チェリーチェリーピンク
「不二さん、何か悩んでる…?」
『SAE CAFE』のカウンターでサエさん特製『ダビデスペシャル』苺チョコパフェスーパーデラックスを頬張りながら、俺は首を傾げた。
お客さんのいない時間帯。カウンターの中じゃなくて外側、つまり俺と同じく客用の椅子に腰かけてカウンターに突っ伏している不二さんは、顔も上げずに「…まぁね」と眠そうな声を出した。
「ちょっとね、構図が決まらなくて」
「写真の話?」
「うんそう。桜を、撮りたいんだけど」
「ああ」
桜。ソメイヨシノが終わって、今は八重桜が満開だ。オジイの家から『SAE CAFE』にくる途中の坂道はこの辺りでは珍しい八重桜の並木に囲まれていて、見事なピンク色の景色を作っている。
「不二さんが悩むなんて珍しいね?」
不二さんは天才だ。写真家としても、テニスプレーヤーとしても、サエさんのあしらい方にかけても。その不二さんが桜を撮りたいと思ったら、すぐにそれはそれは見事な芸術作品が出来上がるはずなのではと俺は思った。
「あはは、そうでもないんだよ、ダビデ」
爽やかな声で答えたのは、不二さんではなくカウンターの中でグラスを磨いていたサエさんだった。
「あまり見せないだけでね、しょっちゅう悩んでるしドツボにハマってるよ」
「……そうなの?」
「……うるさいよ佐伯。君なんか桜の精霊に誑かされて地深くに引きずり込まれてしまえ」
サエさんによって暴露された『天才・不二周助』の意外な一面に俺は素直に驚き、不二さんはカウンターに突っ伏したままサエさんに向かって呪詛の言葉を吐いた。普段とても優雅で落ち着きのある物腰で人に接する不二さんだけど、サエさんに対してだけは結構辛辣だ。サエさんは「桜の精霊って美人そうだなあ」等と爽やかに笑っている。
計り知れない幼馴染みだと思う。
というか、「美人で色っぽい桜の精霊に取り込まれるサエさん」って、なんだか説得力があり過ぎて嫌だ。絵になり過ぎる、似合いすぎる。この先輩には昔からそういう比喩が洒落にならない危なっかしさがあった。
「ただいまあー!」
俺が「サエさんと桜の精」の妄想に背筋を寒くしたその時、店のドアベルがチリンと鳴って軽やかな明るい声が響いた。
ふわっと、その場の空気がやわらかく和んで心なしか甘い花の匂いに包まれたような気がする。…単純にドアが開いて外の空気が流れ込んできただけといえばそれまでなのだけれど、この少女はいつでも春の風を纏っているように俺には思えた。
さくら。俺の春の女神で、サエさんの娘。サエさん譲りのさらさらの茶色の髪を少しだけ乱して、これまた子供の頃のサエさんそっくりのとんでもなく天使な顔が俺を見つけてぱあっと輝いた。俺はどきりとした。
「ダビデくん! 来てたんだ! いらっしゃい!」
「…うぃ」
「おかえり、さくら」
「おかえり、さくらちゃん」
さくらに「おかえり」を言う時のサエさんと不二さんの声は滅法甘い。顔も甘い。甘過ぎて蕩けてしまうのではないだろうか(偶然この顔を目撃してしまった女性客が失神しそうになっているのを俺は見たことがある)。
「パパ、不二くん、ただいま!」
答えるさくらも、花が綻びるような笑顔。その声もほにゃりと甘く油断しきっていて、ああ、やっぱりサエさんと不二さんにはまだまだ敵わないなあと俺は少しだけ肩を落としてしまうのだった。
彼らが交わす「おかえり」と「ただいま」には、思わずこちらまで笑みを漏らしてしまうような微笑ましさと同時に、いつも何故か少しだけ泣きたくなるような切実さが滲んでいた。
どれだけ大切に、その当たり前の挨拶を交わしているのだろう、この親子は。
