(承前)

 冷たい指で心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
 いるはずのない人物がそこにいる。もう二度と見ないと思っていた、その顔。忘れかけていた、いや、忘れたと勘違いしていた苦々しい思い出たちが、閃光のように脳裏に明滅する。情報の洪水にうろたえる。自分が立っている場所が崩れていくような感覚があった。

「おいおい、ばったり幽霊に出くわしたみたいな顔をすんなよ。傷つくだろうが」

 そこに立っている赤目赤髪の長身の男が、薄く笑いながらほざく。武力組織である"影"の一員、ヴェルナー・シェーンヴォルフ。
 忌々しい、自分の旧友だ。
 男がつかつかと歩み寄ってきて、その血色の瞳でじろじろとこちらを見た。

「8年間でずいぶん変わったなあ、お前。一瞬人違いかと思ったぜ」

 8年。そうだ。8年前まで、桐原は影の一員だった。そして、敵対する"罪(ペッカートゥム)"との抗争に明け暮れていた。記憶の隅に追いやり、忘れたふりをしていた事実。

「それに、眼鏡なんかかけちゃってさ。目が悪いわけでもねーくせによ……ってちょっと待って痛い痛いから引っ張らないで痛いから」

 完全に停止していた思考を奮い立たせ、ヴェルナーの腕を掴んだ。強引に階段下の目立たないスペースに引き入れる。できるなら無駄に悪目立ちするこいつを人目に晒したくない。加えて会話も聞かれたくない。
 放り出すようにその腕を離して、ヴェルナーと相対(あいたい)した。この場にこの男がいる、という現実に目眩すら覚える。昔と変わらない、本心の読めない顔。その顔を彩る、鮮血のような赤。
 身に纏うボルドーのスーツと黒いシャツが、彼の髪色や虹彩と相まって強烈な印象を与える。どう見ても頭のネジが何本か飛んでいる。

「何をしに来た。なぜ貴様がここにいる?」

 何年も遣う機会のなかったドイツ語に頭を切り替え、詰問する。ドイツはヴェルナーの母国である。ヴェルナーはやれやれといったように軽く肩をすくめた。

「何年も会ってなかった友人にいきなりそれかよ? そりゃあお前、新しい環境で頑張ってるであろう大切な友人に陣中見舞いをだな……」
「白々しい嘘を吐くな。用向きは何だね? さっさと済ませてさっさと帰りたまえ」

 ヴェルナーは整った顔にへらりと笑みを浮かべる。きつい口調で話しているのに、一体何が可笑(おか)しいのか。

「あー、はは。お前のそのおっさんくさい喋り方、すっげー懐かしいわ。つうか、年齢の方が喋り方に追いついてきたか? 30歳だもんな。もう立派なおっさんか?」
「……わざわざドイツから私を馬鹿にしに来たのか?」

 ヴェルナーの顔をじっと見る。正確には睨む。
 ヴェルナーと最後に会ったのは8年前だが、軽薄が服を着て歩いているようなこの男の外見は、当時と殆ど変わっていない。驚くほどに、だ。

「貴様は変わらんな。能天気なところも、口が軽いところも、ちゃらんぽらんなところも、何一つ」
「え、昔と変わらないって? そんなに褒められると照れるじゃねーか」

 褒めていない。
 皮肉をこれでもかとばかり込めたのに、ヴェルナーには全く通じないらしい。
 思い返せば昔もそうだった。いつも捉えどころの無い態度で、桐原の小言や苦言を受け流してばかりいた。彼のそういう、何ものにも囚われない奔放なところが、桐原は嫌いだった。
 変わっていてくれれば良かったのに、と思う。彼の容姿や性格が当時と変わっていたなら、余計なことを思い出さなくて済んだかもしれないのに。
 ――例えば、彼女のことであるとか。
 記憶の奥底で、銀色が揺れる。

「ま、陣中見舞いってのは冗談だよ。上から仰せつかった任務でさ。話したいことがある」

 急に眼光を鋭くして、ヴェルナーが告げた。
 聞きたくなかった。きっとろくでもない話だと容易に想像がついた。この男の所属する"影"とは、"そういう"ところなのだ。

「……分かった」

 渋々頷いて、スーツのポケットから車のキーを取り出す。お、という顔をしたヴェルナーに、それを手渡す。

「任務の話なら、私の家でした方がよかろう。まだ仕事があるから、車の中で待っていろ。黒のセダンだ。勝手に乗り回すなよ」
「へいへい」

 鍵を受け取ったヴェルナーが踵(きびす)を返す。早いとこ終わらせろよ、とひらひら手を振る後ろ姿が、一瞬だけ昔のヴェルナーに見えて、息が詰まる。
 その残像を振り切って、桐原はまた職員室に戻った。
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