忌々しい旧友・ヴェルナーの突然の来訪から一夜が明け、また夜が巡ってきた。
 リビングの空間に紫煙が漂っている。それを、茫漠とした思考の隅でぼんやり眺める。ふと我に返って、その煙を吐いたのが他ならぬ自分であることを知覚する。
 リビングには私とヴェルしかいなかった。ハンス君は、私の教え子でもある茅ヶ崎龍介の護衛へと出向いている。護衛はヴェルとハンス君が交代で就くとのことで、今夜はあの金髪碧眼の油断ならない青年の担当らしい。影の予見士から届く報告によれば、"罪"の襲撃の確率はしばらくは0%だそうだが、念には念を入れる方針のようだ。
 ヴェルはソファに寝転がり、本棚から勝手に取った文庫本を退屈そうに読んでいる。真っ暗なテレビの画面からは、沈黙だけが吐き出されていて、静かだ。私は一人掛けのソファに凭れて、"英雄"と呼ばれている存在について考えていた。

 ――桐原さんは、"英雄"のことをご存じなんですよね。
 ――ヴェルナーさんから、桐原さんが"英雄"について知っていると伺って。

 ハンス君はそう言った。何度思い返しても胃の底がむかむかする台詞だった。ハンス君に腹が立つのではない。怒りの矛先は、目の前でぐだぐだしているこの男、ヴェルナー・シェーンヴォルフだ。
 いつもの自分なら、苛々して無意識のうちに煙草に火を点けるなどあり得ない。来客中は――ヴェルを客と呼べるかは甚だ疑問だが――煙草は吸わないと決めているのに。
 揺らめく白煙越しに、その苛々の原因が不意にこちらを見た。

「似合わねえな。お前が煙草吸うの」
「……だろうな」

 投げ遣り気味に首肯する。
 煙草の臭いは好きではない。むしろ苦手で、嫌いだ。喫煙者でありながらそんなことを言えば、きっと他人は頭のおかしい奴だと非難の目を向けるだろう。解りきっている。それでいいのだ。
 贖罪。
 自分にとってこの行為を定義するなら、そういうことになる。
 ヴェルが持っていた本を机の上へぽいと放った。

「縦書きの本読んだの久しぶりだけど、やっぱり読み辛ぇよな。なんかエロい本とかないの?」
「そんなものはない」
「いつも何読んでんだよお前」
「貴様は普段そういう本ばかり見ているわけか?」
「大人の男としての嗜みですー」
「ずいぶん高尚な嗜みだな」

 皮肉を放って、ヴェルの軽口まで押し潰すように、吸いさしの煙草を灰皿にぐりぐりと押しつける。
 私はヴェルを見る目をすがめた。無駄に察しのいいこの男は、おそらく私が今何を考えているかを見通しているだろう。きっと、この部屋に満ちるちくちくした空気を読んだ上で、わざとふざけた態度を取っているのだ。
 虫酸が走った。どこまでも食えない男だ。
 なぜなんだ、と出し抜けに問いをぶつける。

「うん?」
「どうして、ハンス君に言ったりした。私が"英雄"のことを知っているなど」
「そんないきなり言われてもねえ……」
「ヴェルナー。私の目を見て答えろ」
「何? 怒ってんの? 別に言ったっていいじゃん」
「――貴様は知っているはずだろう!」

 怒声を張った私を、ヴェルが見上げてくる。その視点の変化で、自分が立ち上がっているのを遅れて自覚する。理性が感情に飲まれていた。ほとほと嫌気が差す。この男を前にするといつもこうだ。
 ヴェルが目をすいと細めて、ぞっとするほど冷たいせせら笑いを浮かべる。

「どうしてそんなにムキになる? "英雄"のせいで、ルネが死んだと思ってるからかい?」

 一瞬、世界が動きを止めた。
 自分の喉がひゅっと鳴る。
 体の血液がぜんぶ沸騰したと思った。体の内部から沸き上がる、ぐらぐらと煮えたぎった憤り。思考回路が至るところで焼き切れ、ショートし、激しく散る白い火花。眼前が真っ白になる。正常な判断などもはや不可能だった。
 正気に返ったとき、私は両手でヴェルナーの胸ぐらを掴み、その上半身をソファの背もたれに思いきり押し付けていた。自分でも恐ろしいくらい、息が荒くなっていた。まるで獣だ。