「──さくらちゃん、花びら」
「え?」
いつの間にか突っ伏していたカウンターから起き上がって、不二さんがさくらの髪に手を伸ばす。明るい茶色の髪にくっついていた桜の花びらを一枚指で摘んで「ほら」と笑う不二さん。さくらは大きな目をぱちぱちとさせて、「ぜんぜん気づかなかった!」と本当に驚いたように言った。
「あのね、ここまで来る坂道がね、ほんとに桜がうわあーってかんじで!」
うんうん、と俺と不二さん、サエさんの大人三人の相槌が重なる。
分かる分かる、本当に今あの道は桜が満開で「うわあーってかんじ」だ。
「上も横もピンクのふわっふわで、花びらふってくるから足元もピンクで、ピンクに包まれてる!ってかんじなの!」
ちいさな両手を広げてうれしそうに語るさくらのぽっぺたもピンク色だ。桜のように。
「…分かるけど、桜ばかり見てたら駄目だよ? 車にも注意しないと」
父親らしく釘を刺すサエさんに、さくらは「わかってるよお」とちいさく膨れて見せる。俺はその膨らんだほっぺたが桜餅みたいだなあなんて呑気な事を考えた。引っぱったら物凄くよく伸びそうだ。
「それでね、坂のてっぺんまで来てから振り返るとね、桜のピンクがずーっと下まで続いててその先に海が見えて、ピンクと水色ですごくすごおおおおおくきれいなんだよ!」
「そうだね」
「確かに、ちょっとした眺めだよね」
「季節限定の」
サエさんと不二さんがしみじみと頷き合っている。俺もパフェを口に運びながらこくこくと頷いた。
毎年見ている光景ではあるけれど、桜も、春の海も本当に綺麗だ。この町は綺麗だ、と思う。
「──ピンクと水色、か」
桜の花びらを指で摘んだまま不二さんがぼんやりと呟いた。
「ねえさくらちゃん。参考までに聞かせてくれるかな」
「はい」
さくらはにこにこして、きちんと姿勢を正した。不二さんに「参考までに」意見を求められる事にさくらは慣れているのだ。
カウンターの中でグラスを拭きながら様子を見守るサエさんもにこにこしている。…本当に、笑顔が似ている親子だなと俺は思う。
「さくらちゃんだったらさ、桜と海と空、どんなふうに描く?」
「絵で?」
「そう、絵で」
さくらは「うーん」と首を傾げた。サエさんと同じ蜂蜜みたいな明るい茶色の髪がさらりと流れて細い肩にかかる。
「ええとね、クレヨンかな」
「クレヨン?」
「うん、太いクレヨンで。幼稚園の頃に描いたみたいに、画用紙からはみ出しそうに、ぐるぐるぐるーってピンクのモリモリをいっぱいいっぱい描くの。あんまりきれいにしないで、とにかくいっぱい、思いっきり。それから、うすーい水色に溶いた絵の具をうすーくぬるの。そしたらクレヨンのピンクが絵の具をはじくでしょ」
「ああ」
さくらの言わんとしていることがなんとなく分かって俺達は揃って頷いた。
幼稚園生が描くみたいな、単純な絵。
確かに桜と海にはそんな無邪気さがある。繊細だけど単純明快な美しさが。
「──うん、成程。よく分かった。うん、ありがとうさくらちゃん」
不二さんが納得したように何度も頷いて席を立った。
「…なにかさんこうになった?」
見上げるさくらの頭を「勿論だよ」と撫でて、不二さんはカウンター奥の扉の向こうへ消えて行った。あの奥にはサエさん達の住居部分に上がる階段がある。多分カメラの準備をしに行ったのだ。
「また凄いものが撮れそう。楽しみだね」
サエさんがくすくす笑う。俺は「うぃ」と頷いた。
不二さんの写真は、「凄い」。この一言に尽きる。単純に美しいというにはあまりに恐ろしい程の美をあの人は撮る。
「さくら、お手柄」
