耳雨


ぽつりぽつりと話す彼の声は、静かな雨の音に似ている。


放課後の学校図書館は、利用者も少なく、静寂に満ちている。
一週間後にテストを控えた状態ではなおのことで、今もほんの数人の生徒の姿しか見当たらない。皆酷く静かにしていて、時折、ノートや教科書を捲る音やシャーペンで文字を綴る音が聞こえてくるくらいだ。
図書当番の僕も彼らに倣って、カウンターの上に教科書とノートを広げていた。カウンターに座ってさえいれば、本を読もうが予習をしようが、うるさくしない限り司書の先生が怒ることはない。
本を借りに来る生徒なんて、ほとんどいないからだ。

たった一人、彼を除いては。

「……あの」

ぽつり、と聞こえた彼の声はとても小さくて、ひっそりと静まり返った館内に吸い込まれて消えてしまいそうだ。

だから僕は、彼の声を聞き逃さないように、耳を傾ける。
必死な自分を決して悟られないように、無表情の裏に隠しながら。
息を殺してそっと、彼の次の言葉を待つ。

「本の貸し出しを……お願い、します」

僕が顔を上げると、不自然なほど瞳はそらされた。いつものことだけれど、少し傷つく。嫌われているんじゃないと、信じたい。

「学年・クラス・出席番号・名前を教えてください」

僕は気がつかなかったふりをして、いつも同じことを訊く。本当は番号も名前も、もうとっくに覚えてしまっているのだけれど、マニュアルにのっとって声をかける。
彼にはきっと迷惑なことだと思う。もしかしたら、僕のことを頭が悪いやつだと心の中で呆れているかもしれない。
けれどそうでもしないと、彼の声を聞くことはできない。

「……2年5組、21番、時枝です……」

もっと気軽に話しかけて他愛ない話ができればいいけれど、生憎僕にはそのスキルも勇気もない。学年もクラスも部活も、何もかもが違う僕には、毎回図書委員会のマニュアル通りに話かけるのが精一杯だ。図書館のカウンターに座る僕と、彼とは残念ながら何の接点もない。一メートルもないカウンターの向こう側にいる彼が、酷く遠い存在に思える。

本を差し出してくるその手に、触れたいと思う。けれど本当にそんなことをしたら僕自身どうなってしまうかわからないし、もしかしたら、彼はおびえてしまうかもしれない。気持ち悪がられるかもしれない。もう図書館に来てくれなくなるかもしれない。
だから、うっかり触ったりしないように、できるだけ本の端っこを持つようにしている。

色白でほっそりとした彼の綺麗な指は、あたたかいのだろうか。それともつめたいのだろうか。
そんな妄想をしながら、パソコンに番号を入力して、本についているバーコードを読み込ませる。貸出作業はとても簡単で、時間は一分とかからない。もっと難しければ、その分長く彼といられるんだろうけれど、それだと僕の心臓が耐えられないかもしれない。今だって、心臓が爆発しそうなくらい緊張していて、パソコンを操作する手も若干震えている。うまく隠せているといいのだけれど。

どうにか冷静を装って処理をして、本を渡すと同時に一週間後の返却予定日を伝える。それから最後に、マニュアル通りの「ありがとうございます」に気づかれない程度、ほんの少し心を籠める。
一分にも満たないいつも通りのやり取りは、そこで終わりを告げるはずだった。

「――霧嶋君ちょっといい? 食品の栄養素関係の本を探してるんだけど、見つけられなくて……」
「あー、ええっと……」

話しかけてきたのは、同じクラスの山本さんだ。困り顔の山本さんを見ながら、僕も困ったなと思った。

僕は実際、本のことについては詳しくない。僕が図書委員になったのはたまたまの流れというか成り行き上のことだったし、いつもカウンターに座っているばかりでどこに何が置いてあるかは全然わかっていない。
図書館の案内図を見ながら、この辺りだと見当をつけるのが関の山で、棚の前でうろうろとしてしまう。
司書の先生を呼ぼうか。ああでも今は会議中だっけ、どうしよう。

「――あの……」

本の背表紙に視線を彷徨わせながらそんなことを考えていたら、すぐ近くから小さな声が聞こえてきた。ふと隣を見ると、すぐ横に彼が立っている。

「時枝先輩?」

僕が声をあげると、彼はびっくりしたように目を丸くした。あ。今の顔、かわいい。

「……栄養素の本…………家庭科で使うのなら、こっちじゃなくて、もう一本右の通路の棚にあるし、……もし、部活とかで選手用の献立を考えるなら、スポーツのコーナーに置いてあるよ……」

山本さんが嬉しそうにお礼を言い、歩いて行くのをぼんやりと目で追った。彼がこんなに長く喋るのを初めて聞いた僕は、驚きですっかり固まっていた。
彼が不安げにこちらをちらりと見た。

「……ごめん、……余計な事、した、かな……?」
「いえ、ありがとうございます。助かりました」

からからの喉にこびりついたような声を絞り出して首を振ると、彼は漸く少し安心したように息をついた。
僕よりも少し下にある横顔を、ひっそりと盗み見る。こんなに近くで、並んで立つのなんて初めてのことだった。ほんの少し手を伸ばすだけで、触れることができる距離に、彼がいる。彼に近い方の腕が熱を持ったようにあつくて、僕はやましい気持ちを必死で押さえつけた。
「あの……」と、また隣から小さな声が聞こえてきた。

「実は、もう一冊、借りたい本があるんだけど……、その。……手が、届かなくて……」
「どの本ですか?」

そういえば、司書の先生が踏み台が壊れてしまったとぼやいていたことを思い出す。
申し訳なさそうな声で示された本は、一番上の段に刺さっていた。背伸びをしてどうにか本を手に取って渡すと、ぽつり、と嬉しそうな声が聞こえた。

「ありがとう……」

自分でも気持ちが悪いくらい嬉しい。顔に出ないタイプで本当に良かったと思う。

そのまま二人でカウンターに戻って来て、追加で貸し出し処理を済ませようとすると、「あ」と、彼が小さな声を上げた。

「ええっと、……ここ、ちょっと間違ってる……」
「え?」

彼が指をさしたのは、カウンターに広げられたままの僕のノートだった。ちょうど、さっきまで僕が引っかかっていた問題だ。隣に置かれた教科書を捲りながら、彼は教えてくれた。

「ここの、設問の公式、使うのはこれじゃなくて、……ええと、こっちの方」
「あー……、道理で。全然、解けないなぁって思っていたんです。ありがとうございます」
「……もしかして、数学は兼田先生?」
「はい、そうです。よくわかりますね」
「……兼田先生は、ひっかけ問題が得意だから……」

ノートをじぃっと見つめていた彼が顔を上げた。
初めて、目が合った。黒目がやけに大きくて、吸い込まれてしまいそうだ。
小さな口がためらいがちに開く。

ぽつり、と僕の耳で雨が降る。

「あのね……」

また、ぽつり。

その音を消さないように、僕は息を殺して次の言葉をそっと待つ。

ほんの少し、彼の口元が微笑んだ。

「……君はいつも、……綺麗な字を書くな、って、思ってたんだ……」


零れ落ちた小さな声は、まるで通り雨みたいに僕の鼓膜を激しく揺さぶった。



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