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 何年かぶりに好きな人ができた。 
 27年生きてきて、生まれて初めての、一目惚れだった。


 春の麗らかな日だった。まだ新学期は始まっておらず、どこかで部活動に励む生徒たちの声が遠音(とおね)に聞こえ、それが校舎の静けさをいっそう際立たせていた。
 薄い青を背景に、つぼみの膨らんだ桜の枝がそよ風に揺れる。小鳥が開花を待ちかねて、控えめなさえずりを繰り返す。景色は淡く霞み、空は突き抜けるように、どこまでも透明だった。
 私は新学期へ向けたミーティングのため、職場である遍高校へ来ていた。まだ開始時間には早いけれど、自分の授業の準備をしようと早めに出てきたのだ。要領が悪いから、準備するのに時間がかかるのは分かっているし。
 愛車の軽を駐車場まで運転すると、既に車が一台停まっているのが見えた。ぴかぴかの、黒いセダンだ。見慣れない車種だなあ、と思っていると、黒いスーツを着た男性が後部座席に頭を突っ込んで何やらごそごそやっているのに気づいた。荷物を運ぼうとしているらしい。もしかして新任の先生かな。

「あの、すみません」

 私は手伝おうと思い立って声をかけた。自分もこの高校に着任したとき、運ぶものが予想外に多くて苦労したものだ。
 男性が上半身を車内から出して、私に向かい合う。長身だった。歳は私より少し上というところだろうか。
 そして、彼の顔を見上げた途端、私は呼吸ができなくなっていた。

 瞬間的に、かっこいい、と思った。

 精悍な顔つき。通った鼻すじ。黒縁眼鏡の奥の、まっすぐな眼差し。真一文字に結ばれた意思の強そうな唇。
 気づけば、胸が高鳴っていた。
 声をかけたきり何も言わない私に対して、目の前の男性が少し不審げな表情をつくる。

「何でしょうか」

 わあ、声もほどよく低くて素敵――じゃなくて。

「あ、あの! 新任の先生ですよね? 荷物運ぶの、て、手伝いましょうか」

 我に返った私が慌てて聞くと、男性は表情を緩めてかぶりを振った。

「いえ、女性の方に重いものを持たせるわけにはいきませんから。……こちらの高校の先生ですか?」
「そうですっ、水城といいます、英語を教えてます。私もまだこの高校に来て二年目ですけど、何かあったら何でも聞いて下さいっ」
「その機会が来た時には、よろしくお願いします。私は桐原といいます」

 男性が"私"って言うの、なんだか良いなあ、とぽーっとする頭で考えながら、慌ててお辞儀を返す。27歳にして、生まれて初めて一目惚れを経験するとは思わなかった。
 柔らかな春風が、桐原先生の黒髪を少しだけ、揺らした。



 入学式が滞りなく終わり、桜が満開を迎え、やがて花吹雪を散らすようになった頃、新任の先生方の歓迎会が開かれた。
 会が始まって、もう1時間あまり。場もかなり温まってきている。私はちらりととある一角に目をやる。
 桐原先生がいた。彼は最初の席から移動せずに、隣に入れ替わり立ち替わりやってくる先生方と話をしているようだ。その顔には時おり微笑が浮いている。ああ、笑顔もなんて素敵なの。
 先生の前には徳利とお猪口が置かれていて、彼は上機嫌になるでもなく酔い潰れるでもなくまして泣き上戸になるでもなく、ただ淡々と盃を進めていた。強いんだなあ、と私はアルコールで靄がかかった頭でぼんやり考える。少し顔が赤らんで、口元が弛んだ桐原先生も見たかった気もするが。きっとかわいいし。
 ――うん、私は一体何を考えてるんだろう。酔ってるのだから仕方ない。そういうことにしておく。
 会が始まってから、私はまだ桐原先生と話をしていない。酔いに任せでもしないと、緊張してまともに顔も合わせられない予感がして、踏ん切りがつかないでいた。現在、桐原先生は同年代の長谷川先生と、二人で何事か喋っている。
 私と長谷川先生はそれなりに親しい。これは絶好の機会だ。
 私は手の中にある、氷で薄まりつつあるカルーアミルクをくいと傾けた。よし。行こう。

