グリーン・ライラック 1
学校が終わった後の帰り道は、とちゅうまではお友達とおしゃべりしながらのんびりと。とちゅうでお友達とさよならしてからは、ひとりでかけ足で帰ります。ひとりがこわいわけじゃなくて、はやくパパに会いたいから。
お家の人が働いてる子は、放課後は学童保育に行く子がほとんどだけれど、わたしの自宅はパパのお店の2階だから、わたしはまっすぐ家に帰ります。
カウンターのすみっこの席で、パパにいれてもらったアイスココアを飲みながら宿題をしたり、お客さんが少ないときにはおしゃべりしたり、時々はちょっとだけお仕事を手伝わせてもらったり、そういう時間がわたしは大好き。
パパが、わたしのために今のお仕事を選んだってこと、最近はちょっとわかってきました。
家の前まで元気よく走って来た(わたしはいつも元気です!)わたしは、そこで足に急ブレーキをかけました。
家、つまりお店の、看板の前に。ひとりの男の人が立って、看板をじいーっと眺めていたので。
細身ですらりとして、スポーツブランドのシャツをカッコいい着方で着てる、おしゃれなかんじのお兄さん。シャツの腕から出てる腕が、細いのにすごく筋肉がついてるのがよくわかって、もしかしてテニスするひとなのかなと思いました。ダビデくんの腕のかたちと、太さは全然違うけどちょっと似てる気がしたから。
その人は、ダビデくん特製の『SAE CAFE』という名前は残念だけどとってもおしゃれな看板を、ほとんど睨みつけるみたいに眺めていました。
…すごく気になる。思いきって声をかけてみよう、うん。
「あの」
話しかけたら、大きな真っ黒い目がさっと私を見ました。なんか…猫みたい。
「うちに何かごようですか? お店なら開いてますけど」
「──『うち』? アンタここの子?」
あんたって…と思いながらも私が頷くと、彼は大きな目を見開いて私をまじまじと眺めてきました。え、なんだろう。
「ここに、不二って人いる?」
「え? ふじくん?」
なんだあ。ふじくんのお知り合いかあ。
「ふじくんならここに住んでますけど、今はお仕事でお留守です」
私が答えると、彼は「不二くん、って」となぜか絶句した後で、私を指さして(むか。失礼な)おそるおそるといった様子で口を開きました。
「アンタ、っていうか君…。もしかして不二先輩の隠し子…?」
「…………」
「…………」
「…………はあああああぁぁぁぁいい!?」
なにそれなにそれ! なんでそうなるんですかまったくわかりません。
とりあえずふじくんのめいよの為に、あと大好きな大好きなわたしのパパの為に、思いっきり否定しておきます。
「ちがいますっ!! 全然ちがいます!」
「え、だって雰囲気とか似てるんだけど。なんか他人とは思えないんだけど。じゃあ親戚か何か?」
「ふじくんはお友達で、同居人ですけど、別に親戚とかじゃないです」
「──本当に? あの人に騙されてない?」
「だ、だまされる…?」
わたしはあっけにとられて彼を見返しました。
わたしに向かって少し背中を丸めて、真っ直ぐにわたしを見ている顔は、とてもまじめで、わたしをからかってるようには思えません。ということは…。
わたしはちいさくため息をつきました。
「お兄さん、ふじくんの後輩さんですか」
「…そうだけど」
「…えっと、たぶん、だまされてるのはお兄さんの方です。だまされてるっていうか、からかわれてるっていうか…。ふじくんがお兄さんに何言ったのかはわかりませんけど、わたしのパパはふじくんじゃなくて、さえきこじろうですよ」
お兄さんは、大きな真っ黒な目をまた大きく見開いて、ぱちぱちと瞬きをしました。長いまつ毛が目に入りそう。
「さえきこじろう…………って、誰?」
がくり。
いや、誰といわれましてもね…。
「と、とりあえず、お店の中に入りませんか? ふじくんはいませんけど」
木の扉を開けると、ちりん、とベルの音が出迎えてくれて。
「おかえり、さくら」
世界で一番優しい大好きな声が聞こえると、わたしはいつでもほにゃんと笑ってしまいます。疲れていても、学校でいやなことがあっても、パパの「おかえり」を聞くと全部吹き飛んじゃう。
「ただいまパパ!」
今日は珍しくあんまりお客さんがいなくて、常連の、ご近所の奥さまたちが数人テーブル席にいるだけです。その人たちにあいさつをしながら、パパのいるカウンターへ向かいました。
「今日はいつものお姉さんたちは?」
「テスト期間なんだって」
へー。高校生って大変なんだなあ。
パパは、私の後ろのお兄さんに気付いて、「あれ?」と呟きました。
「──越前くん?」
えちぜんくん?
