虫の知らせ。テレパシー。そういう類のものを佐伯は信じていない訳ではないが、過信はしていない。
好き合っていたら心が通じ合うなんて都合がよすぎる、と思う。
花音の事を情けないほどに好きで好きで仕方がないけれど、花音もまた自分の事をひたむきに好きでいてくれる事も思い上がりでなく分かっているけれど、それでもその気持ちだけですべてを越えられるとは思わない。物理的な距離は中学生の恋人同士にはとても痛い。
世界に数え切れないほどいる恋人たちの中で、自分と花音だけが特別につよい絆で結ばれているとは思っていない。絶対に切れない保証なんてどこにもない。弱い心は距離に、簡単に負けてしまう。
だから努力をする。いつでも、ずっと。心に素直に、好きでいる。好きな気持ちを伝える。「両思い」である幸運の上に胡坐をかかない。明日も彼女が自分を見てくれる保証など何処にもないのだから。
受動的には決してならない。12歳の佐伯は決めていた。
花音に「大切にする」と言った、その言葉を決して裏切らない。
「サエお前今日アレだな、アレだろ。つーかダメだな、仕方ねえな全く」
「…………」
昼休み。目の前の席に座るなり大袈裟に溜め息を吐いてみせた黒羽に、佐伯は胡乱な目を向けた。
「……あのさバネ、何言ってるか全く分からないんだけど」
「ああ? マジでか? お前重症だな。まあ見たら分かるけどな」
「や、だから! 分からないって! お前もう少し日本語で伝える努力をしろ!」
予備軍の子供たちにテニスを教える時も「ここでグワーってやってシャーってきてバーンってすんだよ」などという説明の仕方をする黒羽に言っても無駄だと思いつつも、あまりに意味不明な台詞に佐伯は突っ込んだ。意味は分からないが「ダメだな」と溜め息を吐かれる筋合いなどないと思う。
「あー…」
黒羽は少し困った顔でぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回した。ぴょんぴょん跳ねている髪が余計にひどい事になったが佐伯は敢えて指摘しなかった。どうせ黒羽は気にしない。
「つまりさ…、今日お前ヘンっつーか、冴えてねえな、って事だ」
「ああ…」
確かに今日は朝から精彩に欠けていると佐伯は自分でも思っている。特別目立った失敗をやらかした訳ではないので他のクラスメートには分からないだろうが、黒羽くらい付き合いが長いと今日の佐伯がなんとなく調子が良くない事くらい察してしまうのだろう。
「どうせ花音の事なんだろー?」
「…………」
理由までずばり当てられている。佐伯は情けなさにちょっと落ち込んだ。黒羽が明るく笑いながらばんばんとその肩を叩く。
「やっぱ図星か!」
「バネ、痛い」
「ったくお前は花音の事になると分かりやすいなー」
「……バネにそう言われるのってなんか…」
「ああ? 何だよ?」
「や、何でもない…」
「まあいいや。で? 今度は何なんだよ、お兄さんに話してみな」
「お兄さんって…二日しか違わないだろ」
佐伯がむっとすると、黒羽はからからと笑って「二日はえーのは事実だし」と言う。これはなんとしても言うまで引かないな、と佐伯は悟った。
「分かった。言うけど呆れるなよ?」
「それは保障できねー」
「…………まあいいや。簡潔に言うと、昨日の夜花音が電話に出なかった」
「で?」
「終わり」
「あ?」
「だから終わり」
黒羽はまじまじと佐伯の顔を見つめると、それから深々と溜め息を吐いた。
「……サエ、お前な……」
「だから呆れるなって言ったじゃん」
「保証はできねーとも言った」
憐れむような黒羽の目が痛い。佐伯はそっと視線を逸らした。情けない自覚は十分にあるのだ。
「お前重症だな」
「言うな。自分でも分かってるよ」
「てか、夜だろ? 寝てたんだろ?」
「そう思うけどね」
それでも、花音が電話に出なかったのは初めてで。佐伯は何故か動揺して、何度も何度も電話をしてしまった。朝になって着信履歴を見た花音が引いていないだろうかと思うと憂鬱になる。
「…て、いうか」
佐伯の表情を見て黒羽がぱちぱちと瞬きをした。言葉を探すように数秒置いて、「…それ、変じゃね?」とぽつりと零した。
「だから分かってるよ、俺が情けないって事は!」
佐伯はべしゃりと凹んで机に額をぶつけてしまったが、黒羽は何となく煮え切らない顔で黙っていた。
そんなやり取りから約1週間後。
「──ゲームセット! ウォンバイ六角、佐伯!」
審判の宣言に会場がどっと沸いた。佐伯は息を切らせて額の汗を腕で拭う。振り仰いだ空は眩しい程の青。
対戦相手を握手を交わしてコートを後にする。ベンチに辿り着く前に待ち受けていたチームメイトに囲まれて揉みくちゃにされた。ひときわ乱暴に「よくやったなーサエ!」と頭を撫でてくる手は部長のものだ。もう予備軍の子供じゃないのにな、と佐伯は可笑しくなった。