「長谷川先生、桐原先生、お疲れさまでぇす」
「あー水城さん、お疲れさまです」
「お疲れさまです」

 ふわふわした足取りで二人のもとに近寄ると、長谷川先生が人の好さそうな笑顔をこちらに向ける。長谷川先生を挟んで、桐原先生が軽く会釈してくれた。目が合った瞬間、すでにアルコールで火照っているというのに、頬の熱さがまた一段階ひどくなる。茹でダコみたいな顔になってたらどうしよう。その時はせめて、苦笑でいいから、笑ってほしい。
 私の作戦はこうだ。自分と親しい長谷川先生をダシにして、あわよくば桐原先生に私のことを知ってもらい、あわよくば彼との距離を縮め、あわよくば仲良くなってしまおうというのだ。
 長谷川先生には悪いけれども、彼は自分が見知らぬ土地で迷ったとしたら、こういう人に道を尋ねるだろうなと思わせる、いかにもお人好しな人相であるので、あまり気にとめないでいてくれるはず。そう信じてる。信じてますよ、長谷川先生。
 長谷川先生はいい人だ。第一印象を十人に聞けば、十人が"いい人そう"と答えるに違いないほどの。初めて話したとき、私もそう思った。そしてその印象は"いい人なんだけど……"へと変わる。私もそうだった。
 いつだったか、彼女が欲しいと嘆く彼を慰めたことがある。

「長谷川先生なら絶対いい人見つかりますよ! 私は付き合えませんけど」
「そういうことなんすよねぇ」

 そう相槌を打って笑う長谷川先生の顔は寂しげだった。でも私の胸は痛まなかった。ごめんなさい長谷川先生。
 三人の会話は、自然と新任の桐原先生の話題になる。

「俺、桐原さんを初めて見たときはびっくりしましたねえ。なんでこんな人が教師なんかやってるんだろうって」

 ビールのジョッキに手をかけながら話す長谷川先生を、桐原先生は怪訝な顔で見やる。

「絶対、仕事間違ってますって。俳優か何かになった方がいいですよ」
「私もそれ、すっごい分かります!」

 私は長谷川先生の意見に、勢い込んで同意した。
 だって桐原先生は、顔立ちも二枚目だし、背も高いしスタイルもいいし、声だって女性が好きそうな低さと深みがあるのだ。教師という職業は、彼の持って生まれたものを、何一つ活かせない仕事に思えてならない。
 二対の熱い視線に対して、当の桐原先生は困惑ぎみだ。

「何故です? 個性的な顔ということですか。私の顔、普通ではないですか?」
「いやっ、普通じゃないですよ! 全然普通じゃないです!」

 なんと、信じられないことに、桐原先生は自身のかっこよさに気づいていないのだ。こんな人って本当にいるんだ、漫画やドラマの中だけではなく、と私はちょっぴり感動する。
 全力で否定したあと、すごく格好いいですよ、とでも言えればよかったのだが、小心者の自分の臆病さが、その台詞にストップをかけた。お酒の勢いをもってしても口に出せないなんて、いいのだか悪いのだか分からない。
 そうですか……、と力なく呟いたあと、桐原先生は心なしか表情を曇らせ、押し黙った。
 彼がこんな場所でずっと過ごすのは勿体ないとは感じるけれど、桐原先生が先生で良かった、とも思う。彼と私が同じ職業を選んだからこそ、私たちは巡り逢うことができたのだ。そう、これはもう、運命とさえ言っても差し支えないのではないだろうか!
 私の思考は勝手に盛り上がり、舞い上がる。アルコールは人をロマンチストにするものなのだ。たぶん。

「でも桐原先生が先生でよかったです」

 心に浮かんだ思いが、理性のフィルターを介すことなく、剥き出しのままぽろぽろと外に漏れ出ていく。己の言葉なのに、その奔流を止められない。
 目の前の男性二人が揃って、え?、と疑問符を発する。

「桐原先生が先生じゃなかったら、私は桐原先生と出会えなかったわけでしょう。そんなの悲しいですもんそうじゃなくてよかった」

 私は何を言ってるんだろう、と他人事みたいに考える。そこまで打ち解けたわけでもない女にそんなこと言われたって、困るだけだろう。でもきっと大丈夫。お酒の席の戯言として、周りも流してくれるはず。
 ふにゃふにゃと変な調子で桐原先生へ笑いかければ、返ってきたのは、はあ、という曖昧な頷き。しかし手前にいる長谷川先生は、はっとした顔で私を見、俺に任せろ、と言わんばかりにテーブルの下で小さく親指を立てる。
 協力してくれる、ということだろうか。
 長谷川先生は俄然しゃっきりした様子で背筋を伸ばし、桐原先生に向き直る。
 いつだか彼は言っていた。誰かのために何かするのが好きなのだ、と。

