フリリク部屋 | ナノ


錆びない星

御注意。
「いっしょにごはん」主人公の母親の話です。
佐伯と離婚する話です。全体的にあかるくないです。大丈夫な方のみお読みください。

こちらから名前変換をお願いします。










さくらがお腹にいた頃、虎次郎とふたりで近所の夏祭りに行った。
あれはどういう日だったんだろう。あの頃の私たちは忙しくて忙しくて、気持ちにも余裕がなくて毎日バタバタと日々を過ごして居た筈なのに。唐突にエアポケットのようにぽっかりと訪れた夏の夕暮れ、私たちは手を繋いでお祭りに行った。学生の頃のデートみたいにときどき目を合わせて微笑み合いながら。
私を気遣って人混みの中で腰を抱いてくれながら、虎次郎が「来年は3人で来ようね」と言って、私はその時初めてこの人と結婚したんだ、家庭をつくっていくんだって実感した。目も眩むほどのしあわせ。

…虎次郎がとても鮮やかな手つきで獲ってくれた金魚すくいの金魚は、今も水槽の中でひらひらと泳いでいる。ちいさくて真っ赤な美しい生きもの。






春。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
立て続けにチャイムが鳴った。それはこの部屋で異質な音だったから私はすぐに気付いてインターフォンに向かう。こんな鳴らし方をするなんて誰だろう。いやだな、と頭の片隅でぼんやり思ったけれどすぐにその思いは飛散して消えた。どうでもいいことだ。

「──はい?」
『佐伯さん!?』
「はい」
『川上ですけど! 隣の!』
「はあ」

かわかみさんって誰だっけ。隣って言ってる。隣…マンションの隣の部屋の人の事かな。ああそういえばこのキンキン声には聞き覚えがある。あのおばさん、かわかみさんって言うんだ。

『ちょっと佐伯さん大丈夫!? 赤ちゃん凄い泣いてるじゃない、引きつけ起してるんじゃないの!?』
「え……」

あかちゃん…?
ふわりと首を巡らせて私はああ、と納得した。ああ、さくらの事か。

この部屋には今、私と金魚と、もうひとり。
白いベビーベットの中で声を限りに泣き叫んでいるさくらがいる。

さくらが泣くのは日常の中の普通の事。この子は泣くの。生まれた時からずっと。そういう子なの。

初めは私だって気にした。
赤ちゃんはどんな子だって泣くものだけれど、こんなに激しく泣き続ける子はおかしいんじゃないかって。親の抱っこを拒絶して全身で暴れて泣くさくらを前にして、私も泣いて泣いて頭がおかしくなりかけた。
そんな時虎次郎が言った。「この子はそういう子なんだよ」って。「受け入れるしかないんだよ」って。
だから私も考えるのをやめた。気にするのをやめた。さくらは泣くの。さくらだから。この子が生きてる証だから。
この部屋の中でさくらの泣き声がしない時なんてほんの僅かしかない。さくらの泣き声はこの部屋にとって異質でなく馴染み切っているものだから、私はかわかみさんの言い分にちょっと笑ってしまった。

「いつもの事ですから。大丈夫です。ご心配かけてすみません」
『……でもね佐伯さん、夕べもずっと泣き通しだったじゃない。大変なのは分かるからうちもある程度までは我慢してたけどね、いくらなんでもこのところ酷過ぎない?』

大変なのが分かるなら黙っててくれたらいいのに。お節介な人。私は気持ちがひんやり冷えていくのを感じながら「すみません」「ごめんなさい」とひたすらに繰り返した。声に謝意がまるで含まれていないのは向こうにもわかるのだろう、尖った口調で何やらぶつぶつと言っている。私はもう一度「すみません」と言うと「ミルクの時間なので」とインターフォンをぶつりと切った。

