夜のジャスミン
真っ直ぐ家に帰りたくないな、と思った。
酔っ払い相手ににこにこしてお酌して、セクハラに耐えてぼろぼろに疲れた真夜中の帰り道。
半年前まで同棲していた男は昨夜出て行った。
ラブラブだったのは最初だけ。一向に働こうとしない男と毎晩醜い言い争いになるのが耐えられず、とうとう追い出してしまった。せいせいした筈なのに、ひとりの部屋に帰ると思うと足取りが重い。
私何のために働いているんだろう。疲れたなぁ。もう疲れた。
海のそばの住宅街をふらふらと歩く。
月のない夜、辺りは真っ暗。
おりこうさんな人たちはみんな家の中で眠っている時間。
いいな、幸せな家族。幸せな眠り。そこは安全そう。私も行きたいよ。
泣きそうになりながら、静かに闇に沈むきれいな住宅街をふらふら歩き続けた。
私何やってるんだろう。
気が変になってこのきれいなお家に火でもつけてしまいそう。
──不思議な女の子に会ったのは、そんな時だった。
「おねえさん、どうしたの?」
「え?」
ふいに、幼い声をかけられて振り向く。
いつの間にか住宅街は終わって、ちいさな丘の上に出ていた。波の音がする。
街灯もない道の端、白い花が群生してぼうっと光っているように見えるその場所に、ちいさな女の子がひとり、ぽつんと立ってこちらを見ていた。
ぎょっとした。
やたらきれいな顔をした女の子で、私はてっきり「出た。見ちゃった」と思った。
女の子は私の考えを読んだみたいにちょっと肩をすくめると、可愛い声で「おばけじゃないですよー」と言った。
「お花を摘みに来たんです。ジャスミンは夜にすごく香るの」
「…花?」
ああ、その白い花がジャスミンなのか。花の名前なんて全然わからないから知らなかった。そう言われれば甘い、清潔な香りが辺りに満ちている。
花の香りになんて全然気付かなかった。
ううん、生の花の香りを吸い込んだのなんて何年ぶりかわからないくらい、私の嗅覚が麻痺していたんだ。人工の、きつい香りに慣れ過ぎて。
「…いいにおい…」
意識したら涙が出てきた。花の香りは一気に郷愁を誘う。
何も知らない、幸せだった頃の子供だった私。学生時代好きな男の子がくれた花。
いつから忘れてしまったんだろう。
「いい匂いでしょ?」
ぼろぼろと涙をこぼす私を見ても驚きもせず、女の子はにっこりと笑った。
「きれいなおねえさんにも、おひとつどうぞ」
手に持っていた、摘んだばかりらしい花を少し渡してくれる。お化けか妖精みたいな女の子のちいさな指はちゃんとあたたかくて、私は繊細な花のつるを受け取ってその場に蹲り、またちょっと泣いた。
「おねえさんも眠れないひと? 何かいやなことがあった? 怖い夢を見るの? あのね、今夜はね、『眠れないひとを甘やかすキャンペーン』を開催中なんです。眠れない人は自分をいい子いい子してあげて、怖いことは考えないで、眠くなるまで美味しいものを食べて待つの。わたしもほんとうは9時には寝なきゃいけないんだけど、今夜は特別なんです。新月だから」
蹲ってしまった私の頭をちいさなてのひらがやさしく撫でる。
…これはきっと夢に違いない。
目が覚めたらきっと、がらんとしたアパートにも辿り着けず、道の端で酔っ払ったまま寝ていたことに気付くに違いない。
それでも構わない。
夢なら夢でいい。今だけは甘えさせて。このやさしい可愛い手に。
ちいさな手に引かれるまま、私はふらふらと立ちあがった。
女の子が指さす先には、暗闇の中でお月さまみたいにまあるくあかるく光る小さなお店があった。
ちりんちりん。
女の子が木の扉を開けると、可愛らしい音色が響いた。
私はぼうっとしたまま、女の子に手を引かれて店の中に入る。
「おかえりさくら、ご苦労様。…あれ、お客さん?」
カウンターで迎えてくれたのは、女の子とそっくりの、やたら整った顔をした男の人。どうやらこの人がマスターらしい。この…喫茶店? 奇妙な店の。
「いらっしゃいませ。ようこそ」
そのマスター(らしき人)は目も眩む甘い笑顔で私を迎えてくれた。
…なにここ、天国?
私いつのまにか死んじゃった?
「さあさあ、おねえさん、どうぞ」
「…はぁ」
女の子に促されてカウンターの席に着く。
周りを見渡すと、ちいさな店内には真夜中にも関わらずぽつぽつとお客がいて、皆それぞれぼうっとした様子で静かにお茶を飲んでいた。…皆、ひとりだ。
店内はあたたかく、甘い香りが立ち込めている。
「不二、新しいお客さん。ハーブティーよろしくね」
マスターがカウンターの奥に声をかけると、奥から「了解。今夜は千客万来だね」と落ち着いた声が返ってきた。
そちらを見ると、これまたとんでもなく美形な男性が銀のポットで紅茶を淹れているではないか。
…不思議少女の次はイケメンパラダイスですか。
なにこれ、私の願望が見せる夢?
