地下鉄のフォルチュンヌ





最初は気のせいかと思っていた。いや、本当は最初の瞬間からすごく嫌だったけど、でも、気のせいだって自分に思い込ませようとしてた。そんな事ある筈ないって。別に美人でもないしいい体でもない、服装だって地味なのに、私なんかが痴漢される筈ないって。だけどいい加減、自分を誤魔化すのも限界だった。体を這い回る、知らない人の手。気持ち悪い。電車は混んでいて逃げる事も出来ない。ましてや振り向いて確かめるなんて怖くて絶対出来ない。

(あー、もうどうしよう。吐きそう)

ここで吐いたりしたら大変な事になるなあ。でも吐きそう。次の駅で逃げよう、と思う度に開くのは反対側のドアで、私は人に押されて身動きが取れないままだ。この痴漢野郎はかれこれ三駅分も私の尻を撫で回している。私が声を出せない事、分かってるみたいだった。ホント吐きそう、って口元を押さえたら耳元で低く笑われてぞっとした。怖がってるのを楽しまれてる。やだ怖い、気持ち悪い、東京マジ怖い。
這い回る手が、エスカレートしそうになった時。

「すみません、ちょっと通して下さい。あ、すみません、ごめんなさい」

聞き覚えのある声が突然耳に飛び込んできた。同時に、何かおっきくてあったかいものが私と痴漢野郎の間に強引に割り込んできた。舌打ちと共に気持ち悪い手が離れていって、反対にそのおっきくてあったかいものに守られるように包まれる。

「あ…」
「そっち見ないで」

振り向こうとしたらやんわり止められた。いつもは柔らかい声が、今は少し硬い。あ、そっち見たら痴漢野郎が見えちゃうから遮ってくれたんだって遅れて気付いた。

「たちばな、くん」
「うん、俺。ごめんね。もう少しだけ我慢して」

我慢って。ああ、橘くんに抱き込まれるような形になってるからか。すごい、優しい気遣いできる人だなーと今更ながら感心する。知ってたけど。

「あ、やばい、逃げられる」

痴漢野郎がいるであろう方向を見て橘くんが呟く。追うように動く体に、ぎゅっとしがみついて「行かないで」って言った。

「え、でも」
「いい、ほっといて。橘くんが刺されたりしたら嫌だ」
「刺されるって…」
「東京怖い」
「あ…あー…、うん、それは俺も思うかな…。でも」
「一人にしないで」

まだ迷ってた橘くんは、その一言で完全に諦めたみたいだった。知ってた、優しい人だって。

「…うん、分かった」

ごめんね、って遠慮がちに抱き込まれる。すごく安心した。さっきの痴漢野郎と同じ男の人なのに、全然違う。怖くなくて、ここは安心。
混んでる電車の中、人を掻き分けておっきな体でここまで来てくれた橘くん。きっとたくさんの人に謝りながら来てくれた。今も、周りにすごく迷惑そうな目で見られながら私を守っていてくれる。
東京は怖いけど、怖くない人もいる。



次の駅で降りて(橘くんが手を引いてくれてちゃんと降りられた)、地下鉄のホームの端っこのベンチで、橘くんはペットボトルの飲み物を買ってくれた。紅茶と水、どっちがいい?って訊かれたから水を貰った。東京ではお金を出して水を買うの、今でも不思議な気がする。私の出身地は水がきれいなところだったから。

「ここで大丈夫? 息苦しかったら外に出ようか?」
「ううん、大丈夫。外は人がいっぱいいて落ち着かないから、橘くんがよければ私はここがいい」
「あ、分かる。駅前よりエキナカの方がまだほっとできるよね。ギラギラしてなくて」
「そうそう。田舎者だからねー」
「お互いね」