パパのお知り合い? でも彼はパパのこと「誰?」とか言ってたんだけど…。
『えちぜんくん』はぱちぱちと瞬きをしてパパを見て、「ああ」と納得したような顔をしました。
「さえきって…アンタか。六角の佐伯さん」
「うん。久しぶりだね、越前くん」
「チッス」
にっこり笑うパパと、小さく頭を下げる越前くん。
…どうやら、ふたりはお知り合いのようです。
「ありがとうございました」
お砂糖みたいに甘いパパの笑顔に、奥さまたちがぽっと顔を赤くしながら帰って行って、お店の中はわたしとパパとえちぜんくんだけになりました。
「さくら、店閉めてくれる?」
「はぁい」
わたしはステンドグラスがはまってる白い木のドアを開けて、ドアにかかってる札を『OPEN』から『CLOSED』に替えました。
「え? いいんすか?」
カウンターの席に座ったえちぜんくんがびっくりした顔で訊き、パパはテーブルを片づけながら「いいのいいの」と軽く答えています。
いつもの閉店時間には少し…かなり早いけど、『SAE CAFE』では時々こういうことがあります。
「さて、と。越前くん、お腹すいてる?」
カウンターに戻って手を洗いながらパパがにっこりと笑って、えちぜんくんはまたびっくりして、ちょっと困ってる顔をしました。
そうだよね。ふじくんに会いに来たのにふじくんはいなくて、別の先輩にいきなり「おなかすいてる?」って言われてもきっと困るよねえ。パパはえちぜんくんが急に来た理由も訊かずににこにこしてるだけだし。
わたしは、カウンターに走っていって、えちぜんくんの隣の席にぴょんと座りました。
「パパ、わたしアイス抹茶ラテが飲みたいな! えちぜんくんも、よかったら一緒に飲みましょ? パパの抹茶ラテ、ちょっと苦くてすごーくおいしいですよ」
「え、あ、うん。じゃあそれ、お願いします」
なんとなくなんだけど、えちぜんくんは日本茶が好きそうなかんじがして提案してみたら、ちょっとほっとしたみたいに頷いてくれました。よかった。
「そう? 越前くん、さくらに合わせてくれなくてもいいんだよ?」
「いや、抹茶好きなんで」
「そうなんだ? じゃあ濃い目に淹れるね」
パパは慣れた手つきで準備を始めます。パパが飲み物を用意するところを見るのはとても好き。きれいで、無駄のない動きで、魔法みたいにおいしいものができあがっていくから。
「…さくらっていうんだ」
えちぜんくんが、わたしの名前を呼びました。
「はい、さえきさくらです」
「…俺は越前リョーマ」
えちぜんリョーマくん。わたしはその名前をキャンディみたいに口の中で転がしてみました。
えちぜんくん。リョーマくん。…リョーマくんの方が呼びやすいな。
「あの、リョーマくんって呼んでもいいですか?」
「…別に、いいけど」
リョーマくんはちらりとわたしを見て、「さっきはごめん」と言いました。
「勘違いした。さくらが不二先輩に似てる気がしたから。…でも、佐伯さんの子なら納得。不二先輩と佐伯さんって、雰囲気ちょっと似てるから」
「ふじくんとパパが? そうかなあ?」
確かに、笑い方とかちょっと似てるところはあるけど…でも全然ちがうんだけどなあ。
わたしが首をひねっていると、パパがくすくす笑いながら口を開きました。
「何? 越前くん、さくらのこと不二の子だと思ったの?」
「……隠し子だと思ったッス」
しぶしぶといったかんじでリョーマくんが白状して、パパに「あはは!」と声に出して笑われてます…ちょっとかわいそう。
「──はい、どうぞ」
まだ笑いの発作を引きずりながらも、パパが出してくれたつめたい抹茶ラテ。
目が覚めるみたいにきれいな緑色の抹茶と、雲みたいなふわふわミルク、ちょこんと絞られたクリームと、甘く煮たつやつやの小豆が3つぶ。飲んじゃうのがもったいないくらいにきれい。だけど飲まないのはもっともったいない。わたしは「いただきます」とストローをさして、ひとくち吸い込みました。
…もう、じたばたしちゃうくらいおいしい!
「…ウマ……」
リョーマくんからもぽろりと賞賛の言葉が漏れて、わたしはとてもうれしくなりました。
でしょでしょ? パパの飲み物は最高でしょ?
「ありがとう。嬉しいな」
パパが本当に嬉しそうににっこり笑うと、それだけでわたしのちいさな世界はキラキラ明るくなります。
わたしをしあわせにするのなんて、パパにはすごく簡単なことなの。
パパは気付いてないけれど。
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