ランドセルを下ろしてきちんと手を洗ってから俺の隣の席に着いたさくらに、サエさんが紅茶のカップを差し出した。桜模様の。ふわりと甘い香りが漂ってくる。
「わ、桜の紅茶だー」
さくらがほにゃんと頬を緩めて、俺は「桜の紅茶なんてものがあるのか」と密かに感心した。
「パパって、いつもわたしが一番のみたいのみものが分かるの。すごいなあ」
「うぃ、サエさんは凄い」
今日も俺の一番食べたかった苺チョコパフェダビデスペシャル、出してくれたし。俺が力強く同意すると、サエさんは「ダビデのは誰でも分かるよ」と苦笑した。ぐぬぬ。かっこいいパパだ、と思う。まだ全然勝てない。
「そうださくら、午前中に亮が来てさ、これ、さくらに渡してくれって」
カウンターの上に置かれたのは真新しい新書だった。
「わ、りょうくんの新しい本?」
「そう。発売前の貴重品」
「わー、きれい!」
さくらが手に取った本の表紙の絵は確かに綺麗だ。青い空に白い雲、少女の後姿。さくらはとても丁寧な仕草でそっと本を開いて亮くんのサインをうれしそうに確認するとまたそうっと本を閉じた。
「…亮くん、いつもさくらに本をくれるの?」
ちらりと見えたサインには「親愛なるさくらへ 感謝をこめて」と書かれていた。なんか凄い文句だなと思って尋ねると、さくらとサエさんが揃って首を振った。その仕草もきょとんとした綺麗な目も、あまりにもよく似ていて可笑しくなってしまう。
「そうじゃなくて、この話はネタに困っていた時さくらにインスピレーションをもらったからって、亮からお礼」
「…へぇえ」
それは、凄い。
亮くんはライトノベル作家だ。とても人気がある。この表紙も、数日後には書店の新刊台の目立つ場所に並べられるだろう。その亮くんにインスピレーションを与えたなんて凄い事だ。
感心してさくらを見ると、さくらは照れくさそうにしつつも複雑な表情を浮かべて甘い香りの紅茶を啜っていた。
「……でもね、ほんとに、なにが役に立ったのかなんてわかんない。だってね、『あの空を見て何を思う?』って訊かれて、そのとき考えてたこと答えただけなの。ほんとにそれだけだから。亮くんがおおげさなんだよー」
「何て答えたんだ?」
興味が湧いて訊いたら、さくらはうっすらと頬を赤くしてサエさんはくすくすと笑った。
「…………くもが」
「雲?」
「くも、わたあめみたいでおいしそうだなあって」
「……………」
「だってそのときおなかすいてたんだもん」
「その一言で話が閃いたって亮が言うんだから、素直に誇っていいと思うよ」
俺の沈黙に真っ赤になるさくらの頭を、カウンター越しにサエさんがぽんぽんと撫でる。俺も「うぃ」と頷いた。
「亮くんは、お世辞とか絶対言わない人だから。亮くんがそう言ったなら本当だと思う、大袈裟じゃなくて」
「…うん、それはわたしも思う、けど。でもやっぱり『くもがおいしそう』だけでこんな立派な本書けちゃったとは思えないよ。わたしじゃなくてりょうくんがすごいんだよ」
真新しい新書にはぴしりと帯が巻かれていて、煽り文句の下のおそらく内容が紹介されているらしい小さな文字が並ぶ中には、小学生が読むには相応しくないんじゃないかと思われる不穏な(というかその…大人っぽい?)単語もちらちらと見受けられる。とても「雲が美味しそう」等と言ったほのぼのとした話には思えなかった。結構ドロドロしてそうだった。
サエさん、こんなものをさくらに読ませてもいいんだろうか。というかさくらも読めるんだろうか。俺がさくらの年の頃には、全ページに絵のある本か漫画くらいしか読まなかったと記憶しているのだが。
そんな俺の内心の心配も知らず、サエさんは「あはは」と爽やかに笑った。
