おれも名前も、親も家もない、貧しい裏通りをうろつくだけの汚らしい子供だった。
初めて会ったのは、雨を凌ぐために入った廃屋。彼女はボロボロのシーツにくるまって震えていた。
「…別に、取って食ったりしねェよ」
『……』
散々警戒の眼差しを向けていたくせに、やがておずおずと近寄ってきて、自分のくるまっていたシーツを広げてみせたのを今でもよく覚えている。
『寒いから、一緒に入っていいよ』
そのときから、名前は何かとおれの世話を焼いた。
――りんごを拾ったよ。半分こしよう
――糸と針が落ちてたの。ズボンの穴、繕ってあげる
家族がいた記憶がないため想像でしかないが、名前がおれに尽くすさまは、親が子にする慈しみの行為と同じ気がした。その代わりと言うわけではないが、おれは名前の危機を何度も救ってやった。おれが守るたび、名前は笑んで言うのだ。
『ボーネスは、私のヒーローだね』
そうやって生きているうち、“表”の街で孤児院をやっているシスターがおれたちの前に現れた。
おれはよくない連中とつるんだりしていたいわゆる札付きで、シスターもそれを知っていたのか顔を曇らせていた。
「おれは行かねェ」
『だったら私も行かないよ』
「残ってもおまえのためにならねェ。おまえはここで生きるには弱い」
『……わかった』
名前は、シスターに連れられて裏通りを去った。
これで名前との縁も終わったのだ。
そう思っていたが、予想に反して、名前は再び薄汚いスラム同然のこの場所に顔を出した。
「なんでここにいる」
『ボーネスが心配だったから』
「ここが危ねェことは知ってるだろう」
『平気だよ。ボーネスが守ってくれるでしょ?』
名前は孤児院でもらったと言うパンと小さなチーズを半分にしておれに差し出し、別れたときよりいくらか血色のよくなった頬を染めて笑った。
『だって、ボーネスは私のヒーローだもの』
ああ、そうだ。
名前がそう言うから、おれは、ずっと。
「…言ってろ。今に痛い目を見る」
『ふふ、結局守ってくれるくせに』
それから、名前は陽のあたる世界を、おれは闇に沈んだ世界を生きた。
大きな屋敷で使用人として働きだした名前は、裏通りでいよいよ名の知られ始めたおれを心配していっそうよく会いに来るようになった。
そのたび、名前はおれに“表”で生きるよう促すのだ。
『お屋敷のボディガードになるって言うのはどう? ボーネスは強いからうってつけでしょ?』
「札付きを雇うバカはいねェ」
『そんなの聞いてみないとわからないじゃない』
おれからいい返事がもらえないのを不満がって膨らむ頬。
胸の奥のほうがふっと熱くなるのがわかった。この感情の名前に気付いてはいけないと言うことも、わかった。
「…もうおれに構うのはよせ。屋敷の連中もいい顔をしねェだろ」
『それは…そうだけど。私はボーネスが心配だもの。気にしないわ』
「名前」
滅多に口にしない名前の名前を声に出せば、名前はじっとおれの目を見つめてきた。
「おれはじきに海に出る。ここを出て行く」
『う、み…? そんな……じゃあ、私も、』
「おまえは、」
こんなこと、誰にも言えないが。
ただ、幸せになってほしい。そう、思った。
「…おまえは、おれを忘れて、生きろ」
『ボーネス…やだよ…忘れるなんて…』
「この先は、別々だ。おまえとおれの道は、最初から違っていた」
名前は泣いていた。
いつもなら泣くなと叱ってこぼれる雫を拭ってやるおれの手はもう、スカートの裾を濡らす名前の腕を掴んで、安全な場所まで引っ張って行くことしかできなかった。
『…ボーネス』
街の外れまで来ると、名前が不意におれの名前を呼んだ。
「なんだ」
『…今まで、ありがとう』
「…あァ」
向き合って、名前の濡れた目を見つめる。
これで、本当に最後だ。
『忘れることは、できないからね』
「……」
『ずっと、ボーネスは私のヒーローなんだから』
名前が急に距離を詰めて、次の瞬間、柔らかいものが唇に触れた。
余韻に浸る間もなく、名前は街のほうへ走り去る。
ああ、まるで呪いのようじゃないか。
泣いたのは僕の方だったtitle by
愛執
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