「さてと」

私はベビーベッドに歩み寄る。白い、木のベビーベッド。虎次郎が休日に組み立ててくれた。その器用さに私は目を瞠り、「惚れ直しちゃった」とキスをしたものだ。

「さくらちゃん。あなたのせいでまた怒られちゃったわ」

怒られるのは嫌い。
さくらはタオルケットを蹴り飛ばしてわんわん泣いている。この子もきっと、怒られるのが嫌い。私の娘だもの。

「でもねえ、気にする事ないわ。大した事じゃないの」

ね?と微笑みかけてみる。私の言葉が通じたのか通じないのか、さくらはますます声をあげて泣くばかり。ミルクの哺乳瓶も小さな手で払ってしまった。

「まあ、泣きたい時もあるわよね」

私は肩を竦めてさくらの髪を撫でた。頭皮にぺったりと張り付く薄い髪の毛。虎次郎と同じ色。この子は絶対美人になると思う。

「いいのよ。私だって泣きたいもの。でも大人になったらそうそう泣けないの。今のうちに好きなだけ泣いときなさい」

泣いた分だけいい女になれるから。
私は笑ってさくらを撫でて、立ち上がった。金魚の水槽を洗って、夕食の準備をしなくちゃ。
今日は虎次郎が早く帰って来れる日。彼の好きなおからの煮ものを作ろうと思う。





初夏。
大学の同期の友達から、ランチの誘いがあったの。
洗い物をしながら何気なく漏らした言葉に、虎次郎が何か答えた。私は水を止めて「なあに?」と訊き返す。

「いいじゃん、行っておいでよ」

虎次郎はさくらに離乳食を食べさせているところだった。「はい、あーん」とスプーンを口元に運び、さくらは素直に口を開けてぱくりとそれを食べる。この子は食べることに関してだけは全く問題なくお利口さんだった。
私は、さくらの「あーん」と一緒にぽかんと口を開けてしまった。虎次郎が「同じ顔」と吹き出す。…なんて優しく愛おしそうな顔で笑うんだろうと胸が詰まった。

「本気じゃないんでしょう?」
「どうして? 本気だよ。行っておいでよ」
「でも…でも、さくらはどうするの」
「一日くらい俺が見てるし。奏子、ずっと自分の楽しみの為に外に出てないだろ。たまにはゆっくり羽根を伸ばしておいでよ」
「……」

羽根を伸ばす。
それはとても現実感のない言葉として私の胸に響いた。虎次郎の目に、今の私は羽根を縮めているように見えているのだろうか。窮屈そうに、我慢しているように見えているのだろうか。
…それは駄目だ。そんなふうに思わせたら駄目だ。安心させてあげなくちゃ。

「…わかった。じゃあお願いね。楽しみだなあ」

にっこり笑顔をつくって答えたら、虎次郎がほっとしたように笑った。…よかった。私はまだこの人をこんなふうに笑わせる事が出来る。
それなのに当日。さくらを抱いた虎次郎に「楽しんでおいで」と送り出されて玄関を一歩出た途端、私は心細さでいっぱいになってしまった。
世界にたった一人放り出されたような孤独感。なにこれ。友達といても楽しさなんてちっともなかった。ぽんぽんとゴムまりのようにあちこちへと弾む女同士の会話。昔は私も確かにその中に馴染んでた筈なのに。
野菜たっぷりのランチも話題のスイーツも、昼間から呑む健康的な一杯のグラスワインも、今の私には遠い世界のもののように感じられてしまう。私の居場所はここじゃない。
ぎこちなく笑って会話を合わせてぐったりと疲れてしまった。別の店に移動しようという誘いを断って私はマンションに帰った。それこそ、飛んで引き返すくらいの勢いで。

ドアを開けた虎次郎はびっくりした顔で私を迎えてくれた。
それから、訳のわからない不安と心細さで迷子の小さな女の子みたいに途方に暮れてる私を、ただぎゅっと抱きしめてくれた。

「おかえり」

ただいま。ぼんやり呟く。
虎次郎と、さくらと、金魚の待つ部屋。さくらの泣き声。
私はようやく安心して目を閉じた。





夏。
金魚の水槽が濁ってる。緑色に。
掃除をしなきゃと思うけれど、ふわふわとこびり付く藻のうつくしさにうっとりしてしまって掃除が出来ない。緑色の間から見え隠れする赤い尾びれ。案外金魚も快適そうだ。

