ひだまりのうた 準備号





「あー、クソッタレ」
 ルイス・ターナーは、本日幾度目になるかわからない呟きとともに、深いため息を漏らした。
 辺りは見渡す限りのどかな田園風景で、頭上には満天の星空が広がっている。
 遠くの方にちらほらと見えるのは、民家や外灯の明かりだろうか。酷く閑散としていて、ルイスの他に人気はない。
 違う。どう見ても、どう考えても、完全に違う。
 自分が目指していた場所は、ここではない。
 数時間前までは確かに、マルセイユにいた。仕事絡みで行われたパーティーに出席していたのだ。それが、いまや華やかな会場からは一転し、人気もない暗い田舎道にいる。
 本来ならば今頃は、帰りの飛行機の中にいる筈だったのに。
「ここはどこだ」
 途方に暮れる、とはまさにこのことだ。
 思えば、秘書が放った一言がすべての始まりだったのかもしれない。
『ああルイス、一体どうしましょう!? ソフィアが急に熱を出したって、ベビーシッターから連絡が入ったの!』
 秘書のミッシェルはシングルマザーで、病弱な一人娘を溺愛している。普段は冷静なミッシェルの酷く取り乱した様子に、ルイスは彼女が次の言葉を発する前に「帰れ」と命令を下した。
 一緒に帰国するというわけにはいかなかった。パーティーはまだ始まっておらず、大事な取引先への挨拶も済んではいなかったからだ。
 気心が知れた仲とはいえ、ミッシェルは普段ルイスに対して『社長』呼びを徹底している。その呼び方が崩れるくらい彼女は動揺していた。
 『でも、』と眉をひそめ何かを言い募ろうとしたミッシェルに、「くどい」と返し、それ以上は有無を言わさなかった。顔を曇らせた彼女は、帰り間際に何度もこちらを振り返っていたが――。
 今ならば、彼女が娘を想いながらも、何故あれほどまでに渋ったのか理由がわかる。
 景気付けにと喉をしめらせたアルコールは久しぶりだったし、適度な緊張感と高揚感に、少しばかり気が大きくなっていたのかもしれない。
 決して、忘れていたわけではない。そう、忘れていたわけではないのだ。
 自分が、極度の方向音痴だということを。
 昔からそうだった。目印を見ているようで結局のところ何も見ていない。平気で曲がる道を間違え素通りし、反対方向へ進んでしまう。近道をしようとした挙句、迷って数時間帰れなかったことなど数え切れない。うっかりしていると、今住んでいるニューヨークの市街でさえ迷ってしまうのだ。
 『仕事はできるのに、一体どうして』という、ミッシェルをはじめとした周囲の人間の文句は、もう聞き飽きた。誰に言われるまでもない。ルイス本人が一番疑問に思っている。
 三十二年間、悩み続けてきた欠点だ。どうにかしたいが、どうにもならない。最近は一人で出歩くことを極力避け、食事でさえも宅配で済ませていたくらいだ。
 パーティーが終わった後、ルイスはニースの空港に向かった、つもりだった。
 タクシーで最寄りの駅まで向かい、そこから列車に乗った。途中の駅でバスに乗り換え空港の前で降りる、筈だった。しかし調べた所要時間を大幅に超えても、バスは空港に着かなかった。
 窓の外の風景がどんどんとのどかになっていく。漸く覚えた不安に、バスを降りた。バス停の地名を見るがわからない。
 気がついたときには遅かった。
 スマートフォンで検索している間、少し、ほんの少し目を離した隙に、隣の席に置いておいたはずの鞄がなくなっていたのだ。
 サイフも航空チケットもパスポートも、ルイスは持っていた荷物の大半を失くしてしまった。ルイスに残された物は、握りしめていたスマートフォンと、スーツのポケットに入れておいたタバコとライター、そして携帯灰皿だけだった。
 一瞬でも荷物から目を離した自分が悪い。今更嘆いても仕方がない。ルイスはあっさりと荷物のことを諦めた。