「亮とさくらの間でその会話があったの、一年近く前なんだよ。あれから亮がずっとこの本を書いてたんだと思うと、何だか感無量だね」
「…………」
何がどう感無量なのか俺にはさっぱり分からなかった。
「こんなに字がいっぱいの、長い本だもんね。作家さんてすごいねえ」
さくらもうんうんと頷いている。この親子は同じポイントで何かがずれているなあ、と俺は密かにずっこけた。
「不二の写真もさ、今日撮ったとしても作品として発表されるのはきっと来年の桜シーズンの前だよね。芸術って時間がかかるんだね」
「ねー。ごはんならすぐなのにね。おなかすいたーって思ってつくって、すぐ食べられて、それでしあわせになれるのに」
「俺達って簡単だなあ」
「うん、かんたん」
芸術品のように綺麗なつくりの顔を真面目に見合わせて、「ごはん」の話をしみじみと語り合うサエさんとさくら。……なんか、シュールだ。
「でもさあ、『雲が美味そう』も『桜って子供が描いた絵みたい』も、俺も亮や不二に言った事あるんだけどなあ。その時にはあいつ等、ただ呆れた顔してただけなのに。さくらが言うとインスピレーションが刺激されるってどういう事だよ」
サエさんがぶつぶつと言って、さくらと俺は揃って吹き出した。
「サエさん、それはキャラの違い」
「そうそう。パパがそういうこと言うのはだめだと思うー」
「……そうかなあ」
微かに頬を膨らませるサエさんは妙に幼く見える。さっきのさくらとそっくりだった。サエさんの頬はすっきりと精悍でかっこいいけれど、そうやって膨れた表情は中学の頃と変わらないなあと思った。
「……パパのほっぺ見てたらおだんご食べたくなってきちゃった」
さくらの呟きにサエさんは「ええっ」と少し赤くなって、俺は思わず吹き出した。さっきさくらのほっぺたを桜餅みたいだと思ったのは内緒にしておこう。
「えっとね、ふくふくでつるつるの……白玉とか。抹茶オレに浮かべて食べたい」
さくらは大真面目に言う。サエさんは「白玉。抹茶オレ」と口元に手をやって考え込む素振りをした。俺は黙々とパフェの最後のひと掬いを平らげる。
「…じゃあ春のパフェかな。抹茶アイスをメインに、白玉とわらび餅のせて」
「ああっ、それすてき! あとねあとね、桜! ピンクものせたい!」
「桜か…。ああ、じゃあホイップクリームに桜のシロップ混ぜてみたら」
「わあぜったいかわいい! おいしい! パパそれつくろう!」
「桜も終わろうとしているこの時期に今更?ってかんじだけどね…。試作してみようか。よかったら明日から出せるし。期間限定で」
「わーい!」
サエさんとさくらの間でとんとん拍子に話は進む。
俺は思った。確かに、「ごはんはすぐ」だ。芸術のように時間はかからず、食べてしまうのも一瞬だけれど。
「サエさん、さくら、それ、俺も食べたい。今すぐ」
だってそんな美味そうなもの、食べないではいられない。桜の季節の今限定となれば尚更だ。
「はあ? だってお前今チョコパフェ食べて……」
呆れた顔で振り返ったサエさんは、綺麗に空っぽになった俺の前のグラス(特大)を見て絶句した。それから同じように目を丸くしたさくらと顔を見合わせ、同時にぷっと吹き出して笑い転げる。
ふたりの笑顔はやっぱりそっくりで、俺は複雑な思いになると同時にひどくしあわせな気分になった。
君が見ている景色は魔法の国。
君の言葉が、僕らの目を何重にも覆う分厚いベールを取り払い、この世界に満ちる魔法に気付かせてくれる。いつだって。
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