男と別れたばかりだからって、あからさま過ぎるだろう、私の願望よ……。
ひっそりと地味に落ち込み、私はまたぼろぼろと涙をこぼした。
イケメンマスターが「あらら」と全く慌てていない声を出す。
「これは重症だな。不二、カモミール増量で」
「了解。…ほんと、疲れてるみたいだね。金平糖もつけるね」
「さくらも手伝うっ! おねえさん、シフォンケーキ好きですか? 生クリーム絞ってもいい? わたし上手なんだよ」
…こんな真夜中に生クリームとか冗談じゃないと思ったが、甘いものが欲しくて頷いた。どうせ夢だ。
「はい、どうぞ」
マスターのこの上なく甘い笑顔と共に出されたのは、きれいなカップに入った、きれいな色をしたあたたかい紅茶。
甘い香りのハーブティー。ソーサーにちょこんと載せられた金平糖が可愛い。
そしてちいさなシフォンケーキ。クリームとベリーが美しくつやつや光ってる。まるいお皿の端には、摘みたてのジャスミンの花が飾られていた。
「…いい香り…」
「ありがとうございます。って、俺が淹れたんじゃないんですけどね。このお茶はあっちの彼の特製なんです。このレシピだけは教えてくれないんですよ」
「これは不二家秘伝の魔法が入ってるんだ。佐伯にはまだ教えられないなー」
「ほら、あんなこと言って。胡散臭いと思いませんか?」
「…あははっ」
思わず顔が綻ぶ。
私のために丁寧に用意されたきれいな食べ物たち。こんな素敵なものを前にするのはひどく久しぶりな気がした。
深い色の紅茶をひとくち飲むと、胸の中からあたたまる気持ち。
「…美味しい」
思わず呟くと、マスターが「よかった」と綺麗に笑った。
さっきは胡散臭いとか言ってたくせに、とおかしくなる。
「こんなところに喫茶店があったなんて、知りませんでした」
「普段は昼間だけの営業なので。今夜は特別です」
そういえば、さっき女の子も言ってた。「今夜は特別」って。
どういう意味なんだろう。
「お客様も、お疲れですね」
どうでもいいけど、そんな至近距離で心配そうに目を覗きこんでくる相手としては、このマスターは美形すぎる。落ち着かない。
…泣けちゃうくらい疲れていたのは確かだけど。
「疲れている人は、それだけ人生頑張っている人ですから…俺は、好きですよ」
にっこり。甘い、甘過ぎる笑顔だ。
「は、はあ」
「──こらこら佐伯、お客様を口説かない」
「え? 口説いてるつもりはないんだけどな」
「無自覚だから困るんだよ君は…。ね? 始末に悪いですよね?」
カウンターの奥から、紅茶を淹れてくれたもう一人の美形が私に相槌を求めてくる。…どっちもどっちだと思った。
なんだここは。ホストクラブか。
「こいつはね、疲れるほど人生頑張ってないから、こんな無責任なんですよ」
「人聞き悪いなあ不二は」
「でも一応、そのケーキはこの彼が結構苦労して辿り着いた味なので。食べてやって下さいね」
…フォローを入れてくるあたり、仲良しなのかそうなのか良く分からない間柄だ。
でもせっかく勧められたのでケーキをいただく。
銀のフォークで口に運ぶと、懐かしい、素朴な、優しい味がした。
…ずっと、こんな優しさに会いたかった。
「…これも、すごく美味しいです」
「本当ですか? よかったぁ」
ほっとしたように笑うマスターは妙に可愛かった。
「俺はね、本来はコーヒーの方が専門なんです。今度は昼間、ぜひ飲みに来てやって下さいね」
静かにお茶を飲み、ケーキを食べる。
奇妙なイケメン2人組と話しているうちに、だんだんと涙は止まって、気持ちも落ち着いてきた。
これはハーブの効能?
…女の子は、いつの間にか私の隣でカウンターにほっぺたをつけてぐっすりと寝入っていた。
夜に浮かぶ月あかりみたいな夢の中のお店。
今ここで、甘い香りに包まれてるのは私。
…人を、羨ましく思うのは苦しい。そんな気持ちは捨てたいよ。
私は私のままでがんばりたい。ずっと。
「おねえさん、おとなでいるのはつらいですか。でもわたしははやくその場所に行きたいの。守られているだけはつらいです。自分の力で海を泳いでいるおねえさんはすてきです。わたしにはまだその力がないから。…いつか、きれいな海を一緒に泳いでみたいです」
朝が来たらまたがんばれるだろうか。そんな簡単に、夢みたいにいくのだろうか。
わからないけれど。
明日になったら、またこの店を探してみようと思う。
暗闇の中じゃない、あかるい陽射しの中のこの店を見つけたい。
これが私の夢の中だけの出来事じゃなくて、本当だったと思えたら、きっと、世界がすこしだけ変わるから。
今は花の香りに包まれて目を閉じる。
私の指についたジャスミンの香りが、どうか目を覚ましても残っていてくれますように。
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