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※残酷・猟奇的な表現があります。



 約10メートル四方の正方形の部屋に踏み入る。
 がらんとした無機質の部屋には先客がいて、こちらの姿を見るなり声にならない叫びを上げた。ルカは伏せ気味にしていた面(おもて)をゆらりと上げ、先客の方へ視線をやる。
 中肉中背の、これといって特徴の無い30前後の男だ。両腕はしっかりと手錠で戒められており、双眸には怯えの光が宿っている。ルカは男を見下ろして、両目をすがめた。この男には、自分はさしずめ背の高い幽鬼にでも見えていることだろう。男の唇がわななき、死神、と消え入りそうな言葉を押し出した。

「私は神ではありません」

 ルカは冷ややかに言い放つ。

「この世に神がいるとしたら、それはディヴィーネ様だけです。貴方はそのディヴィーネ様を裏切った。貴方が受ける処罰はお分かりですね」

 青ざめていた男の顔が蒼白に転じる。絶望を悟ったのだろう。ルカはじり、と男に歩み寄った。
 この部屋は、"罪"ペッカートゥム内での異端審問に使われる専用の空間だ。異端審問とは、早い話が粛清である。ディヴィーネに反旗を翻したりディヴィーネを欺いたりした者は、ルカをはじめとする異端審問官によって断罪される。とはいえ、この部屋に連れてこられた時点で、その者の運命は決まっているのだが。
 その運命とは、死だ。
 部屋の三方はコンクリートだが、出入口の正面だけは鏡張りになっている。その鏡は反対側からは透明に見えるマジックミラーで、その向こうにディヴィーネがいる。かつて仲間だった者が異端審問官によって血祭りに上げられるのを、その澄んだ碧の瞳で、じっと見ているのだ。
 異端審問にかけられた者の行動は概ね二つに分けられる。一方は異端審問官にしゃにむに襲いかかってくる者。もう一方はもはや戦意を喪失し、呆然と己の運命を噛み締めている者。今、ルカの目の前にいる男は後者だった。

「スパイ容疑により貴方を粛清します」

 がちがちと歯を鳴らす男に向かって、ルカは淡々と伝える。
 この男には、影のスパイの容疑がかかっていた。その疑いが正しいのか、誤りなのか、異端審問官にとってはどちらでもよいことだ。罪の戒律にはこうある。"疑わしきは罰せよ"。疑われた人間は死ぬしかないのだ。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 震えるばかりだった男が、必死の形相でルカを見る。

「か、家族がいるんだ! 娘が……2歳になったばかりで……。最期に、す、少しだけでいい、家族に会わせてくれ!」

 ルカは男に歩み寄る足を止めた。

「ああ、貴方、家族がいるんですか」

 ルカは心の内で納得した。おそらく、影の人間に家族を人質に取られ、情報を流さなければ家族を傷つける、とでも脅されたのだろう。家族はそういった場合によく脅しの材料にされる。分かりやすい話だ。影の人間も同じ穴の狢だから、彼らの考えそうなことは大体分かる。
 それにしても、とルカは内心で嘲笑を漏らした。家族ごときに自分の命すら懸けてしまうなんて、愚かな男だとしか言いようがない。配偶者など全く赤の他人だし、子供だってまた作ることができる。家族を知らないルカにとって、家族のためという理由で無謀を犯す人間は軽蔑の対象だった。
 この世には、ディヴィーネ以外に命を懸けるべき存在などないのに。

「頼む! ほんの少しだけでいいんだ! お願いだ!」
「安心してください」

 喚き続ける男の頬には、興奮のためか朱が注している。ルカはまた、男へ歩み寄る足を進めた。

「心配しなくとも、すぐに会わせてさしあげますとも。――あの世でね」

 一瞬、一縷の希望を見つけたように弱く輝いた男の目が凍りつく。上気していた頬がさっと色を失う。男の瞳は、己の死を悟ったときよりも深い絶望の奈落を映していた。
 他人が絶望を感じることについてルカは何も思わないが、おそらくディヴィーネは喜ぶだろう。そういう意味では今の言葉には意義があったと思う。

「な、なんで……家族は……関係ない……。まだ、死にたくない……死にたくない……!」

 糸の切れた操り人形のようになった男が、魂が抜けきった虚ろな声を出す。
 関係があるかどうかは男が決めることではない。これ以上の問答は不要だとルカは判断した。
 右足を強く蹴って男に肉薄する。恐怖に染まった表情が眼前に迫る。利き手である左手の指を揃え、手のひらを上に向け、大きく振りかぶって男の腹へと勢いよく突き出す。指は容易く肌を切り裂き、いとも簡単に肉が裂ける。手が生暖かいものに埋まる感触。男が絶叫したが、ルカは聴覚を意識から遮断した。
 ルカは男の内部にあるものを掴んで引きずり出す。鮮やかな赤が滴り落ち、ずるずると細長い腸が姿を見せる。それを限界まで引き出し、断ち切った。赤い生(せい)が男の体からどんどん溢れ出てくる。鼻を突く、生の生臭い匂い。聴覚に続き嗅覚も意識から追い出す。
 男の血を浴びながら、ルカの精神は冷静だった。肉を断つ。骨を砕く。あらゆる臓器を握りつぶし、踏みにじる。男は既に絶命している。男だったものがただの肉塊になるまで、続けなければならない。そうしなければディヴィーネは満足しない。
 最後、ルカは男の頭部だったものを踵で踏み潰した。降り下ろした踵の衝撃に耐えきれず、頭蓋が爆ぜる。脳漿がぐちゅっと音を立てて四方に飛び散る。
 精神が獣から人間へと戻ってきた。一種の興奮状態から醒めた体に、どっと疲労感が降ってきて、肩で息をする。部屋の床が赤く染まり、男の目玉や内蔵や骨や指だったものが、あちらこちらに散らばっていた。嗅覚が戻ってきて、吐き気を誘う臭いが鼻腔を満たす。血の臭い。いつまでも慣れることのない臭い。
 男の最期の言葉を思い返す。今際(いまわ)の言葉が死にたくないとは、滑稽だなと思った。

「そんなに生きたいのですか……私には分かりませんね」

 呟いた声は、誰にも届かなかった。
 ぱちぱちぱち、と呑気な音がして、出入口の方を振り返る。ディヴィーネがその彫像のように整った顔に、微笑みをたたえながら部屋に入ってくるところだった。血染めの床を平然と踏みしめてルカに近づいてくる。その足元で眼球がぶちゅ、と爆ぜた。

「見事な働きだったよ、ルカ」
「……教皇様。汚れます」
「ディヴィーネと呼んでって言ってるでしょう。それはさておき、なかなか楽しめたよ。この人、ルカの言葉でどん底に落とされたような顔をしていたね。傑作だったと思うよ。うん、最高だった」

 ディヴィーネは無邪気な子供のようにくすくすと笑い声を立てた。

「さ、おいでルカ。体を洗ったら、ご褒美をあげよう」
「……有り難き幸せ、光栄です」

 ディヴィーネは微塵もためらうことなく、ルカの血だらけの手を取る。ディヴィーネが身を翻すと、きらきらと輝く銀髪がふわりと躍り、花のような香りが周りに散った。
 ルカは主に手を引かれ、肉塊が沈黙する部屋を後にした。

――異端審問

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