ブラザー・サン
「…あれぇ?」
まんまるい、ぴかぴかお月さまが海の上に光ってる、真夜中のこと。
トイレに起きたわたし(寝る前にアイスティーを飲みすぎちゃったのです。パパのラズベリーティーがおいしすぎるのがいけないの!)は、1階、つまりお店の方に人の気配を感じて首をかしげました。
時刻はえっと…午前2時です。わあ、すごい時間。こんな時間に起きてるなんてどきどきします。
パパのお部屋をのぞいたらからっぽで、ふじくんは今夜はお仕事でよそでおとまりで、だから、今お店にいるだれかさんは、きっとパパ。
でも、こんな夜中に何をしているのかな。
わたしは階段を下りて見に行くことにしました。
昼間はトントントン、とかるいリズムをかなでる階段が、夜はギイーギイーってうめくのはなんでなのかなあ。
階段を下りて、キイ、と音を立てる小さなドアを開けてお店をのぞきこむと…
「……あららー」
わたしは思わず声に出してしまいました。おもいっきり、あきれた声になっていたと思います。
だって。
カウンターから近いテーブル席で、向かい合って、おっきな大人の人が二人してテーブルにつっぷしてぐっすり眠りこんでいたので。
ひとりは予想どおりパパで、ラフなTシャツとハーフパンツの部屋着のまま。…っていうかパジャマだよねこれ。やだなあパパ、そのかっこのままで人前に出ないでほしいなあ。せめてジーパンくらいはいてほしいなあ。この前買ったばかりの細身のやつ、すっごく似合っててかっこいいんだから。
そしてもうひとりは、びっくり、バネちゃんです。上着はぬいでるけどスーツすがたで、学校の先生スタイルのまんまでおぎょうぎわるくつぶれてます。あーあ、スーツがしわになっちゃうよー。
ふたりのまわりには、からっぽのビールの空き缶がたくさん。そして、超!お酒くさい!
…わたし知ってる。これって、ぞくにいう「よいつぶれた」こうけいですね。
「うーん…」
わたしはなやみました。どうしようかなあ。
ふたりを起こして、2階のパパのベッドで寝なおしてもらった方がいいとは思います。ふたりで寝るにはちょっと…かなりせまいけど、このまま朝までここで寝てるよりは安眠できると思うの。
朝までこのたいせいじゃ、きっと朝には体のあちこちが痛くなってるはず。ふたりとも見た目は若いけど年は年だし。…って、わたしが言ったんじゃないですよ、パパが自分でいつも言ってるの!
でも、ふたりとも起こすのがかわいそうなほどぐっすり寝てるんです。
バネちゃんはテーブルに顔をふせていて見えないけど、パパなんか、テーブルにほっぺたくっつけて、きもちよさそうな顔してすやすや寝てる。寝顔がかわいくて、起こしたらかわいそうかなあ…なんて。
パパがお酒を飲むことって、ほとんどありません。
夜、ふじくんとふたりでちょこっとワイン飲んでたり、いっちゃんのおうちでみんなでごはんを食べるときにちょっと飲んだりするくらい。
閉店後のこのお店に、パパのおともだちがビール持参で集まってきてわいわい騒ぐこともたまにあるけど、そんなときでもパパはあんまり飲まないみたいです。パパがよっぱらったところを見たのはほんとうにかぞえるほど。
お酒に弱くないせいもあると思うけど、たぶん、それはわたしのためって気がします。
…だから、ちょっと。
ほっぺたを赤くして気持ちよさそうにすやすや寝てるパパはなかなかレアなパパで、起こすのがもったいないなあって思ってしまったのです。
今わたしが起こしたら、パパ、きっと「ごめんね」って言うし。またしばらくお酒飲まなくなるだろうし。…ぜんぜん、よっぱらって悪いことなんかないのに。
いろいろ、わたしにはわからない、大人のじじょうで疲れることがたくさんたくさんあるパパが、たまーにお酒を飲んでよっぱらって気ばらしできるなら、わたしはぜんぜんかまわないのに。
なんとなぁく、わたしの前でお酒を飲むことをよく思ってない気がするパパを、今ここで起しちゃったら、パパが後で自分を責めそうだなあって…それがいやで。
「ううううーん…」
どうしよう。
でもあした…じゃない、もう今日だ、今日は土曜日。お店はきっといそがしくなります。ちゃんとベッドで寝ておかないとパパがつらくてかわいそう。
でも起こすのも……かわいそう。
どうしよう、どうしよう。
うんうんうなってなやんでいたら、バネちゃんが「んんー?」と身動きしました。
あ、わたし、うるさかったかな。
「……んぁ? …………サエ?」
のろのろと顔を上げたバネちゃんは、ぼんやりした目にわたしをうつしてつぶやきました。
あーこれ、かんぺきによってますね。あと、ねぼけてる。
「パパじゃないよ。さくらだよ、バネちゃん」
「…………さくら?」
わたしの名前をくりかえして、まばたきをゆっくり3回。
ぼんやりしてたバネちゃんの目にさっと光がもどって、わたしをにんしきしてくれたのがわかりました。
「あ、なんだ、寝ちまったのか」
体を起こしたバネちゃんは、もうぜんぜんよっぱらいさんでもおねぼけさんでもなくて、いつものバネちゃんで。
真夜中の、しずかでとろりとした空気が、バネちゃんのまわりだけおひさまがさしたようにあかるくなって、きゅうに時間がせいかくに動きだしたような気がして。
わあ、なんかすごい。
わたしはちょっとびっくりして、かんどうしました。
パパもふじくんも、それからわたしも、寝起きはあんまりよくない…っていうかかなり悪い方で、こんなふうに、いっしゅん前まで寝てたのにすぐぱっちりかくせいしちゃうって、すごい!
