樅木に積もった雪のような




潜入して2ヶ月目だった。


その男が飲みに行こう、と誘ってきたのはこれが5回目だったし
今日に限っては特段断る理由も見当たらなかったので誘いに乗ることにした。

年齢より若く見えるが、26歳だという。
私の隣のデスクで、システム管理の仕事をしていた。

私は潜入のために、『ちゃんとした段階』を踏んでこの会社に入った。

今は隣でノンアルコールのビールを貪るこの男は
入社したその日のうちから馴れ馴れしく話しかけてくる
良く言えば人懐こい人間で
悪く言えば厚かましい人間だった。



どうして、ウチに入ったんですか?

屈託のない笑顔で笑うが
私はどうしてもこの笑顔が好きになれない。


典型的な、何も知らない側の人間の顔だ。


へえ、じゃあ、今までは何をされていたんですか?

僕はね、教育機関を卒業してから
すぐに入社したんですよ。


ええ、ラッキーでした。
試験は難しかったでしょう?


お住まいはどちらですか?
ああ、いいところに住んでるんですね。
僕はもっと田舎の方です。
通うのはとても大変ですよ。

でもね、僕は車が好きなんです。
こう見えて、3台も持ってるんですよ。
通勤はドライブみたいで、とても楽しいです。
シティに入ってからはいつも渋滞ですが、、
音楽を聴いていればあっという間なんです。

好きな音楽はありますか?
、、ああ、僕も好きですよ。
何枚かアルバムを持っています。
1番新しいシングルは、もう聞きましたか?


2杯、3杯と飲み進めていく度に
酒が不味くなる。

一口飲み込む度に
目の前に座るこの男が嫌いになっていく。


煩い店内も
ギラギラと眩しい照明も
愛想のいい店員も
何もかもが私を苛立たせた。


さあ、もう帰りましょう。
明日も早いですから。



2人分の会計を済ませ
私を送っていく、と言い張るその男は
車まで私をエスコートした。

ここから私の家までは車で30分ほどだが
せっかくだから、と周辺をドライブすることになった。



恋人はいるんですか?


いない、と答えた私に
あからさまに嬉しそうな声色で
そうですか、と言う。


僕はね、初めて見たときから
あなたが気になっています。


予想通りの展開だったが
私は短く相槌を打つだけに留めた。


また飲みに行ってくれませんか。
僕は、あなたをきっと幸せにできます。

そう言って掴まれた右手を
強く振り解く。


幸せなんて、どこにもないんですよ。
ご自身の身も自分で守れないくせに
相手の幸せを保障するなんて


なんて恩着せがましい人間なのでしょう。


私の言葉に、彼はただ黙っていた。


私のマンションの前で車は静かに止まり
扉を開けてお礼を言う。

エントランスに均等に置かれた明かりは
足元だけをぼんやり照らしていた。



スズムシが鳴いている。



僕は、あなたを幸せにしたい。


それには答えず
私は静かにドアを閉めた。


バタン

聞こえるのはスズムシの鳴く声だけ。


アスファルトを滑る音は
背後で小さくなっていった。




家に帰ると
フェイタンが風呂から上がったところのようで
腰にタオルを巻いて水を飲んでいた。


フェイ、ちゃんと髪乾かしてから出てよ。
床濡れるから。


リビングのソファに身を投げると
フェイタンは不機嫌そうに舌打ちをする。


煙草くさいね。


フェイはそれだけ言い残すと
またバスルームに戻っていった。


幸せとはなんだろう。

幸せなど存在しないのに。


天井から垂れ下がったシーリングライトは
何故か一定の感覚で揺れていた。



フェイ、私を幸せにしたいと思う?



バスルームまで届くような声でそう尋ねるが
何も返答はなかった。







窓を開ければ、スズムシの鳴く声がする。


おい、閉めるね。


床で寝るフェイタンは
苛立った声でそう言った。


フェイ、私の隣の席の人がさ
私のことを幸せにしたいんだって。


フェイは小さく笑う。


幸せ?
オマエが幸せになるためには
ソイツを殺さなければ無理よ。


私は窓を閉めて
ベッドに戻った。


ものの見事に大正解を言ってのけた男は
床の上で、もう寝息を立てている。





1週間後、会社はビルごと燃えた。
不思議なことに、特許申請する前だった設計図は
データ上から全て抜き取られていた。

8回建のビルは
それぞれのフロアから同時に出火し
セキュリティシステムの誤作動で
入り口の鍵は全て開かなかったようだ。

ビルに残った従業員は、ほぼ全員が焼かれ死んだ。


悲惨な大火事を伝える新聞を読みながら
耳の奥底に残るスズムシの音を聞いた。










今の私は確かに
幸せだと言っていいのかもしれない。











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