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 少年は、月の光が射すその部屋で死に、そして生まれました。
 少年が初めて人を殺したのは、11歳の時でした。


 少年の名は、ルチアーノといいました。
 少年は、地中海に面した、南イタリアの小さな町に住んでおりました。町のシンボルの、珍しい木造の教会以外には変わったもののない、静かなところです。少年の両親は、彼が幼いうちに病で息を引き取っており、いまは遠い親戚の家で暮らしておりました。
 少年は、その聡明そうな外見とは裏腹に、みすぼらしいなりをしていました。やせっぽちで、髪はぼさぼさ、身に付けているのは生地が薄くなった洗いざらしのシャツに、当て布だらけのズボン、襤褸(ぼろ)と見紛うほど汚れた靴という格好です。少年は親戚の家で、人間としての尊厳ある扱いを受けていかったのでした。
 学校へは行かせてもらえず、与えられた屋根裏部屋は年中暗くて黴臭く、眠っていると枕元で鼠が駆け回る音がしました。食事は1日2回で、親戚の家族とテーブルを共にすることは許されませんでした。
 おばさん(といっても血の繋がりは無いに等しかったのですが)は食事を運んでくる際に、部屋のドアに付いたベルをチリンと鳴らします。それを聞いたら、たっぷり10秒数えてからドアを開け、食事の乗ったトレイを部屋に引き入れるのです。なぜ10秒数えるかというと、おばさんと鉢合わせするのを防ぐためです。
 おばさんは少年と顔を合わせるやいなや、必ず金切り声をあげました。少年の琥珀色の虹彩を、狼のひとみだと言って忌み嫌っているのです。少年はおばさんを怖がらせないよう、ひっそりと食事を済ませて、用心深くトレイをドアの外に置くのでした。
 少年は、本を読むことをたいそう好いていました。
 もちろん、間借りをしている家の本を手に取ることは禁じられていましたが、家人が寝静まった頃、こっそりとおじさんの書斎に忍び込み、1冊ずつ本を屋根裏部屋に運んでページをめくるのが、毎日の楽しみでした。少年は機転が利きましたので、本を抜き出すとき、跡が残らないよう細工することも忘れませんでした。家には少年より2、3歳年上の息子もおりましたが、少年のほうがその遅鈍な息子よりも、あらゆる分野において深い知識を持っていました。
 おじさんの蔵書のジャンルは多岐に渡っていて、少年は狭い屋根裏部屋にいながらにして、いにしえの異国で起こった戦に思いを馳せ、大気圏外から青くうつくしい地球を眺め、ウィルスや細菌の恐ろしく、それでいて精巧な形に感嘆することができました。
 少年の楽しみはもうひとつあります。
 街のシンボルの教会で行われる日曜礼拝です。
 そこで毎週奏でられる讃美歌の響きが、少年は大好きでした。少年が外出することに、おじさんは良い顔はしていませんでしたが、神さまの手前、踏み込んだ文句は言えないようでした。
 神父さんが弾くオルガンの伴奏へ、合唱隊の面々が複雑に絡み合う旋律を乗せていきます。その音律は教会内によく反響し、芳醇なハーモニーとなります。豊かな音の波にたゆたい、浸り、至福を存分に味わった少年が踵を返す先はしかし、いつも牢獄のような借り物の家でした。
 少年にとって、音の湯浴みとも言うべき、その時間は喜びでした。毎週の満ち足りた瞬間があればこそ、少年は閉塞感に満ちた生活にも耐えられていたのです。結局、少年が帰る場所はあの家しかないのでした。


 ある日のことです。
 少年が教会の長椅子に腰を落ち着かせ、礼拝が始まるのをいまや遅しと待っていると、見慣れぬ男性が斜め前に座ってきました。こぢんまりとした街ですから、名前は知らなくとも礼拝に来る人とは皆顔なじみです。しかしながら、少年はその男性――少年と青年の境の年ごろでしょうか――に、まったく見覚えがありませんでした。
 彼の髪は珍しい、まばゆいほどの銀白色でした。彼が羽織っている小綺麗なジャケットは、教会の素朴な調度品の中で、場違いなほどつややかな光沢を放っています。その華やかさは、そういう方面には疎い少年の目にも、明らかな高級品と映りました。
 少年がこっそり彼の横顔を盗み見てみると、驚くほど整った面立ちがそこにはあります。まるで、ルネサンスの絵画から抜け出てきたのか、と見紛うほどの人類の理想の極致と思えました。露のきらめく清潔な朝の光景も、水平線に投射される幾すじの天使の梯子も、彼の美の前ではすべて霞んでしまうでしょう。
 少年の心はうち震えました。それは歓喜でした。こんなにも彼が美しいのは、神の祝福を受けて生まれてきたからに違いない。大いなる超越者の介入なくしては、この美は誕生し得ない。青年の存在は、神の実在の証のように、少年には思われたのです。
 そこでふと、何の前触れもなしに、その青年が振り返りました。熱い視線を覚っていたのか、少年に向かってほんのりと麗しい微笑みを投げかけてきます。その笑みは、非の打ちどころも、一点の曇りもありません。
 少年は自分の小汚ないなりが急に恥ずかしくなり、どきまぎしながら俯きました。そして一度も顔を上げられないまま、礼拝は終わりを迎えていました。あんなに楽しみにしていた讃美歌も、今日は少年の右耳から入って、そっくり左耳から抜けていってしまったようでした。
 神父さんの挨拶のあと、そろそろと頭をもたげると、青年の姿はどこにもありませんでした。うつくしい微笑みを少年の記憶に刻みつけて、いずこへと消えてしまっていたのです。はて、自分は幻でも見ていたのだろうか、と少年は首を捻りました。

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