「今何時だ? あー、もう2時か」
バネちゃんは腕時計を見て頭をがしがしかいて、それからわたしに目をむけました。
「さくら、大丈夫か?」
「へっ?」
だいじょうぶかって、なにが?
「こんな時間にどうした? 眠れなかったんか?」
眠れなかったっていうか。
たんに、寝る前にアイスティーを飲みすぎたせいでトイレに行きたくて起きちゃっただけです。
…とはちょっとはずかしくていいづらくて口ごもっていたら、バネちゃんがさっと大きな手を伸ばしてわたしのあたまをわちゃわちゃとかきまぜてきました。
「わあっ」
「もしかして一人でさびしかったか? 悪かったな、こんな時間までサエ付き合わせちまって」
「えっ」
がーん。
わたし、パパがいなくてさびしくてひとりでねられない子どもって思われてる!?
バネちゃん! それすごいごかいです!
そんなコドモじゃないです。信じられない、くつじょく!
わたしがむきになってはんろんしようとしたのに、バネちゃんてば人の話も聞かずに「そうかそうか」なんてにかっと笑って立ち上がって、そのままわたしを抱き上げて頭をなで……って、ちょっと! なにこの赤ちゃんあつかい!
「バネちゃんっ! はずかしいからやめて! さびしかったとかじゃないし!」
「ははっ、わかったわかった」
いやわかってないよね。かくじつにわかってないでしょうこの人。
もうなんなの! 人の話聞こうよ!
バネちゃんはわたしがあばれるのもぜんぜん気にもとめないで、いともたやすく、かるがるとわたしを抱え上げて背中をぽんぽんとたたいてくれています。
…すごく、すごくはずかしい。それにへんなきもち。
うんと小さいころに、わたしが泣くたび、パパがこうしてくれたことを思い出して。
なんだかたまらないきもちになって、わたしはあばれるのをやめてバネちゃんの肩にしがみつきました。
「お、どうした? 眠くなったのか?」
…ほんっとに、デリカシーない。少しはパパやふじくんをみならってほしいです。
バネちゃんはお酒くさくて、あと汗くさくて、少しだけ学校のにおいと、大人の男の人のにおいがしました。
くしゃくしゃになったワイシャツと、ゆるめたネクタイ。学校ではぜったいに見せないかっこうで、でも学校でも学校の外でも、おひさまみたいなその笑い方は一緒で。
「…バネちゃん、なにかやなことあったの? 疲れてるの?」
なにかやなことなんて、大人の人には、毎日毎日、ある。
働いて、がんばってる人で、疲れてない人なんていない。
パパを見て、ふじくんを見て、お店に来るたくさんの人を見てて、わたしはよくわかってるのに、そんなふうに訊いてしまって少しはずかしくなりました。
でもバネちゃんは気にしたふうもなく声をあげて笑って、
「まあなー。でもサエ付き合わせて思いっきし飲んだら忘れちまったよ! 何で疲れてたんだったかなー」
って、忘れたはずなんてないのに言うから。わたしも笑って言いました。
「パパこんなにしちゃって、どうするのバネちゃん。今日土曜日でお客さんいっぱい来るのに。それに今日ふじくんいないんだよ」
「そうだなー。ま、今日は俺が休みだし、責任持って手伝うから何とかなんだろ」
「えっ」
いやそれは…なんとかなる気なんて、これっぽっちもしないんですけど。ていうか反対に、すごく大変そうなよかんしかしないんだけどな…。
「ま、俺が何とかすっから! 心配すんな!」
……なにをこんきょにこの自信…。
あきれるのに、なのに、バネちゃんが笑って言い切ると、ふしぎなせっとくりょくがあって、わたしはうなずいてしまっていました。
バネちゃんって、ほんと、なんかすごい。
うまくせつめいできないけど。
「よっしゃ、じゃあもう寝な。俺が寝るまで側にいてやるし、さくらが寝たらすぐサエも上に連れてって寝かせとくから」
にこにこと言われて、さすがにわたしもぎょっとしました。
寝るまで側に…なんて、はずかしすぎる! それはだめ!
「いや、それはだいじょうぶ! わたしもうひとりで寝られるし、それよりパパを運んであげて! あとバネちゃんもちゃんとベッドで寝て! 朝早いから! お店手伝ってもらうんだから、ちゃんと寝といてもらわないと」
「そっかあ?」
「そうそう! だから、ね! パパのことお願いね! あとできたらお酒の缶だけ片づけてね! さくらはもう寝ます。おやすみなさい!」
「おーおやすみ。…さくらは父ちゃん想いだなー」
こいつ幸せモンだなー、なんてパパを見ながら笑われて、今度こそはずかしくなってわたしは2階への階段をいちもくさんにかけあがりました。
…バネちゃんって、ふしぎです。
真夜中なのに、おひさまをのみこんだみたいに胸がほかほかしました。
おまけ。ごじつだんというか、その後のおはなし、というか。
ふつかよいでちょっと眠そうな、気だるいふんいきのパパが色っぽくてレアで。
ワイシャツにカフェエプロンをつけたバネちゃんが、これまた超かっこよくてレアで。
よくじつの『SAE CAFE』は、大大大はんじょうだったのでした。
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