに溢れ出してしまう。飛雄の記憶の中では、笑顔のわたしでいたかったのに。一度開いた涙腺は閉じることなくぼたぼたと大きなシミをスカートの上に作ってしまった。
泣きたくない、と唇を噛み締めるが余計に涙が止まらなくて肩が震え喉の奥がギュッと苦しくなる。気を抜けば嗚咽しそうになり、声を必死に殺してそれでも車を降りて駆け出すようなことは出来なかった。
(お願い。飛雄、わたしの気持ちに気付いて)
そんなわたしの切なる願いが届いたのか、なかなか車を降りないわたしを不思議に思ったのか飛雄が話しかけてくる。
「おい、泣いてんの、か...?」
まさかわたしが泣き出すとは予想していなかったのか、長年飛雄と一緒にいるがこんなに狼狽えた声を聞くのは初めてだった。
「わ、悪ぃ。そんな嫌だったのか、」
なんのことを、言ってるんだろうか。飛雄の言葉の意味がわからずわたしはただ頭の中で繰り返されてる言葉を嗚咽しながら飛雄に伝えるのが精一杯だった。
「っ、と、びお...おねが、いっ」
「んだよ、」
「わたしのこと、っ...すて、ないでっ」
そこからはもう限界だった。顔を覆ってただ、下を向いて泣き続けてしまい飛雄の言葉は何も耳に入らずただ自分の鼻を啜る音と少しでも落ち着こうとする呼吸音だけが脳に響いていた。
また車が揺れ、今度は飛雄の胸に抱き寄せられていた。サイドブレーキが体に当たり少し痛いがそれ以上に飛雄に抱き寄せられた後頭部が痛くて驚く。飛雄くん、あなた自分の握力いくつかわかってますか?
「お前一人で何言ってんだ...このボケが」
飛雄の声が耳元で聞こえ、くすぐったいのと恥ずかしいので頭が爆発しそうになる。ぎゅ、っと飛雄のシャツを掴むと急に肩を押され、シートベルトを強引に装着させられる。
「え、え...?!」
と置いてけぼりのわたしをよそに飛雄は真剣な顔をして車を走らせた。てっきり飛雄の家に向かうと思ったけどそうでもなく、わたしは一言も話さない飛雄に不安を抱きながらもシートベルトをぎゅっと掴んで足元を見つめる。スカートのシミはすっかり乾いていて、涙で濡れていた頬は突っ張って上手く表情が動かせない。
車が止まって顔を上げるとチカチカとわざとらしく光る「休憩5900円〜」という文字と目が合い思わず飛雄の方を見る。穴が開くほど飛雄のことを見ても、飛雄が何を考えているのか、どう思っているのか全くわからなかった。