大きな体じゃ窮屈そうな狭いベンチで、甘い紅茶をこくこく飲む橘くんはなんだかかわいらしかった。さっきまではかっこよかったのに、って少し笑ってしまった。

「よかった。やっと笑ってくれた」

橘くんがほっと笑って私を見た。この人、笑うと目がとろけそうになる。知ってたけど、こんなに近くで見るとどきっとする。ベンチで隣り合わせってかなり近く感じる。いつもは学食のテーブルを挟んで座る事が多いから。教室でも会うけど、それぞれの友達と一緒に座るから隣同士ってほとんどないし。
橘くんは、同じ大学の同期生だ。科は違うけど、一般課程の講義が結構かぶるから話すようになった。話すようになったら、好きになるのなんてすぐだった。私はこの人が好きだった。橘くん本人は知らないけど。モテる人だし、周りに女の子、たくさんいる。橘くんにとって私は、大学の友達の一人に過ぎない。

「心配掛けてごめんね。助けてくれてありがとう」

ぺこりと頭を下げると、橘くんは慌てた様子で手をわちゃわちゃさせた。かわいい。

「気にしないで。なんかうまく出来なくてごめんね。犯人も逃がしちゃったし」
「そんな事ないよ。助かったよ。私びっくりして固まっちゃってたから。橘くんいてくれてよかった」
「……大丈夫?」
「もう平気だよ。初めてだったからびっくりしたけど、慣れないとだよね」
「慣れるって」
「東京じゃ痴漢なんてよくある事なんでしょ? 友達が言ってた。痴漢にあった事ないって言ったら驚かれたもん。みんな、あんなのを普通にやり過ごしてるんだね。すごいな。今度友達に対処法聞かなくちゃ」
「よくある事なの? と、東京って怖いんだね…。女の子って強い」

驚く橘くんの反応が、友達にその話を聞いた時の私と同じだったから安心して笑った。橘くんも、田舎の出身なんだそうだ。何もないけど海がきれいなところだって、前に聞いた事がある。そうそう、橘くんと最初に話した時も、お互い田舎の出身でまだ東京に慣れてなくて…って話題で盛り上がったんだった。

「そうだよー。女の子は強くならないと」

笑いながら二の腕を上げて、力こぶを叩いて見せた。橘くんはきょとんとした後ぷっと吹き出した。

「全然、力こぶ出来てないよ、透ちゃん」
「えー。いや、ちょっとはあるでしょ。こう曲げるとこの辺盛り上がるしさ」

名前を呼ばれてどきっとして、誤魔化すように私は腕を曲げ伸ばしして見せる。橘くんはそんな私に笑いながら、「いや、筋肉っていうのはね」とシャツの袖を捲くった。私はぎょっとした。

「えー! 橘くん筋肉すっご!」
「あはは」

あははって。軽く笑ってるけどこれはすごい。

「ボ、ボディビル?」
「はは、違うよ。水泳やってるから」
「あ、そっか」

そういえば水泳やってるって聞いてた。でも、がっしりした体つきしてるなーとは思ってたけどこんなに間近で見た事なかったからやっぱり驚いた。

「橘くん雑誌の表紙みたい」
「え? 雑誌?」
「そう。アイアイとかのさ、セックス特集〜とかあるじゃん、よく」
「セッ…! ごめん俺、女の人の雑誌とかよく分からなくて」
「あ…、ううん、私こそごめん、変な事言って」

真っ赤になって俯く橘くんに、私はなんだかすごいセクハラをしているような気になって目を泳がせた。
ていうかセクハラされてたのは私だ。セクハラってか痴漢。ついさっきまで。なんでこんなに平気なのかな。気持ち悪く這い回る手の感触は今でも覚えているのに、吐き気はすっかり収まっている。

「……透ちゃん? 本当に平気?」
「え?」

ぼんやり口元に手をやってたら、橘くんに覗き込まれた。ひどく心配そうな優しい顔で。

「まだ怖いよね。無理しなくていいよ。俺、家まで送るよ」
「え」
「あっ、ごめんね、俺が嫌だったら誰か別の、女の子の友達に来てもらうとか…」
「嫌じゃないよ、橘くんがいい! 橘くんに送ってほしい!」
「えっ」
「あっ」