 元々、物に対する執着は薄い方だ。盗られなくてよかったと思ったのは、以前日本を訪れた際に土産にと購入した携帯灰皿だけだった。特別高価なわけではないが、当然のように道端に吸い殻を投げ捨てる人間が大半を占めるニューヨークでは、まずお目にかかれない代物だ。
 鞄に入っていた現金など、ルイスが日々稼ぐ収入を考えれば、はした金と言ってよかった。少しも惜しくはなかったし、クレジットカードも止めてしまえばどうということもない。
 しかし、問題はパスポートとチケットだった。このままではニューヨークに帰れない。
 とりあえず、最寄りの警察署に行かなければ。そう思い歩き出したものの、どうやらまたしても見当違いの方向へ来てしまったらしい。
 いつの間にか陽はとっぷりと暮れ落ちてしまった。外灯の少ない田舎道ではどこをどう歩いたら目的地にたどり着けるのか、ただでさえ方向音痴な上、土地勘もないルイスには全く判断がつかなかった。
 砂利の混じりあった小道は、歩を進めるたびに小さな音を立てる。マンハッタンの完璧に舗装された道路ではあり得ない、ジャリジャリとした耳慣れない音が、ルイスの不安をあおった。
 バスを降りてからしばらくの間はちらほらとあった人影も、陽が暮れてからは全く見かけなくなってしまった。
 こんなことになるのならば、もっと早くに誰かに道を訊けばよかったと、今更後悔し始めている。道を尋ねなかったのは、たとえ知らない人間であっても、自身の弱味をさらけ出すような行為をしたくないとルイスの愚かなプライドが邪魔したせいだった。
 ニューヨークの通りにあるような二十四時間開いているデリもない。いや、デリどころかそもそも建物がほとんど見当たらない。見えるのはなだらかな丘と、その先にちらほらと見える民家の明かりだけだ。信仰心の薄いルイスも、普段の行いを悔い改めて、神に縋りつきたくなった。
 まさかニューヨークから遠く離れたプロヴァンスで、こんなことになろうとは。
 スマートフォンも電波状況が悪いのか、先ほどから圏外表示が続いていて、全く使い物にならない。そもそも、地図を読むという行為が恐ろしく不得手なルイスにとっては、アプリが正常に動いたとしてもその機能を使いこなせるかどうかはわからなかったが。
 今頭上に広がる美しい星空も、少しもルイスの心を慰めはしなかった。世界には星を見て自分の位置を知ることのできる人間がいるというが、船乗りや探検家ではないルイスにとっては何の導にもなりはしない。星を見て腹がふくれるわけでもない。
 ため息が止まらない。
 ここがどこだかわからない。足が痛い。疲れた。眠りたい。
 唯一の救いは、天気が良いということだ。仕立ての良いスーツのおかげか、若干の肌寒さはあるものの、耐えられないというほどではない。
 野宿するしかなさそうだと、ルイスは腹をくくった。
 どこか夜露を遮れる場所はないものか。辺りに視線を彷徨わせるが、どこもかしこも畑ばかりで近くには小屋の一つも見当たらない。もう少しだけ、歩いてみようか。
 朝になり明るくなれば、少なくともこの最低な状況からは逃れられる気がする。
 今更焦っても仕方がない。落ち着こうと、胸元からタバコを取り出し口にくわえたところで、はたと思い留まった。法的に問題がないかどうか、気になったのだ。ルイスは変なところで生真面目な人間だった。
 フランスもニューヨークと同じく、屋外では喫煙できると思っていたのだが、実際はどうなのだろう。
 タバコをくわえたまま考え込むこと数秒。
 背後から聞こえた微かな物音と気配に、ルイスは振り返った。
 闇に沈む影に、うっかりおかしな声を発するところだった。目を凝らすと、自分より幾分か若い、スーツ姿の青年が立っていることに気がつく。
 数時間ぶりに見た人間の姿だった。
 道を訊くべきだろうか? しかし、なんと声をかければいい?