新人戦。地区大会での優勝。古豪六角の今年の新入生達のお披露目としてはまずまずの出足だろう。
勝利に湧く仲間たちの中で、ついと佐伯のユニフォームを引っ張った者がいた。
「サエ、ちょっといいか?」
「バネ」
黒羽と目が合うなり佐伯は苦笑した。何を言われるのかもう分かっている。黒羽も佐伯の表情からそれを読み取ったのだろう、「仕方ねえな」と笑って肩を揺らした。
「今日のお前の試合さ」
「分かってる。勝ち急いだ。俺らしくなかったね」
「いいけど。ああいうの続けてるとお前がしんどくなる気がすっから。なんかよく分かんねえけど」
「…うん。ありがとうバネ」
指摘される事の有り難さ。佐伯がふわりと笑って礼を言うと、黒羽はふいに表情を引き締めた。
「バネ?」
「サエお前さ…、やっぱ東京行った方がいいんじゃね?」
「え」
「ほら、野菜の漬物花音に届けるとか言ってただろ。うちの母ちゃんがぬか漬けに凝っててやたら漬けまくって参ってんだよ。花音ならそういうの好きそうだろ」
「え…や、好きだろうけど…。でもバネ」
何故急に、この場でそんな事を言い出すのか。戸惑う佐伯に、黒羽は「だって変だろ」と言い訳のように呟いた。
「変って。この前もそんな事言ってたね。俺、そんなに変かな?」
「お前じゃなくて。や、お前も十分変だけどそれは前からだし。そうじゃなくて、花音の方が」
「──花音」
黒羽の返答は佐伯の心をひやりと掠めた。同時に、やっぱり、と自分の中で声がする。
「お前が、花音が電話に出ないとか花音のメールの返事が遅いとか花音の写メがかわいすぎて死にそうだとかその度にうざく落ち込んだりおかしくなったりすんのにはもう慣れた」
「…………」
「それが『続いてる』のが変だ。花音が──俺から見たらお前と同じレベルで頭の中がお花畑とサエでいっぱいのあの花音が、お前をこういう状態でほっといてるのが変だ。おかしい。…つーか、気持ちわりい」
「……ほっとかれてる…?」
いろいろと散々な事を言われている気もしたが、佐伯の中に引っかかったのはその単語だった。
「ほっとかれてるのか、俺?」
「つーか。よく分かんねえけど。花音がいたらお前、さっきみたいな試合はしなかっただろ」
「…………」
それは事実だったので佐伯は押し黙った。
花音とは、メールのやり取りはしている。『おはよう』と送れば『おはよう!』と返ってくる。道端の猫の写真を送れば、花音からは犬の写真が返ってくる。メールの文面はとても元気だ。文面は。
電話はしていない。あれから何度か電話をかけたけれど花音が出る事はなかった。昨夜も。今朝になって『ごめんね、また寝ちゃってた』というメールが来た。新しい土地、新しい生活で疲れているのだろう。なんとなく、今日が新人戦だと伝えられなかった。伝えていたら花音はきっと『がんばって』というメールをくれた筈だ。もしかしたら「我慢できなくて応援に来ちゃった」と今頃ここに彼女の姿があったかも……。
否、それはない。
佐伯は冷静に否定する。断言できる。
「……ほっとかれてる、訳じゃない。けど」
分かっていた。見えないようにしてテニスにのめり込んでいただけで本当は。
「俺、避けられてる。花音に」
言葉にするとそれはたちまち真実になって佐伯の胸に圧し掛かって来た。
メールではなんでもないように振舞っているけれど、彼女は自分を避けている。
「避けられてる?」
佐伯の呟きを拾った黒羽が、信じられないという表情で片眉を上げた。
「なんだよケンカか? サエ、お前何かしたのか?」
「いや、俺じゃない。多分。俺じゃなくて花音の方に何か…」
何か。
『……あいたいよ』
『泣かないってば』
でも泣いていた、と思う。最後に言葉を交わした電話で。満月の夜だった。
無理をして笑っていた。平気な振りをしていた。平気じゃないのに。泣くほどに不安な事があったのに。
新人戦が終わったら会いに行く約束をした。もう今週末だ。行くつもりだった。でも。
──もしかしたら。もう遅いのかもしれない。
あの時に行かなくてはいけなかったのかもしれない。
ふいにそんな考えが佐伯の心臓を冷やした。
「サエ〜? 電話鳴ってるのね」
樹の声に、佐伯は弾かれたように顔を上げた。その勢いに「わっ」と樹の方が驚く。
「どうしたのサエ、気分でも悪いんですか? ひどい顔色してるのね」
「いや大丈夫…それより電話って?」
「ああ…。なんか、試合中から何回も鳴ってたから。もしかしたら緊急の用かもしれないと思って」
樹が差し出したのは佐伯のバッグに入っていた携帯電話だった。勝手に取ってごめんなさいと謝る樹に礼を言って受け取り、履歴を確認する。そこには思いもかけない人物の名前が並んでいた。
「──不二…?」