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 桐原が車の時計に目をやると、もうすぐ夜の8時を回ろうとしていた。
 マンションの駐車場にセダンを停める。帰るのがすっかり遅くなってしまった。自分の部屋に入りリビングへ抜けると、テレビを見ながらヴェルナーが腕立て伏せをしていた。

「おーうお帰りぃ。腹減ったぞ」
「すまんな。注文していた本を受け取りに書店へ行っていたら遅くなってしまった」
「本ってエッチなやつ?」
「違う」

 ヴェルナーはなーんだ、と残念そうに言って、床にぺたりとうつ伏せになる。
 どうやら今日の龍介の見張りはハンスの当番らしく、金髪の青年の姿は部屋に無い。
 桐原は冷蔵庫の中身に思いを巡らす。何か二人ぶんの料理を作れないでもないが、今から作るとなると少々億劫だ。それに、ヴェルナーだけでなく自分の腹も相当空いている。

「ヴェル、今日は近くの定食屋にでも行くか? これから作るには遅くなってしまったし」

 ネクタイを緩めつつ厄介者の同居人にそう持ちかけると、床にぺったり張りついていたヴェルナーが目を輝かせてむくりと起き上がった。

「定食屋って、もしかして和食があるところか?」
「まあ、定食だからな。大体は和食だろうな」
「そうか! 行く行く! 行くぞ! 俺は行くぞ!」
「お、おう……それじゃあ、そうするか……」

 意気込むヴェルナーに半ば引きずられる形で、二人は連れだって出かけた。定食屋までは歩いて10分とかからない。道中、ヴェルナーは遊園地へ向かう子供のようにはしゃいでいた。

「俺はな! 和食がな! 大好きなんだよ!」
「そうか。それは良かったな」
「むしろ愛してると言ってもいい! 特にな! 焼き鮭定食がな! 大大大好きなんだな!」
「そうか」

 とてもうるさい。
 ヴェルナーの足取りは踊るように軽やかだ。誰もお前の好みなんか聞いてないし興味もない、と桐原は声に出さずに毒づいた。
 目的の定食屋は、仕事帰りのサラリーマンで賑わっていた。時間が遅めだからか一杯やっている人々もいる。幸いテーブル席がひとつ空いていて、桐原とヴェルナーはそこに通された。
 この定食屋は味はなかなかで、安めな割にご飯も野菜もボリュームたっぷりなので、働き盛りのサラリーマンにはけっこうな人気だ。今も店内はスーツ姿の男性が殆どで、派手な服装かつ赤髪のヴェルナーは店の中でかなり浮いている。水を持ってきた大学生くらいの女性が、奇異なものを見る顔つきでヴェルナーを一瞥した。
 ヴェルナーはといえば、そんな視線を意にも介さずメニューとにらめっこしている。

「決まったか」

 ヴェルナーは返事もせず唸るばかりだ。

「……魚……鶏……豚……はたまた野菜……」

 眼がメニューの上を目まぐるしく動いている。

「うーん……うーん……」
「おい、早く決めたまえ。なんでそんなに悩むんだね」
「えっだって全部うまそうだし……でも全部は食べられないし……どうしよ……」
「そんなもの、また来たときに別のを食べれば良かろう」

 呆れて溜め息混じりに言うと、ヴェルナーは名案を聞いた! とばかりに顔をぱああと明るくした。

「あっなるほどそうか! じゃあメニューの先頭から食べよう! すいません! 刺身定食ひとつ、ご飯大盛りで!」

 いきなり大声で呼び止められて、先ほどの大学生らしき女性はびくりと肩を震わせた。
 思慮の浅い男だ。彼女を気の毒に思いながら、桐原は鯖味噌定食ひとつ、と自身の注文を伝えた。



 注文した定食が目の前に置かれると、ヴェルナーはきらきらした目でそれをしばし見つめた。人の目は実際きらきらすることがあるのだなと桐原は変なところに感心する。
 いただきます、と軽く手を合わせてから、桐原はずずずと味噌汁を啜った。ここの味噌汁は珍しく生姜を利かせたもので、これが非常に美味なのだ。何度か自分でも味を再現しようとしたものの、まだ成功には至っていない。
 ふと前方を見ると、ヴェルナーは未だにじっと料理を注視している。殆ど呆然としていると言っていい表情だ。

「何をしているんだ。早く食べんと冷めるぞ」
「……じゃあ、い、いただきます」

 神聖なものであるかのように、ヴェルナーは恭しくお椀を手に取った。大袈裟だ。

「いや俺、和食が好きすぎてさ、なんか近づきがたい存在に思えちゃうんだよね」

 どうでもいい。

「味噌汁うまい」
「そうか」
「漬物うまい」
「そうか」
「白米うまい」
「そうか」
「サラダうまい」
「……そうか」

 それは和食ではない。
 食べ進めるうちに、ヴェルナーの口数が減り、そのうち滂沱(ぼうだ)の涙を流し始めた。桐原はぎょっとして箸を取り落としそうになった。ヴェルナーはしきりにschoen、schoenと感嘆したように呟いている。

「素晴らしい。これは。神が作った料理だ。素晴らしすぎる。Mein Gott! 信じられない」

 自分で食べているのに信じられないもクソもあるかと桐原は心の中で悪態を吐く。
 食べながらおいおいと泣くヴェルナーを、客の数人が怪訝な顔でちらちらと窺っている。
 こいつは何なのか。真性の阿呆か。ただでさえ目立つ存在なのに、更に悪目立ちするような言動をなぜするのか。

「おいヴェルナー……ドイツにだって和食の店くらいあるだろう?」

 気を逸らすためにそう声をかけると、感動しきりだったヴェルナーが今度は憤慨し始めた。

「はあ……ドイツの和食屋なんてただのぼったくりだぜぼったくり。あいつら和食と名が付いてりゃ売れると思ってるんだぜ? 魚は悪くなりかけだし天ぷらの衣はびちょびちょだしよぉ! Scheisse! 美味くもなんともない、料理とも言えないもんを馬鹿高く売りやがって! ふざけんなってんだ! まあ食べるけどよ」

 食べるのかよ、と桐原は脱力した。
 もうこの男の相手をしたくない。精神的な疲労感を感じつつ、早く店を出ようと桐原は黙々と箸を進めた。



 店を出る頃には桐原はぐったりしていた。なぜ夕飯を食べるだけでこんなに疲れないといけないのか。全ては上機嫌で隣を歩くこのふざけた男のせいだ。
 ヴェルナーは定食の刺身の種類におかしな節をつけてふんふんと歌っている。

「ブリ〜イカ〜マグロ〜ふんふんふーん」

 とてもうるさい。

「いやー美味かったなあ」
「まあな」
「また近いうちに来たいもんだねえ。あっそん時もお前の奢りね」
「死んでくれ」
「とか言って、俺が死んだら悲しむんでしょ?」
「むしろせいせいする」
「またまたー」

 言葉はすべて上滑りする。こういう風になったヴェルナーには何を言っても無駄なのだ。桐原はうんざりして深く嘆息した。

「いやー俺、ほんと自分が和食大好きなんだなって改めて思ったよ」
「そうか。私は貴様のことが心底嫌いだと改めて思ったよ」
「うわー何それ、ひでぇ」

 ヴェルナーが楽しげな笑い声を上げる横で、桐原は思いきり顔をしかめた。

――こいつのやることなすこと全てが気に入らない

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