 悩んだルイスの口元からタバコがぽろり、と落ちかける。慌てて指で支えると、凝視されている気がした。
 どうにも居心地が悪い。先ほど頭をかすめた可能性に、ルイスは口を開いた。
「あー、もしかして、ここは禁煙、か?」
 すぐには返事がなかった。フランス語に自信がないわけではなかったが、プロヴァンス地方では独特の訛りがあるという。もしかしたら、言葉が通じなかったのかもしれない。
 タバコと携帯灰皿を見せるように軽く振ると、ルイスの視界の数メートル先で、青年はにっこりと笑ったようだった。
「やぁ、携帯灰皿なんて珍しいものを持っているね。君は随分マナーがいいんだな。ポイ捨ては山火事の危険があるから困るけれど、それなら大丈夫さ」
 いやに耳あたりのいい声だった。
 ルイスの学んだフランス語とは違い、やはり独特の訛りがある。早口で、どことなく陽気な喋り口調は、軽やかな音楽を聞いているように思えた。
 まるで歌っているような。
 静かな夜には不釣り合いとも思えるほど明るい声に、戸惑いを覚えた。太陽の下で聞いたならば、これほど奇妙だとは思わなかったかもしれない。
「それなら遠慮なく」
 息を吸い込みながら、タバコに火をつける。数秒間目を閉じ、煙を味わうと、ほんの少し落ち着いた気がした。
 また視線を感じ、顔を上げる。そこで漸く、青年が思っていたよりも近くに立っていることに気がついた。
 直感的に、苦手なタイプの人間だ、と思った。
 おそらく金髪だろう。やわらかそうな少し癖のある髪が、夜風に揺れる。小柄なルイスよりもはるかに長身で、広い肩幅に、長い脚。ルイスのコンプレックスをこれでもかとついてくる。
 ざっくりと後ろで一つにまとめたルイスの茶色い髪の毛は、艶こそあれど、あまり洒落ているとは言い難い。忙しさにかまけて、伸ばしっぱなしにしているせいだろう。
 着ているスーツこそオーダーメイドの一流品だが、目に付くものはそれだけだ。不細工ではないが、特別整っているというわけでもない平凡な顔立ちに、筋肉のつきにくい貧相な身体つき。薄い肩。猫背もなかなか治らない。
 青年はルイスの胸中を知ってか知らずか、ニコニコと邪気のない顔で笑っている。
「こんな遅い時間に外に出ている人がいるなんて、珍しいからびっくりしていたんだ。この辺りじゃ見ない顔だね。最近、引っ越して来たの?」
 本来ならば自ら他人と関わりあおう、などとは微塵も思わないルイスだが、今はどうにかこの状況から脱するために話をしなければならないとわかっていた。それが、例え自分の苦手な類の人間であったとしても。
 しかし、またしてもプライドが邪魔をして、面と向かって「迷っている」と言うことは憚られた。ほんの一瞬悩んだ末に、青年の持っているおそらくワインと思しきボトルとスーツに目が行った。
「あー、いや。そうじゃない。……そっちは、結婚式の帰り?」
「大当たり! よくわかったね。すごく良い式だったよ。アルルまで行ってきたんだけれど、あそこの民族衣装はやっぱり素晴らしいね」
 聞き慣れない地名に、ルイスは首を傾げた。
「アルル……?」
「ああ、そうか、やっぱり君はこの辺りの人間じゃないんだね。するともしかして、親戚か友人のところにでも行く途中? 場所はわかる?」
「いや。そうじゃなくて。あー、……実は…………」
 意を決したものの、結局言葉に詰まりなかなか言い出せない。青年はそんなルイスを見やり、考え込むように首を傾げると思いついたように声を上げた。
「うーん、それじゃ……わかった! パーティーの帰りだ! それで、うっかり道を間違えて困っているところ。どう?」
「………………何、で」
 沈黙は答えを表しているようなものだと、気がついた時には遅かった。間近で見上げた青年は、ぱちぱちとまばたきを繰り返している。
「もしかして正解だった? 当てずっぽうだったんだけれど、まさか本当にそうだとは思わなかったよ!」
 青年の驚いたような声に、ルイスの顔が羞恥で歪んだ。否定しようにも、実際その通りで言葉が出ない。
「ああごめん。でも、困っているのかな、って思ったのは本当だよ。だけど、それなら君は、これからどうするつもりなの? 行く当てはある?」
「……ない、が」
 今更誤魔化すこともできない。野宿をしようと思っていた、とルイスが言うより先に、笑顔の青年が言った。
「それなら、僕の家に来るといいよ。家族でシャンブル・ドットを経営しているんだ。ちょうどオフシーズンに入って、部屋も空いているし」
「シャンブル・ドットって? あー、ホテルみたいなところ、だったか?」
 青年はにこやかに笑って「Oui」と頷いた。
 口ずさむような甘い囁きは酷く誘惑的だったが、重要な問題があることをルイスは忘れてはいなかった。
