過去からの回帰


 月明かりに照らされ、夜の大海原に浮かぶ一隻の船。

 その最後尾の甲板に小さな少年の姿があった。

 若葉色の髪が潮風にはためき、少女のように愛らしい少年の顔の淵で舞う。

 澄んだ翡翠色の瞳で、瞬はじっと黒い海を見つめていた。

 初めて乗る船は想像以上にスピードが速く、黒い海に残る泡と波がみるみる遠ざかっていく。

「兄さん…」

 その速度で兄のいる地からどんどん離れていくのだと実感し、また涙が流れた。

 修行期間はおよそ6年。

 一度聖闘士の修行に入った者は聖衣を得て聖闘士となるか…死を迎えるか。

 例え星座に選ばれずとも、相応の実力があれば正規外に準ずる聖衣を与えられる。

 雑兵や私兵となるケースもあるらしい。

 万が一修行から逃げ出そうものなら、問答無用で死罪となる。

 僕は泣き虫だけど、決して逃げたりしない。

 日本へ聖衣を持ち帰り、必ず会うと固く約束したのだから…。

(──兄さん……!)

 いつも傍にいて守ってくれた優しく大好きな兄とは、少なくとも6年は会えない。

 こんなにも心が張り裂けそうな不安が、この先何年も続くなんて。

 流れる涙を小さな手で拭い、ぎゅっと目を閉じて上を向いた。

 もうこれ以上、泣いちゃいけない。

 日本を去る時、兄が言った『泣くな』という声が、ごうごうと聞こえる風と波の音よりずっと大きく瞬の中に響く。

 これからはなるべく泣かないように頑張らなくちゃ。

 でないと、兄さんは僕を心配してちゃんと修行出来ないかもしれない。

 そのせいで兄さんが聖闘士になれなかったら嫌だもの…。

 上を向いたまま、閉じていた目を開く。

「わ…あっ!!」

 夜空に輝く満天の星々が瞬の目に飛び込んできた。

「綺麗…!」

 満月の光があるにも関わらず、降ってきそうな星々。

 日本でも兄と一緒に星を見たことはあるが、ここまでの圧倒的な星空は初めてだった。

 僅かに揺れる足元のせいか、まるで星の海をゆく船に乗っているような感覚になる。

「あっ」

 視界の端に一つ、また一つと星が流れた。

「星の涙みたい…」

 瞬はしばらく夢中になって星空を眺めた。

「坊や、こんな所で何をしてるんだ?」

 背後から掛けられた声にびっくりして振り向くと、がっしりとした男性が近づいてくる所だった。

 乗船する時に挨拶を交わしたこの船の船長だと思い出し、ペコリと頭をさげる。

「こんばんは…」

「夜の甲板は寒い。風邪をひいちまうぞ。それとも海風に飛ばされて海へ落ちるかもしれんな」

 落ちる言われてビクリとし、後退って船室の壁にぴったり背中をくっつけた。

 そんな瞬に揶揄するような笑みを向け、船長が横に並び立つ。

「すごい星だろう。新月の夜はもっとすごいぞ。…アンドロメダ島に行くのは聖闘士になるためか」

「はい…」

 再び現状を思い出し、消え入りそうな声で返事をする。

「そうか。聖闘士の話は世界中の海を回ってると一度は耳にするが、ここ最近はどうも…いや、噂は噂だな」

「うわさ?」

「すまん、気にするな。それより、おじさんにも坊やくらいの歳の娘がいる。何年も会ってないから、今はもう少し大きくなってるだろうがな」

 遠く海の向こう側を眺めながら呟く船長の表情は、瞬からはよく見えない。

「会えないの?」

「船乗りは一年の大半が海の上で過ごす。遠海に出る船なら尚更だ。俺の事なんか忘れちまったかもなあ」

 大切な人と何年も会えない孤独感と辛さ。

「きっとわすれてない。その子も、おじさんに会いたがってるとおもいます」

 自分なら絶対忘れたりなんかしない。

 真剣な面持ちで見上げる瞬の瞳を、船長は目を細めて見返した。

「坊や。聖闘士になったら、おじさんの船で日本に連れて帰ってやるから。それまで頑張れよ」

 星を眺めるのも程々にして休むように言い残し、船長は仕事に戻った。

 聖闘士になったら…。

(必ず…また逢おうね。兄さん)

 頭上に降る星空を見上げ、未来への想いを馳せる瞬の瞳に、幾千もの星が瞬く──。


       ◆◇◆◇◆◇◆


「……ん…」

 覚醒しかけて、もぞもぞと体を動かすと、すぐ隣から大好きな人の声がした。

「寝苦しくないのか? 顔くらい出せ」

 シーツを捲られ、瞼越しに眩しさを感じる。

「や…眩し……」

 先程まで布団の中で星空の夢を見ていたのだ。

 急な太陽の光が眩しくて、無意識のうちにシーツの下へと潜りこむ。

 温かい体温の兄にぴったりくっつき、安堵で意識が再び沈んでいく。

「…呆れた奴だな」

 海を隔てる程に離れていない兄の声が、間近に聞こえる。

 帰りの船の船長はあのおじさんではなく、もっと年輩のおじいさんだった。

 僕達が会えたように、きっと、おじさんも娘さんと会えたよね…。





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