私は母子手帳を閉じてぽーんと放り投げた。役所から届いたさくらの定期健診のお知らせもくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に投げる。すとん、命中。

『はいはいができますか』
『機嫌良くひとり遊びができますか』
『後追いをしますか』

ばかばかしい。ひとつもできなかったら何だっていうの。
毎回毎回健診の度に再検査を繰り返して、その度に大泣きするさくらを抱えて奇異な目で見られて、結果は「まあ、もう少し様子を見ましょう」だ。
さくらが泣くのも無理はない。私だって泣きたいもの。

「さくら」

泣き声が部屋に反響して、空気の震えとなって肌に伝わってくる。私は白いベビーベッドの横に立ってさくらを抱きあげた。嫌がって抵抗するのに構わずぎゅっと抱いているうちにひく、ひくとしゃくり上げる様な声を残してさくらは泣きやんだ。

「まあまあ。あなたが思うほど世界は悲観したものじゃないわ。ここにいたらわからないのも当然かもしれないけど」

泣いていたせいでさくらは汗だくで、体がとても熱い。いのちの熱だと思う。そのエネルギーを抱き上げる、私の方はこんなにも存在感が希薄だというのに。

「あなたの世界は今、私と金魚と、たまに帰ってくるパパがすべてなんだものね。でもね、世界は本当はもっと広いのよ。きれいなものもこわいものもいっぱいいっぱいあるの。大声で泣いたって吸いこんじゃうような海や、もっと楽に呼吸ができる空や。……あなたにも、パパにも、本当はそんな外の世界の方が似合うのにね」

私と一緒にこのマンションに閉じ籠って、空調の利いた小さな部屋で、本当の風のつよさも知らずに少しずつ淀んでいくような。そんな人生を、あなたにあげたかった訳じゃない。
すっかり泣きやんで、まっすぐに私を見つめるさくらの瞳。虎次郎と同じ、人の心を正面から見ようとする。誠実で純粋な眼だ。

「…あなたは、勇敢なのね」

ママとは違って。

マンションの廊下で甲高く喚く声がする。かわかみさんだ。懲りないおばさん。いつまでも人の家の事に口を出して。
鳴り続けるインターフォンを無視していたら、ふとかわかみさんの声のトーンが変わった。媚びるように。誰かと話してるみたいに。かわかみさんのべったりした声に応える落ち着いた響きの声に、私はびくりとして立ち竦んだ。
虎次郎。どうしてこんなに早く帰ってくるの。もう一週間も終電の時刻だったのに。私まだ何もしてない。夕食の準備どころか、部屋の掃除すらしてない。
いつも御迷惑かけてすみません。虎次郎が謝ってるのがドア越しに聞こえる。やだ、どうして謝るの。なんで。わたしのせいで?
あのね、こんな事言いたくないですけどね、奥さんに言っても埒が明かないから…かわかみさんがぐちぐちと続ける。虎次郎、なんでそんな話をいつまでも聞いてるの。

「奥さん、少しおかしいわよ。いくらなんでも赤ちゃんが泣き過ぎよ。──虐待の可能性はないの?」

虐待。

茫然とした。全身の力がすっと抜けて立っていられなくなった。力の入らなくなった手からさくらが滑り落ちていくのがわかったのに、止められなかった。受け止められなかった。守れなかった。
ごとり、固い床に何かがぶつかる音がする。
次の瞬間には私もその固くつめたい床に頬を着けて倒れていた。呼吸が出来ない。

……遠くで、かすかに祭囃子の音が聞こえた気がした。

ああそうか。今日は夏祭りか。
だから虎次郎、忙しいのに無理して早く帰って来てくれたんだ。
それなのにこんなことになってしまってごめんなさい。私は薄れる意識の中で必死にさくらに手を伸ばした。届かない、眩しすぎて。この子は星だ。夜空でいちばんきれいな星。さくら。あなたを守りたかった。私じゃ駄目だった。ごめんなさい。本当にごめんなさい。





