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 音楽。
 ぼくは音楽を愛する。
 腐臭を放つおぞましい沼から生まれる、控えめにきらめく穢れを知らぬ宝石。ぼくは音楽を、そう定義する。


 久しぶりにルカの顔を見た。
 顔を合わせるのはほぼひと月ぶりだった。彼にはさる大がかりなプロジェクトのリーダーを任せていて、アジアの離島に行ってもらっていた。こんなに長くルカと離れたのは、十年以上の付き合いのなかで初めてだった。
 そのあいだ、どんなにぼくが彼のピアノを聴きたかったか。それは殆ど飢えといって良かった。ぼく自身は楽器を弾けなかった。ルカの奏でる憂いに満ちた旋律が、聴きたくてたまらなかった。
 彼が戻ってくるとすぐ、演奏を聴かせてと彼に頼んだ。ぼくには分かっていた。ぼくの言葉を、彼は"命令"だと解釈するだろうことを。疲弊しているはずのルカに、彼が断らない――断れないのを知りながら、ぼくはせがんだ。
 円形の防音室にぼくらはいる。ルカはピアノの前に腰かけていて、少し離れた場所の椅子にぼくも座っている。部屋の中央に置かれたスタインウェイのつや消しのピアノは、壁を走る青白い光を反射しない。

「君のピアノを聴かせてよ、ルカ。ずっと聴きたかったんだ」
「は、勿体ないお言葉です。何にいたしましょう」
「じゃあね――愛の夢、第三番」

 ルカが厳しい顔つきをぴくりとも崩さず見つめてくるのへ、ぼくはそう答えた。ルカは従順にこくりとうなずき、ピアノに向き直る。瞑目したルカの顔は、石からできた彫像のように、冷たく、生命の温かみを感じさせない。数瞬の静寂があり、その静けさの中から、彼の十指が奏でるメロディーが流れだす。
 フランツ・リスト作曲、"愛の夢"第三番。
 ぼくは目を閉じて、そのたゆたう音たちに浸る。ルカの音楽。いつも不思議に思う。甘美な曲のはずなのに、どうしてこんなにも悲しげに響くのだろう、と。
 きっとルカは愛など知らないのだ。それでいい。愛なんて下らないもの、ルカは一生知らなくていい。
 瞼の裏の暗闇のなかで、ぼくはいつしか子供に戻っていた。忌まわしい、捨て去ったはずの子供時代に。
 母に抱きかかえられてあやされる。そういえばかつては自分にも母があったなと思う。誰にでも両親があること、その不思議。記憶は他人の日記を読むようにおぼろげだ。もう顔だちは思い出せないから、概念と化した母の顔には目も鼻も口もない。
 ぼくの体はどんどん縮む。窓辺に置かれた揺りかごのなかで、波間に漂うようなゆったりとしたリズムを身体に感じる。窓からは楡(にれ)の木が見え、葉末(はずえ)を通り抜けた陽の光が、ぼくの肌を温める。ぼくの人生の揺籃期。どこからか教会の鐘の音が聞こえてきていたっけ――。
 目を瞑っていたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。はっと気がつくと、誰かに抱えられ、運ばれていた。ぼくを抱く力強い腕は、もちろんルカのものだった。
 壁にも床にも光の筋がせわしなく行き交う廊下を、ルカはしずしずと進んでいる。ぼくは彼の胸あたりを、掌でぎゅうと押し返す。

「なに、してるの……っ」
「お疲れのようでしたので、お部屋へお連れしております」

 事も無げに、平坦な調子でルカは言う。

「離して、自分で歩けるから」
「は、申し訳ございません」

 床へ降ろされた拍子に、まずい、と思った。脚がもつれて、よろけてしまったのだ。ルカの前で、避けるべき事態だった。案の定ルカが、眉根をわずかに寄せて、ぼくを見やる。

「畏れながら――ディヴィーネ様、ご無理をなさっているのではありませんか。実務は他の者に任せて、しばらく休養を取られては……」

 息苦しいほど真摯な調子だった。ぼくは笑ってしまう。無理なんて、ずっとしてる。何も知らないくせに、そんなことを言って、そんな顔をしてしまえるんだね、ルカ。君は本当に愚かな人間だ。
 冷や汗が出てきそうになるけれど、ぼくは歪んだ笑みを作って、長身のルカを見上げた。

「ぼくに意見するんだ? 何様のつもりなの、ルカ?」

 ルカは目をほんの少し見開くだけで、顔色ひとつ変えない。ぼくを見る目はまっすぐだ。理知的な琥珀色の眸は、底に至るまで全く淀んでおらず、澄んでいると言ってもいいほどだった。
 なぜ? ねえ、なぜなの。胸のうちがざわざわする。どうしてぼくをそんな目で見るの? 見られるの?
 傷つけたくなる。傷ついてしまえばいいのにと思う。
 ルカはその場で膝を折った。

「ご無礼をお詫び致します。申し訳ございませんでした。……ですが、この私めにできることがあれば、どうか何なりとお申し付けください」
「……今は、独りにしてくれるかな」
「は。では人払いを致します」
「――お願い」

 ぼくはさっさとルカに背を向けた。これ以上長く彼の琥珀の視線に曝されていたくなかった。ぶれることなくぼくを射る、その鋭い視線に。
 廊下が薄暗くて良かった。おそらく、ルカはぼくの顔色の悪さには気づかなかったはずだ。足取りがふらつかないよう、様子のおかしさを気取られないよう、気を張りつめて自分の居室へと向かう。

*  *  *  *

 その場に残された黒髪の青年は、自らの主の背中が見えなくなると、静かに立ち上がった。そして、自分の両手を開き、なかば呆然とした様子で、そこに目を落とす。

「また、痩せてしまわれていた……」

 呟きは廊下の暗がりへと吸い込まれ、青年以外に届くことはない。

*  *  *  *

 部屋に辿り着いたぼくは、何枚もの布を仰々しく重ねた服を着たまま、ベッドの上に崩れ落ちた。
 胸を押さえる。そこにある強烈な違和感。漠然とした痛み。表現できない種類の苦しみ。それは、一昨日より昨日、昨日より今日と、微弱ながら確実に大きくなっている。そして今日より、明日はきっと酷くなるだろう。

「まだ駄目だ……ぼくは果たさなきゃいけないんだ……」

 言い聞かせるように呻く。覚られてはいけない。絶対に、誰にも。
 必ずや完遂を、とぼくは何度とも知れない誓いをたてる。もちろん、自分の名において。
 やり遂げてみせる。この絶対的な、孤独のなかで。

――孤独者とイノセント・ジェム

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