月は、常に同じ方向を地球に向けているという。地球から月を見ている人間は、月の裏の顔を知ることは決してできない。
 月だけでなく、人も、ひょっとしたらこの世の中も、同じようなものなのかもしれない。



「茅ヶ崎。話がある」

 数学の授業が終わったあと、そう桐原先生に切り出され、彼の顔を見た龍介は少し驚いた。
 先生がひどく深刻そうな、険しい表情を浮かべていたからだ。

「なんですか、話って」
「……ここではできない話なんだ」

 二人の周りを、賑々しく生徒たちが通りすぎてゆく。
 先生は苦虫を噛み潰したような渋い顔をしている。彼にしては珍しく、歯切れが悪い。

「君、放課後の予定はあるかね」
「いえ」
「そうか。……すまんが私の家まで来てくれないか?」

 龍介は先生の眼鏡の奥を見つめた。真剣な眼差しがそこにあった。虫の知らせと言うべきか、なんだか嫌な予感がしたが、予定がないといった手前、行かないわけにはいかなかった。



 放課後、校舎の周りには既に夕闇が迫っていた。カラスが一羽、二階教室の欄干に止まって、じっとこちらを窺うように見ていた。
 その視線を振り切るようにして、龍介は先生の黒いセダンに乗り込んだ。いつも不敵な雰囲気を纏っている先生は、切羽詰まったような、思い詰めたような、余裕のない表情をしている。龍介の心中は穏やかではなかった。
 先生が運転するセダンは、学校から20分ほどの場所に立つ、新しそうなマンションの駐車場へと導かれるように進んでいく。そのマンションは小綺麗だがおしゃれすぎるということはなく、どちらかというとシンプルで機能美というものを感じさせる造りをしていた。
 小中高を通じて、先生の家へ上がるのは初めての経験だった。先生も自分と同じように普通に生活してるんだな、と妙な感慨にふける。
 駐車場からエレベーターに乗り、先生の部屋へ向かうあいだ、先生は無言を貫いていた。龍介も何を話していいやら分からず、二人とも黙りこんでいた。
 先生がカードキーでドアを開けると、淡いクリーム色の壁が目に入った。小さめの傘立てと靴箱が置いてある玄関から、短い廊下が続いている。そして驚いたことに、部屋の中には先客がいた。三和土(たたき)からフローリングに上がったすぐのところに、長身の、燃えるような赤毛をした欧米人らしき男が立っていた。年の頃は20代後半といったところか。整った顔には薄く笑いが貼り付いている。黒いジャケットに鮮やかな紫色のシャツを着て、胸元にはクロスのネックレスが覗いていた。
 派手な人だな、と龍介は思った。桐原先生とは正反対だ。

「来てもらったぞ」

 先生は男がそこにいるのが当然といった様子で声をかけた。
 赤毛の男はすい、と視線をこちらに寄越し、

「君が茅ヶ崎龍介くん?」

 微笑んだまま、流暢な日本語でそう訊いた。
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