「いや、だが。金がない。バスを降りた時にスリに遭って、鞄を」
 持っていかれた、という言葉が弱々しく響いた。実際に、言葉にした瞬間の情けなさは尋常ではなかった。
 酷く屈辱的だった。
 電子マネーはあるが、おそらくこんな田舎では使えないだろう。そうなればただのゴミ同然だ。金どころか、ルイス本人を証明するものも何も持ち合わせていない。
 情けない。恥ずかしい。いたたまれない。
 自然と俯いたルイスの耳に飛び込んできたのは、驚いた風な青年の大きな声だ。
「それならますます大変じゃないか! お金はいいよ。古い家だし、すごく豪華な部屋を提供できるわけじゃないもの。ああ、もちろん掃除はきちんとしているから、その点は心配しないで。簡単な食事くらいならサービスできると思うよ」
 見上げた先の青年は、酷く大真面目な顔をしている。てっきり馬鹿にされると思っていたルイスは、呆気にとられた。つい、声に険が混じる。
「少し信用し過ぎじゃないか? 嘘をついているとは思わないのか? 俺が強盗だったらどうする気だ?」
 詰るように言うと、青年は一瞬きょとん、とした後盛大に噴き出した。
「君が強盗だって? あはは、まさか! どう見ても、そんな風には思えないよ。強盗はそんな上等な服を着たりしないし、それに、困っている人には優しくするものだろう? 誰が僕の立場でも、きっと同じようにする筈さ」
 そう言いながらあまりにも可笑しそうに笑うので、ルイスは少し憮然としてしまった。
「ああ、そうだ。寒くない?」
 ふと思いついたような青年の声と同時に、ふわりとルイスの肩に大き目のコートがかけられる。ほどよいコートの重みとあたたかさに、自然とほっと息が出た。
 礼を言うべきだろうか。しかしすぐには声が出せずに、ルイスは眉根を寄せたまま青年を見上げてしまう。
「今日は少し冷えるものね。風邪を引いたら大変だ」
 ルイスの視線をどう捉えたのか、彼はにこりと笑って咳ばらいを一つした後、改まった声を出した。
「それじゃあ、自己紹介から始めよう。僕はレオナール・ブラン。周りの皆はレオって呼んでいる。歳は二十二で、趣味はアコーディオンと料理。それからさっきも話したけれど、家はシャンブル・ドットをやっていて、可愛い双子の弟妹がいるんだ。まだ小さくて」
「急に何だ」
「人に信用してもらう為には、まずは僕のことを知ってもらわないとね」
 レオナールと名乗った青年は、茶目っ気たっぷりにウインクまでしてみせた。それがあまりにも様になっていて、ほんの少し腹がたった。
 この男は馬鹿がつくほどの、お人よしだ。
 ルイスは呆れた。それと同時に、心の底からありがたい、と思った。
「助かる。金は後で、必ず返す」
 ルイスの頷きに、レオナールは満足そうに笑った。
「いいって言っているのに、君は随分と律儀なんだね。ねぇ、そんなことよりも、君の名前を教えてもらってもいいかな、ミミズクさん」
「何だそのミミズクって」
「いやなに、君の瞳が、まるでアルピーユ山脈に住むワシミミズクのように綺麗だからさ」
 そう言いながらレオナールは両手を広げてみせた。一々アクションが大きい男だ。
 ルイスは当惑した。基本的にルイスの視力は良くないし、夜目も利かない。今もおそらく、睨みつけているようにしか見えない筈だ。
 それとも、これは冗談か。または揶揄されているのだろうか。
 どちらなのか判断がつかないまま、ため息交じりに名前を告げる。
「ルイス・ターナー」
 すると、レオナールは「ルイス」と軽やかに、音を転がすように名を呼んだ。そのくせ、真剣な表情でルイスの顔を覗き込んでくる。
 近い。
 本能的に距離を取ろうとしたが、どうしてか足が動かなかった。
「うん。本当に綺麗な瞳だ、ルイス」
 やはり、からかわれているのだろうか。本心が全く読めない。ルイスの目つきの悪さを褒めた人間など初めて見た。
 二度に渡る賛辞に、何も言えず凝視すると、レオナールはにっこりと笑った。
「どうしよう。困ったことになったよ」
 そう言ったレオナールは、ちっとも困った風には見えない顔だ。どちらかといえば、今にも歌い出すのではないかと思えるほど、上機嫌に見える。
 ルイスは首を捻った。
「何がだ?」
「驚かないで聞いてほしいんだけれど、ちょっと難しいかもしれないね。何しろ僕も今、すごく驚いているところだから」
「だから、何」
 まわりくどいのは好きではない。
 言いかけたルイスを正面から見つめて、レオナールは言った。
「僕は君に恋をしてしまったみたいだよ、ルイス!」
「…………は?」
 ちょうどそのとき、二人の頭上で星が一筋美しい弧を描いて流れたことにも、ルイスは気がつけなかった。


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