「おいおい、痛ェな」

 ヴェルはこの状況を楽しんですらいるかのように、薄ら笑いを口の端に残している。

「お前の悪い癖だぜ、そうやってすぐに手をあげるのはよ」
「貴様……よくも私の前でそんなことが言えたものだな」
「いやァ、そんなに気に障るとは思わなかったからね」

 嘘だ。私を逆上させるような言葉を、こいつは意識的に使っている。
 心底憎かった。そして吐き気がするほど羨ましかった。
 何もかもを見透かしているようなこの男が。この状況で、ためらいもなく彼女の名を口にできる無神経さが。

「私の前で――金輪際その名を出すな」
「図星なんだろ?」
「……何だと」
「そこまで怒るってことは、自分でそう思ってるって言ってるのと同じだぜ。分かりやすいね、錦くんは。自分で自分に嘘が吐けないもんね」
「その口を……ふざけたことが二度と言えなくしてやろうか」
「殺したいほど俺が憎い?」

 ヴェルが私を注視する。肉食獣と同じ輝きを宿した瞳が、意地悪く私の反応をうかがっていた。その表面をよく見れば、赤い目の中に映りこんだ愚かしい男が、こちらを見返している。なんと狂った表情をしているのだろう。
 頭に昇った血がすっと下がっていく。手に力が入らなくなって、ヴェルの胸ぐらから両手が離れた。
 ヴェルは乱れた胸元を直しつつ、追撃の手を止めようとしない。

「違うよなぁ? お前が殺したいほど憎いのは、お前自身だろ。あいつが死んだのに、自分だけ生きてるのが許せない? 好きでもねえ煙草吸って苦しんで自分痛めつけて、満足か? 」
「何を……知った風な口を……」
「そんなに睨むなよ。お前はポーカーフェイスをもっと勉強しなきゃ、思ってることがバレバレだぜ」

 脱力して棒立ちになる私の襟元を、今度は逆にヴェルが掴み、力任せに引き寄せる。

「お前は目を背けてるだけだ。ただ逃げたいだけだろ。生きることから」

 歪んだ口元から、尖った犬歯が覗いているのが、よく見えた。

「俺ァ軽蔑するね。死ねないから生きてるってだけの奴をよ」

 乱暴に、胸を突いて離される。吐き捨てられた言葉に反論する術を、私は持ち合わせていない。
 この男の言うとおりだった。大切な人を見送ってなお、ここに生きていること、生き残ってしまったことへの罪悪感を、自分で自分を痛めつけて、押し殺している。なんとかそれでやり過ごしている。
 とんだ愚か者だと思う。しかしそれが私なのだ。

「――私の気持ちが、貴様に分かってたまるか」
「ずいぶん青臭いことを言うねェ。勘違いしてもらっちゃ困るがな、俺はお前を理解しようだなんて、これっぽっちも思っちゃいねえんだよ。ただ、お前が分かりやすすぎなだけだろうが」
「貴様は――私をどれだけ虚仮にすれば気が済むんだ」

 詰問したつもりだったのに、まったくと言っていいほど、己の声には覇気がなかった。
 だから、この男には再会したくなかったのだ。私の過去を、ヴェルは何もかも知っているから。彼の顔を見れば、自分が考えまいとしていることを、否応なく突きつけられるから。自分の弱みを自覚するのが怖かったから。
 こうなるのは分かっていたのに、ちっとも取り繕えない自分が、情けなくて仕様がなかった。

「相変わらず錦くんはヘタレで甘ちゃんだねェ。昔とぜーんぜん変わってない。本当に救いようのない馬鹿だよ、お前は」

 ヴェルは私の問いかけには答えず、侮蔑の冷笑だけ投げて寄越した。
 その言葉が的確すぎて、私は何も言えなかった。
――の罪を呪えども


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