わたしの記憶のいちばんさいしょにあるもの。
濡れて冷え切った身体にじわりと温もりを分けてくれた大きな手。頬に触れるふわふわの何か。甘い煙の匂い。
◆
その日は朝から妙な胸騒ぎがしていて、普段なら屋敷のなかを好きにうろつかせている“飼い猫”も、仕事部屋の奥の寝室に閉じ込めていた。
昼を過ぎた頃、胸騒ぎは面倒な訪問者の前兆だったのだと知る。
「よォワニちゃん。遊びに来てやったぜ」
書類に目を通していたクロコダイルは、ノックもなしにドアを開け入ってきた訪問者に冷たい視線を送った。当の訪問者、ドフラミンゴはどこ吹く風と言う様子で、部屋にある質のよいソファに腰を下ろす。
「…勝手に座ってんじゃねえ。失せろ」
「連れねェこと言うんじゃねえよ。せっかく来てやったんだ」
「頼んだ覚えはねえ」
クロコダイルが絶対零度の眼差しでドフラミンゴを睨めつけていると、不意に部屋の奥からどすん、と物音がした。特に気にしていないようだったが、何の音だ、と形式的な呟きを吐くドフラミンゴ。
その呟きに答えるでもなく、クロコダイルはデスクから立ち上がり、音のした部屋の奥にあるドアに向かった。ノブに手をかけ、振り向きもせず地を這うような低い声でドフラミンゴに言う。
「用がねェならさっさと帰れ」
返事も待たずに開けたドアの向こうには、クロコダイルが愛用しているコートを下敷きにして床に仰向けに倒れている少女の姿があった。察するに、キングサイズをも遥かに超えた豪勢なベッドから落ちたらしい。
「またか」
呆れたようでいて穏やかな声色だった。
クロコダイルの姿を見とめた少女は、倒れていた身を起こし、無表情のまま困ったように首を傾げたあと、コートをベッドへ放り投げ“飼い主”に歩み寄った。すると、飼い主とドアのわずかな隙間に、目を引くピンクを見つけた。少女の目がきらりと光り、クロコダイルが止める間もなく、彼女は一目散にピンクに飛びついた。
「何だァ?」
ソファの背もたれ側から衝撃を受け、ドフラミンゴは訝りながら立ち上がった。長い腕を背に回すと、何かに触れる。少し考え、コートを脱ぐ。どすん、先程部屋の奥からした物音が、真後ろから聞こえた。振り向けば、ソファの後ろで自分のコートを鷲掴んだまま床に倒れた少女の姿。
ドフラミンゴはその少女の首根っこを造作もなく宙ぶらりんに掴み上げた。
「(海、みてえだ)」
ドフラミンゴのコートをかかえて、されるがままぶらりと宙に浮く少女のどこまでも澄んだ marine blue は無垢でいて実に蠱惑的。その青いふたつの光を、ただ純粋に欲しい。そう望んだ。
「なあ鰐よ。これをおれにくれよ」
いつの間にかデスクに戻り、何か言うわけでもなくドフラミンゴと少女を見ていたクロコダイルに声をかける。
突拍子もないことを言ったと思った。他人のところにいる人間を、まるで茶菓子をねだるように簡単に、くれ、だなんて。
クロコダイルはドフラミンゴに掴み上げられたままの少女の真っ直ぐな瞳をしばらく黙って見つめていたが、やがて口を開いた。
「てめえがもう二度とここへ来ねェと約束するなら、くれてやるよ」
「フフッ、そんなことでいいのかよ?」
「どうせ拾いもんだ」
「そうかい…じゃあ約束しよう。必要外じゃ、もう来ねえよ」
ドフラミンゴは、クロコダイルに向けていた半ば驚きの視線を目の前の少女にやった。海色のふたつの光は、感情に揺られることもなくクロコダイルを映していた。
「名前」
クロコダイルが恐らく少女の名前であろうそれを口にすると、少女は応えるようにゆっくりと瞬きをした。ずいぶん動物的な仕草はドフラミンゴの興味をいっそう惹く。
「名前。たった今からそこのフラミンゴ野郎がおまえの飼い主だ。いいな」
「フフフッ、よろしくな、名前チャン?」
素直に頷く少女を、ドフラミンゴはコートごと大事そうにかかえ込んだ。もう少しくらい嫌だと拒否され駄々をこねられると思っていたのだが、存外に、このふたりの関係は冷めたものだったのかも知れない。
ともあれ、男と少女の気がいつ変わるとも知れないし、さっさと連れ帰るに越したことはない。そう思い、いそいそと部屋を出ようとしたドフラミンゴの背に、クロコダイルの声がかかる。
「? 何だよ」
「…いや…いや。何でもねえ。さっさと行け」
「フッフッフッ、言われなくても帰るさ。じゃあなァ」
今度こそ部屋を出たドフラミンゴ。
ドアが閉まる直前、少女が今の今まで無表情だった顔をひどく切なげに歪めたことも、気のせいとしか思えない小さな声がクロコダイルの名前を呼んだことも、少女をじっと見つめていたクロコダイルしか、知らない。
返せなかったものtitle by
愛執
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