秋。
とてもとても皮肉な事に、虎次郎とさくらと別居して一人実家に戻った途端、私はみるみる元気になっていった。今までが元気じゃなかった事にもようやく気付いた。『育児ノイローゼ』と簡単な病名を付けられた私の症状は、本当に簡単だったらしい。信じられない。そんなものに、自分がなるなんて。
だけど現実なのだ。挫折を知らずに生きてきた女は、初めての育児にあっさり白旗を上げて心身を病んでしまっていたという訳。説明するといとも簡単。単純。よくある話。私、よくいる女だったんだ。

「ごめんね」
「ごめんなさい」

数週間ぶりに虎次郎と対面して、お互い第一声がそれだった。私たちは一瞬目を丸くして見つめ合って、それからぷっと吹き出して笑い合った。まるで恋人同士のように。でももう恋人同士には戻れない。決定的に損なわれてしまった何か。二人ともそれを分かっていたから穏やかに笑い合えた。誰にも理解されないかもしれないけれど、私たちは世界中で一番優しい関係だと思った。

「さくらは元気?」
「元気だよ。毎日よく泣いてる」

そっか。相変わらずか。

「奏子の苦労が分かったなんて言えないけどね、本当にしんどいものがあるよね、あれ」

挫けそうだ、と苦笑する虎次郎。この人の弱音を聞けるのも世界中で私だけなのかな。…いつか、彼が泣ける場所になれる人が現れたらいいと思う。心から。それが私じゃなかった事に胸が痛んでも。

「…さくらは、大丈夫よ」

え、と目を上げた虎次郎に私は笑って見せた。
本当だよ。育児ノイローゼなんてみっともない病気になった私の言う事じゃないかもしれないけれど、私は、さくら自身に不安を感じた事は一度もなかったの。あの子はいつだってつよい、光り輝くお星さまだった。ふわりと綻ぶ花だった。閉じた世界の中で吹く風だった。愛してた。守れなかったけれど本当に好きだった。あの子という人間が。大好きだった。

「あの子が泣くのはね、生きていくためよ。人生に挑んでいるの。とても勇敢なの。だってあなたの子だもの」

虎次郎はどこか痛いみたいな、泣きそうな顔で私を見ていた。少し笑って、「うん」と言う。

「勇敢なのは折り紙つきだね。だってあの子は、君の子なんだから」

…泣きそうになる。

「君を守れなくて、ごめん」
「…大丈夫。私は自分で自分を守れる。そういうふうに生きていく。もう大丈夫。虎次郎は…さくらを守って。あの子をお願い。お願いします」
「責任重大だな」
「大丈夫。虎次郎なら絶対に大丈夫。…そしてね、虎次郎の事はさくらが守ってくれるわ。あの子はとてもとても強い子だから」
「うん」
「きれいなものをたくさん見せてあげてね。海や、空や、うつくしいものをたくさんたくさん」

わかったよ、約束する。
声にならない声で虎次郎が言ったのがちゃんと伝わった。私たちは最後に抱擁を交わした。もう恋人同士じゃないけれど、世界中のどんな恋人同士よりも優しく、きつく。





冬。
私は金魚を池に逃がした。
真っ赤な美しい魚は、すいすいと気持ちよさそうに泳いでいった。
この先どうなるのか。池の水が合わなくて死んでしまうのか、鳥や他の魚に食べられてしまうのか。もしそうなっても、私にそれを悲しむ権利なんかない。

自由になりなさい。

あなたを手放す。私から解放する。それが私の愛し方。それしかできなかった。
最低だけれど、酷い女だけれど、あなたを抱いて一緒に淀みに沈んだままではいられなかった。そこがどんなに居心地が良くても。あなたは星で、花で、世界中のうつくしいものすべて。ここにいるべきではないとそう思えたから。手を放した。
本当は、きれいなものもうつくしいものも、みんな私があげたかった。世界を見せたかった。あなたになら全部を捧げられた。でも私にはその力がなかったの。ごめんなさい。

どうか私の知らない場所でしあわせに、しあわせに、しあわせに。笑顔でいて下さい。

さくら。
あなたが笑えば世界はきらきらひかる。その光であなたのパパを照らして。

私のいない世界がいつまでも、ふたりに優しくありますように。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -