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 仕事を終え、職員用の玄関から外に出るとき、今日も桐原先生は素敵だったな、と一人思い返す。今年の春に彼に一目惚れしてからというもの、それが私の日課となっている。
 一学期が終わり、夏休みが明け、学校が元の騒がしさを取り戻してからも、私はそんな煮え切らない日々を過ごしていた。片思いも6ヶ月目に突入しようかというのに、私はまだ踏ん切りを付けかねている。同僚で同い年の華澄ちゃん(既婚者)には、早く告白して玉砕してきなさいよ、と散々な言われようだ。
 なんで玉砕前提なの!?と言ったところ、彼女はぎらりと冷たい目で私を睨んだ。

「当たり前でしょ。考えてもみなさい。桐原先生は仕事もできる、顔もスタイルもいい、料理だって得意、そんな優良物件がよ、あんたみたいなちんちくりんのどこを好きになるわけ」
「ゆ、優良物件」
「あんたなんて胸がでかい意外にアピールポイント無いじゃない」
「うっ」
「しかも胸がある割に童顔で色気は無いし」
「ううっ」
「それに、桐原先生は胸なんかに心が揺れるタイプじゃなさそうだしね」
「うっ……うう……」
「大体ね、駄目なものにいくら時間をかけても駄目なのよ。つまり、あんたがうだうだ悩んでる時間は全部無駄なわけ。いい?」
「…………」

 あ、駄目だ。思い返したらめちゃめちゃ凹んできた。
 華澄ちゃんはいつもさばさばして、同性にも異性にも歯に衣着せぬ物言いをするので、苦手としている人は少なくない。が、そこまではっきり言ってくれる人なんて他にはいないので、私は華澄ちゃんが好きだし、ずっと仲良くしたいと思っている。
 でも、桐原先生に想いを伝えることを考えると――。なかなか彼女のように割り切れないのも確かだ。学校で当たり障りのない会話を交わす、今の付かず離れずの関係が心地好い部分もあり、それを崩してしまうのが怖かった。同じ高校の教師だし、席も隣り合っている。もし告白して断られたら、学校に行くのが気まずいどころではない。
 そんなことを滔々と考えながら靴を履き替え、ガラス戸を押し開け、9月ながらまだ残暑厳しい外気に身を投じる。
 すると、玄関から程近い木の傍らに、人影があった。若い、スーツ姿の男性のものだ。
 びくっと体が緊張する。下校時間もとっくに過ぎたのに、誰だろう。こんなところにいるなんて、もしかして不審者? どうしよう、男の先生を呼んでくるべきだろうか。
 そう思って踵を返そうとすると、その影がこちらに目を留め、すたすたと近寄ってきた。
 ええ、なんで? おろおろし、パニックに陥る、その直前。

「やっと見つけた。久しぶりだな、麗衣」

 そう、声をかけられた。
 おずおずと男性の顔を見た。まだ若い、おそらく二十歳をいくらか過ぎたばかりの年齢。背は桐原先生より少し低いくらいか。長めの髪は地毛なのか染めているのか、少し茶色がかっている。細身のスーツがよく似合っていた。男性アイドルのように甘く整った顔立ちだが、薄い唇に笑みはなく、切れ長の目が、私をじっと見つめていた。
 私は彼の顔に見覚えがあった。

「もしかして、滝くん……?」

 恐るおそる尋ねると、彼は口の端を引き上げてにやりと笑った。

「偉い偉い、ちゃんと覚えてたんだな。でも滝くんじゃないだろ? 名前で呼べよ、前みたいにさ」
「――諒、くん。どうしてここに……」

 私は呆然とする。滝諒一くん。この彼は、私が教育実習で受け持った生徒の一人だ。空で数えてみると、あれからもう、6年近く経つ計算になる。
 私は彼の目をまともに見られない。どきまぎしてしまうのには理由がある。実は当時、彼から好きだと告白を受けてしまったのだ。その際、私は先生という立場上、生徒と付き合うことはできない、ときっぱりと断った。
 その彼が、どうしてここに。
 諒くんは、もっと嬉しそうな顔しろよ、と笑ったままで言う。

「俺さ、今年から市内の高校の教師になったんだ。麗衣、前は先生と生徒だから付き合えないって言ったよな。今なら、もういいだろ?」

 私は瞠目した。あの、まだ幼さを残していたあの子たちが、もう社会に出ているなんて。時間の流れは早いものだ。
 いや、そんな感慨に浸っている場合じゃない。この子は何を言っているのだ。今でもよくない。まったく何もよくない。
 諒くんは私の混乱などどこ吹く風と、お構いなしにずいと体を近づけてくる。あまつさえ右腕で逃げ道を塞ぐように、私のすぐ後ろの校舎の壁に手を押しつける。目と鼻の先に職員玄関があるのに。誰か出てきたらどうするのだ。

「全然変わってなくて安心した。今でも好きだよ、麗衣」
「ま、待って待って! 私、いいなんて言ってないでしょっ」

 鞄で体を庇うようにすると、諒くんの表情から笑みが消えた。

「なんで。彼氏でもいるの」

 うっと言葉に詰まる。桐原先生の精悍な顔つきが脳裏に浮かぶ。

「それは、いないけど……でも、好きな人がいるの! だから、諒くんとはお付き合いできませんっ」

 一息に言ってしまってから、怖々と彼の様子を窺う。諒くんは、ふうん、と思案げに漏らし、私を舐めるように見下ろしている。

「じゃあさ、その相手と俺が勝負して、俺が勝ったら俺と付き合ってよ」
「え?」
「そいつに勝てばいいんでしょ。今度の土曜日、9時に待ち合わせね」

 諒くんは市内の複合施設の名前を口に出す。あまりの展開の早さに、私はあわあわするばかりで、一言も口を挟めない。そんな急に言われても、と言い終わらないうちに、彼は内ポケットから手帳を取りだし、さらさらと何事か書きつけ、ページを小さく千切って私にはいと渡した。

「それ、俺の携帯の連絡先だから。着いたら連絡入れて。逃げるなよ?」

 じゃ、と軽く手をひらひらさせて、諒くんはあっという間に去っていった。
 取り残された私はあんぐりと口を開けて、手渡された紙切れを力なく持ったまま、しばらくぽつねんと突っ立っていた。

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