遠くのひかり





不二くん…周ちゃんに、いやな態度を取ってしまった。すごくすごく嫌な態度。
涙を卑怯に使った。
私、すごく嫌な子だった。嫌な子……嫌な女。
叔父さんに暴行された事よりもむしろ、周ちゃんに対して自分が取ってしまった態度こそが、私をとても汚い人間にした気がする。

だけど、他に私に何ができたの?

あんなに私を心配してくれた葉子さんとの約束を反故にする事になるのに、私は千葉には帰らなかった。こんな事になってこんな顔で帰れるわけなかった。
心配させてしまうから。きっと傷つけてしまうから。誰よりも大好きなひとたちを。
…それから何よりも、自分が傷つきたくなかったから。
こーちゃんに今の私を見てほしくないって、とても自分勝手な理由。

……自信が、ないの。
足元がぐらぐらと揺れてる。頭も靄がかかったみたいに、あんまり機能しない。感情が麻痺してる。泣き喚いたり騒いだりする力、残ってなかった。

人を信じる事、人間を好きでいる事は私の根本だった。
私の、馬鹿みたいに単純でお気楽で世間知らずな部分。でもそれが私らしさだった。
きっとこーちゃんが私を好きになってくれたのもその部分だったって、思う。
でも私の中のその部分は粉々に壊れちゃった。元には戻らない。
私はもう人間が怖いから。信じられない、から。
だからもう。どういう風に笑って、立って、生きていけばいいのか分からなくなっちゃった。自分が壊れちゃったから。

ふわふわ、遠い場所に流されそうになる意識を必死に繋ぎ止めて、しがみついて生きてる。
「花音」だった女の子の残骸に。
こーちゃんが好きだった女の子の、抜け殻に。





「花音ちゃん、おかえり。どこに行ってたの? 心配したんだよ」

深夜に帰宅した私を何事もなかったかのように出迎える叔父さん。彼の笑顔を見た途端に胃液が込み上げて来てその場で吐いた。吐きながら、まだ自分の中に感情が残っていた事に私は安心していた。

「…ここに、います。もうしばらくは」

告げると叔父さんはあからさまにほっとした顔をした。

「勿論。花音ちゃんに、他に家はないだろう? 僕がずっと責任を持つから安心して──」

叔父さんの台詞は最後まで続かなかった。あまりの気持ち悪さに私がまたげえげえ吐き出してしまったからだ。

「花音ちゃん? だいじょう…」
「さわらないで!」

叔父さんの手の届かない位置まで床を這って遠ざかる。誰にも、もう絶対に触ってほしくなかった。こーちゃん以外の誰にも。

「私、産婦人科に行って来たんです。証拠を保管してもらっています」

淡々と告げる。叔父さんの顔が凍りついた。
体を奪ってしまえば自由まで奪えると思っていた? 私はママの娘なの。絶対にあなたの思い通りになんてならない。

「……もう絶対、私にさわらないで」
「……………」
「もうしばらくここにいます。でも行く所がないからじゃない。行く所を、選ぶ権利があるからです。私がここにいても、あなたに恩義は発生しない。……だって私のお金、たくさん、たくさん盗ったでしょ?」
「…何、を…」
「保管してもらってる証拠の中には通帳のコピーもあるの。母の遺した、私のお金の。私の学費や生活費に必要な金額の何倍も引き出されてた」
「…………」
「私に触れたら訴えます。私、多分勝ちます」
「………」

言葉を失くして呆然と立ち尽くす叔父さんの横を擦り抜けた時、ぞわりと全身に鳥肌が立った。
──怖い。やっぱり怖い。
軽蔑している。絶対に負けたくない。屈服なんかしない。それでもやっぱり、怖くて怖くて怖くて怖かった。…どんなに強がったって、私は無力な女の子だって分かってしまう。

階段を駆け上って逃げ込むのは、もともとママの部屋だった場所。この家の中で私がいられる場所はそこしかない。でもそこは数時間前に暴行を受けた「現場」だった。ドアを開いた瞬間その生々しさにまた吐いた。
吐くものなんかないのに止まらなくて、苦しくて凄く頭が痛い。お腹も痛い。体中痛くて、体の中も痛くて。痛みと苦しさで涙が出てきた。

『俺が行くまで泣かないで』

…その優しい声を思い出したらもう、駄目で。

「…こーちゃん」

名前を口にしてしまったらもう。
ぼろぼろ、蛇口が壊れた水道みたいに涙が出てくる。本当に壊れちゃったのかもしれない。私が。

「こーちゃん、こーちゃん、こーちゃん」

虎のコジくんをぎゅうっと抱きしめて。私はその場にへたり込んだ。

「こーちゃん、痛いよ」

ここは怖いの。今すぐここに来て、全部悪い夢だったんだよって言って。
眠り込んで目が覚めたらオジイちゃんの家で、窓の外から潮の香りがして、こーちゃんがいて、「どうしたの?」っていつもみたいに言ってくれたら。私はきっとすぐに飛びつく。抱きついて、もう絶対に離れたりしないのに。
コジくんの毛並みはふわふわだった。顔に胸に押し当てながら、「これは花音にね」って渡された日の事を思い出した。…初めての、夏のお祭り。初めての浴衣。みんながいてとても楽しかった事。花火がとてもとても綺麗だった。夜に咲いた花みたいに。「好きだよ」って、初めて言われた日。生まれて初めての触れるだけのキスをした。あのキスは、なんて、なんて大切にされていた証しだったんだろう。どれだけ尊いものだったのか今なら分かる。もう二度と手に入らないものだから。
あの綺麗な、夢みたいな場所からなんて遠くまで来てしまったんだろう。

「こーちゃん」

もう一度、名前を呼んだ。今度はそうっと。
名前を呼ぶだけで少しだけ、冷え切って固まったここころがほわりと温かくなる。

思い出も、彼の名前もお守りだ。
私の大切なお守り。
…もう一生分の、たくさんの綺麗な気持ちをもらったから。
それだけで生きていけるって思った。

──ブルルルルルルルルルル。

床に投げ出されたままだった携帯電話が振動して、私はあまりのタイミングに少しだけ笑ってしまった。
すぐに彼からだって分かったけれど、携帯の画面に表示された「佐伯虎次郎」の文字を見たらやっぱり胸が震えた。愛しくて。…携帯の、味気ないフォントでも。その名前が私にとっての特別で。
こーちゃんの名前が表示された携帯を両手で大事に包み込むようにして、ずっとその名前を見ていた。
ブルルルルルルルルルル。振動は長く、続く。私は出られない。
今出たら絶対にばれちゃう。私がおかしい事、こーちゃんに悟られちゃう。だから出ない。
それなのに、「切らないで」って思った。ひどい、自分勝手。
私の願いに応えるように振動は長く長く続いた。一度切れてもまたすぐにかかって来て。
その振動の長さだけ、私はつよくなれる気がする。こんな事でも彼に力をもらってる。

てのひらの中で震え続ける小さな機械を、ずっと、ずっと大切に見つめていた。

まるで伝わっているみたいに、その夜携帯は何度も何度も私を呼んでくれた。
あのお祭りの日からとてもかけ離れた冷たい場所に来てしまったけれど、きらきらひかる場所、あったかいもの、あの日と変わらない、あの日より強くなってる眩しい光が、この小さな機械の向こう側にはある。
それだけで。私はとてもしあわせになれた。


→ 沈んでく、だけど見上げてる


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