「ほら桐原さん、始まってから全然席動いてないじゃないですか。いつまでもお客さん気分じゃ駄目っすよ! 移動しましょ、移動」
「はあ」

 長谷川先生が桐原先生の肩をぱしぱしと叩く。促された桐原先生は素直に立ち上がり、長谷川先生と席を交換した。あれよあれよという間に桐原先生が私の隣になる。ち、近い。どうしよう。膝を少し動かしたら当たってしまいそうな距離だ。
 近距離で見る桐原先生は、やっぱり格好よかった。顔から火が出そうなほど熱くなり、反射的に目線を彼の喉元あたりに落とす。
 空気にも酔いが回ったみたいな人いきれであるためか、桐原先生はスーツの上着を脱ぎ、シャツの袖も少しまくっていた。腕にも上半身にもしっかり筋肉がつき、細身に見えるのに意外とがっしりした体つきなのが服の上からでも分かる。胸板も長谷川先生と比べたら格段に厚い。数学教師らしからぬがたいの良さだ。何かスポーツでもしているとか、普段から鍛えているとかなのだろうか。
 触ってみたいなあ、と本能的に思って指先が延びそうになるしまうけれど、わずかな理性がそれを押し止める。許可を得ず他人に触ったらセクハラだ。教師の端くれたる者、いついかなる時も犯罪に走るわけにはいかない。
 もじもじする私を見かねてか、長谷川先生が話題を提供してくれる。

「さっき話してたんですけどね、水城さん、俺ら同じ仲間なんすよ。何の仲間か分かります?」
「え? えーと、同じ人間ってところですか?」
「……ずいぶんざっくりした答えですねえ」

 長谷川先生はちょっと肩を落とし、まあ、俺と桐原さんじゃ共通点が見当たらないってのも分かりますけど、とぼやく。
 気を取り直した彼が、桐原先生の肩にぽんと手を置いた。

「俺たち、独身かつ彼女なし仲間なんすよ」

 えーっ、と素っ頓狂な声を上げてしまう。

「長谷川先生は分かりま――知ってましたけど、桐原先生もですか? 信じられなあい!」
「いえ……私は……」

 嬉しい、と正直な気持ちが心に浮かぶ。こんな素敵な人がフリーだなんて、特に信じてもいない神様に感謝したいくらいだ。これは願ってもないチャンスのような気がする。
 桐原先生は眉尻を下げ、困った表情になっている。考えてみれば、彼と色恋の話はあまりマッチしない。ひょっとしたらこういうのは慣れてないのかも。困りぎみの顔もまた、いい。かわいい。

「信じられないっすよねえ。ま、桐原さんはその気さえあれば、すいすいっと結婚までこぎ着けそうですけど。俺なんかとは違って」
「いや……私などと結婚したい人がいるとは思えませんが……」

 手を胸の前にかざし、何かをせき止めるような仕草をしながら桐原先生が言葉を濁す。
 いるよ! そんな人めちゃくちゃいるよ! いまあなたの目の前にいますよー!
 と叫びたいところだが、そんなことをしたら酒乱の烙印を押されるだけに違いない。出会ったばかりでそんな醜態を晒したら、もはや挽回不可能なほど印象は悪くなる。落ち着くんだ、私。これから頑張って、少しずつアピールしていこう、私。
 そこで、桐原先生の肩越しに、長谷川先生が悪戯っぽい目配せを寄越した。そしてジョッキを携えて、そっとどこか別の場所に歩み去っていく。あとは二人でお好きなように、ということか。それか、あとは一人で奮闘せよ、ということか。
 いずれにしろ、勝負はこれからだ。いや何の勝負かは分からないが。私は気合いを入れようと、景気づけにカルーアを煽った。
 氷ばかりになったグラスを置くと、何か頼みますか、とお品書きがすっと渡される。私が一杯飲むうちに、桐原先生は徳利一本を軽く開けていた。しかも一人きりで。まるで水でも飲んでるみたいだ。
 話しながら、桐原先生がすいすいと飲み進めるのにつられ、いつにないハイペースでカクテルを注文してしまう。
 頭がぽーっとする。舌が滑らかになる。
 私は途中で、自分がお酒に弱いという事実を、すっかり忘れてしまっていた。
 いつの間にか、瞼がひどく重い。

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