本当に平気だよ。心配しないで。送ってもらうなんて悪いからいいよ──いろんな事、言おうとしていたのに。橘くんが変な方向に気を回してくれようとするから、慌てて本音が出た。しまった。

「あー、ええと…」
「うん、分かった。じゃあもう少し休んだら行こうか」

……橘くんって、やっぱり、笑うと目がとろけるみたいになる。
今の私絶対顔赤いって思って、誤魔化すように水をごくごく飲んだ。

「…水泳、私もやろうかな」
「え?」
「水泳やったら橘くんみたいにきれいな筋肉付くなら、いいなって」
「透ちゃん、泳げないの?」
「うーん、多分ちゃんとは泳げない。プールは小学校でやったきりだし。中学は選択制で、高校にはそもそもプールがなかったから」
「あ、高校はプールないとこ多いよね。俺の高校は一応あるにはあったんだけど、何年も使われないまま放置されてて…自分達で直して水泳部作ったんだよねー」
「ええー」

それは初耳。本当に水泳が好きなんだなあ…って思った。橘くんの話、もっと聞きたいって。

「水泳、いいと思うよ。今度俺が通ってるクラブに来てみる? 教えてあげるよ」
「本当?」

好きな人にそんな事を言われてうれしくならない人間はいないだろう。私はひゅるりと舞い上がった。

「水泳始めて、橘くんみたいに筋肉付いたら少しは強くなれるかもしれないよね! また痴漢にあっても今度は自分で撃退できるように!」
「えっ」

全然力こぶが出来てない腕を叩いてみせると、橘くんが驚いた顔をした。それから、じわじわと困ったように笑う。橘くんってこんな笑い方もするんだ。

「橘くん?」
「うん…。それは、なんだか困るなあって思って。俺が」
「? なんで橘くんが困るの?」
「うーん…。透ちゃんが強くなるのは透ちゃんの為にいい事の筈なのに、俺、勝手だよね。そんな事の為に強くならないでいいなんて思っちゃって…」
「え」
「透ちゃん、痴漢に慣れたりしなくていいよ。強くならなくてもいい。俺に…、守らせて」
「…………」

橘くんってすごく優しいし友情に篤くて面倒見のいい人だから、心配のあまり言ってくれているのだろうか。橘くんならあり得るかもしれない、この人意外と天然だし。
でも、だったら、なんでこんなに真っ赤な顔して真剣な目、してるんだろう。

「俺の彼女になって下さい」
「…………」
「…………」
「…………」
「……透ちゃん?」
「……た、橘くんって私の事好きなの!?」
「わあっ! そんな大声で言わないで恥ずかしい!」

わっと両手で顔を覆う橘くん。確かにここは地下鉄のホームで、さっきからたくさんの人がひっきりなしに周りを歩いて行く。でも大丈夫だよ、みんな急ぎ足で、私達の事なんか誰も気にしてない。田舎じゃこうはいかない。東京でよかったって少し思った。

「……すきだよ。ずっと、好きだった」

橘くんが握りしめてる紅茶のペットボトルが潰れそうに震えてる。同じくらい震えた声で吐き出された言葉は、大きな体に似合わずとても小さなものだったけれど、ちゃんと私には届いた。

「……橘くん、私、もう痴漢にあっても大丈夫。強くなったから」
「えっ、もう!? 透ちゃん早過ぎない?」
「女の子はねー、好きな人の一言で強くなれるんだよー、なんちゃってー」
「えっ…好きな人って……えっ?」

勇気を出してくれた大好きな人の事を、少しも待たせたくなくて。
赤い顔のままでぱちぱち瞬きをする橘くんの目が、柔らかくとろけるところを、早く見たくて。
私も君が好きなんだよって、笑った。


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