「無理かもしれない…」


ぐってり。そう表現するの言葉が私ほど似合う人間はきっといないに違いない。だって考えてもみればいい。受験本番まであと何日?センターまであと何日?焦りと不安に押しつぶされそうになる。今の私を表すならばきっとそれは酸素が足りなくて水槽の淵で口をパクパクと動かしている金魚だ。なんて無意味。なんて無駄。いくら大きく口を開けたところで、入ってくる酸素はいか程か。僅かばかりの酸素を求め、今日も私は醜く口を開くのだ。

受験開始時の意気込みはどこへやら、日を追うごとに焦りだけが大きくなっていった。同じ受験生の友人に話せば、彼女はそんな時はそれを忘れるほどに勉強すればいいと言った。でもそんな事をできるのは彼女位なのではないだろうかと思う。いや、あの子もあの子でちゃんと悩みを抱えてる。決めつけるのはあまりに失礼である。しかしそれでも、やはり焦りはなくならなかった。


(勉強しよ、馬鹿馬鹿しい)


メビウスの輪に入りかけていた自分の思考に無理やり終止符を打つ。確かに不安を消すにはこうするのが一番いい方法なのかもしれなかった。どうせやらなければならないのだ。ならば迷っている暇などない。
努力は人を裏切らないなんて言葉があるけれど、じゃあ何故受験があるのか。同じ努力をしているのに何故落ちる人間と受かる人間がいる?そういえば昔見ていたアニメでも、この世は不平等、等価交換なんて幻想だと断言した悪役がいた。確かにそうだと思ったあの時の私は相当ませたがきんちょだったのだろうと思う。
悪循環。私はまた思考の海に投げ出されたらしかった。


「マスター」


背後から声を掛けられて思わず身体がはねた。振り向けば、私を驚かしてしまったと思ったのか、申し訳なさそうな表情をしたハッサムが立っていた。彼は手にお盆を持っていて、その上では優しい色をしたミルクティーが暖かそうな湯気を立てていた。


「マスター、そろそろ休憩したらどうだ」

「…まだ今日のノルマが終ってないから」

「思考の中に沈んでいた。…それ以上は今やっても無意味だ」

「…そう、」


図星をつかれて、うるさいなと言い返したかったがそれをぐっと押えた。ハッサムの目には純粋な心配の色があったし、反抗したところで自分がこの相棒にかなうとも思えなかった。そんな私の心情までどうやらお見通しらしい彼は、とりあえず何かお腹に入れて、少しだけ話そう、と言って手際良くクッキーだのドーナツだのを出してきて皿に並べた。それをぼんやりと眺める私に、時折心配そうにハッサムがこちらを見上げる。目があった時ににこりと微笑んでやったのに、彼は少し困った様な顔をした。


「疲れた。」

「あぁ」

「どう考えたって間に合わない」

「まだ時間はある」

「間に合わないわよ」

「間に合うだろう?」


子供を諭すような口調で言われ、無性に私は子供なんかじゃないと叫びたかった。しかし叫んだら叫んだで子供であると自ら言った様なものであると考えなおし、自分に言い聞かせる。私は子どもなんかじゃない。子供じゃない。


「これを食べたら少し寝たらいい」

「寝ないわよ」

「ちゃんと起こしてやる」


そう言いながら、ハッサムは私の空になったカップに紅茶を注ぐ。彼の赤い色が白いカップに良く映えた。器用に紅茶を注ぐ彼の手は、戦う時には強烈な武器となるのである。かちゃりとカップが音を立てる。その小さな音が少しだけ眠気を誘った。


「…一時間」

「分かった。二時間たったら起こす」

「……一時間」

「二時間だな」

「…」


頑固な彼には何を言っても無駄であるらしかった。黙り込んだ私を気にもせず、ハッサムは今晩何か食べたいものがあるかときいた。何も言う気になれずそのまま黙りこくっていれば、少しだけ首をかしげたハッサムは小さく何かを言った。うまく聞きとれず、なぁにと聞き返せば、何故、と彼は言った。今度は上手く聞き取れた。しかし意味は分からないままだった。


「本当にもう無理だと思うのなら、私とまた旅に出よう、マスター」

「、ハッサム、」

「私はマスターとリーグを目指したい。目指したかった」


過去形。彼は私の想いを分かっていた。私も彼が言いたいことは分かっていた。私は昔、この地方のジムバッチは全て集めていた。あの頃、私の夢はハッサムと同じように、ポケモン勝負をして、チャンピオンに勝つ事で、そしてその夢はその先へとずっと続いていた。しかし私はリーグには、挑戦しなかった。


「マスターには、それ以上の、夢が、できたん、だろう」


ハッサムは下を向いている。表情は分からなかった。しかし震える声を押し殺している彼に、どうしようもない思いがつのる。ごめん、ごめんね。心は叫ぶ。しかしそれを今、彼には決して言ってはならない。それはきっと今この場においてはとてつもない侮辱の言葉であった。


「ならば、今更何を迷う。迷う必要なんてないだろう、マスター」

「…うん、」


ハッサムが顔をあげた。彼は優しく笑っていた。大学に行くんだろうと言う彼に、うん、としか返せなかった。そうだ。私の夢を実現させるために、私はこの受験戦争に身を投じたのだ。本来の目的は何だった?私は何を思っていた?間に合わない?そんな事を私は彼に言った。誰よりも私を想った彼に言ったのだ。


「間に合うわよ。間に合わなくたって間に合わす」

「…矛盾しているぞ」


呆れた様に言った彼にしてないわよと返す。ハッサムが差し出した紅茶を受け取り、私はそれを一気に飲み干した。ハッサムはやはり、何も言わず私を見ていた。
それはとても優しい、優しい優しい味がした。



091111
えりへ!
受験がんばれ!







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