いっしょにごはん | ナノ


やさしい場所 6


…コーヒーの香りに包まれながら回想を終えて、僕は改めて店を見渡す。

陽射しの入る明るい店内。
磨かれた木の床。この床は皆で三日もかかって張った。僕がペンキの缶に躓いてペンキ塗れになったのも今ではいい思い出…かな…。

たくさんのお客さんが、賑やかにおしゃべりしたり、静かに読書したりしながら、思い思いにゆったりと寛いでコーヒーや紅茶を楽しんでいる。
そのあったかい空気の中心にいるのはサエさんだ。
中学の頃、いつでも僕を励ましてくれたサエさんの笑顔は、今でもたくさんの人を癒してる。
どんなことでもそれなりに上手くさらりとこなせてしまうサエさんは、別にカフェの仕事自体に深い愛着を持っている訳ではないと言うし、まあ、僕もそう思う。
いつかさくらちゃんが一人立ちしたら、サエさんもふっとどこかへ行っちゃいそうな気がする。
だけど僕は、今のサエさんは天職に就いてるんじゃないかなあとひそかに思ってる。

だってここは、こんなにも落ち着く。
疲れた体がチャージされて、また頑張ろうって気持ちが湧いてくる。この店は、僕自身にも既に必要不可欠な場所になっていた。



パタパタパタ、と僕の頭上から音がして、カウンター席の脇の小さなドアが開いて不二さんが出てきた。
素人が遊び心も満載で改造を重ねたこの建物はかなり変わった構造をしていて、物凄く変な場所にドアが付いていたりする。今不二さんが出てきたドアの向こうは狭い階段で、2階の居住スペースに続いている。

「佐伯!」

珍しく慌ただしい様子の不二さんは、カウンターに入りながらサエさんを呼んで、その途中で僕に気がついて「やあ葵くん、久しぶり」とにこりとした。僕も小さく「こんにちは」と頭を下げる。

「不二、電話終わったの?」

お客さんの会計を済ませてからカウンターに戻って来たサエさんが、手を洗いながら尋ねると、不二さんは頷いて言った。

「うん。それで、悪いけどまたしばらく出かけるよ」

「ああ、そうなんだ。いつから?」

「明日から。期間はちょっと分からない。1か月くらいかな」

明日からとはまた急だ。
びっくりする僕とは対照的に、サエさんはあっさりと頷いた。

「そっか、わかった。今度はどこへ行くんだ?」

「南米」

不二さんの本職はフリーの写真家だ。世界中の美しい景色を撮っていて、僕には写真の事は良く分からないけれど、その分野ではかなり有名らしい。
…そんな人が、どうして普段こんな田舎の小さな店で紅茶を淹れているのかは謎だけど。

「じゃあ準備があるんだろ。今日はもうあがって大丈夫だよ」

店は満員なのに、サエさんはあっさりとそんな事を言う。こういうところ、相変わらずだなあ…。
不二さんも苦笑しながら、「いいよ。準備なんて大した事ないから」とエプロンをつけて手を動かし始めた。

「南米って、ブラジルとかですか?」

随分遠いなあと思いながら僕が訊くと、不二さんは頷いて答えてくれた。

「うん。ブラジルとアルゼンチン」

「へえ。僕、サッカーしか思いつかないなあ」

「あはは。今回は滝を撮りに行くんだ。前から行きたかった所だから楽しみだよ」

「そうなんですか」

滝、という不二さんの言葉に、サエさんが振り返る。

「不二。もしかして、イグアス?」

僕は知らない名前だったけど、不二さんはすぐに笑って「そう」と頷いた。
さっきまで大した興味もなさそうにしていたサエさんが、ぱあっと笑顔になる。

「良かったじゃん、不二。ついに行くんだ」

「ふふ、ありがと」

よく分からないけど、不二さんにとってはおめでたいことらしい。
にこやかに微笑み合うふたりは凄く絵になって、店のあちこちから女の子たちの溜め息が聞こえてくる。この人たちが仲良く笑い合う事ってあんまりないから尚更なんだろう。
…仲が悪い訳じゃないんだけど、このふたりは普段、結構な毒舌を交わしながら仕事してる事が多い。それでも爽やかで人当たりがいいのがこのふたりの凄い所だ。彼らを見ていると「腐れ縁」という言葉が浮かんでくる。

「…ああ、でも」

サエさんがはっと何かに気付いたように口元に手を当てて考える仕草をして、不二さんが首を傾げた。

「1か月過ぎたらさくらの運動会があるな」

サエさんが言った途端、不二さんの目がカッと開いて僕はびくっとした。
ちょ、怖い! 不二さんその顔怖い!

「…だけどまあ、大事な仕事だし仕方ないよな。もし滞在の予定が延びても。さくらには俺がよく言っておくから、不二は心置きなく滝を撮って」

「帰るよ」

サエさんの台詞を最後まで言わせず、不二さんがきっぱりと言い切った。

「何言ってるの佐伯。僕がそんな重要なイベントを逃すとでも? 何が何でも、1か月で最高の画を撮って帰ってくるよ。そしてさくらちゃんの小学校初めての運動会の様子も撮るよ。当たり前でしょ?」

「……ああ、うん」

サエさんは曖昧に笑って、「気をつけてな」と付け加えた。
僕は濃いコーヒーをぐいっと飲んで爆笑するのをこらえた。

さくらちゃんの、小学校初めての運動会かあ。
保護者席が凄い事になりそうだなあ。考えるだけでおかしい。

「そうと決まったら一刻も早く出発した方がいいね。僕、準備があるからこれであがらせてもらうよ。僕が教えたんだから間違いはないと思うけど佐伯、万が一にも僕がいない間に紅茶の味を落とさないでよね」

さっきとまるっきり正反対の事を言って、不二さんがさっさとカウンターを出ていく。サエさんは慣れた様子で「はいはい」と笑っていた。
不二さんは階段へ続くドアを開けながら「そうそう、僕の部屋にダビちゃん泊まってもいいよ」と言って、するりと小さなドアの向こうに消えていった。パタパタパタ、と階段を上がる音が頭上に響く。

「…なんでダビデ?」

首を傾げる僕に、サエさんは笑って答えてくれる。

「なんか、妙に気が合うみたいなんだよね、不二とダビデ。不二も一応、自分の不在でこの家が寂しくなることを気にしてくれてるんじゃないかな」

「へえ…」

そうかあ。ああ見えて不二さんも、サエさんとさくらちゃんを(主にさくらちゃんを、だろうけど)大事に思ってはいるんだなあ。

「でもサエさん、1か月も不二さんいなくて店は大丈夫なの? 僕、週末だけでも手伝うよ」

「ははっ、それは心強いな。でも大丈夫だよ。なんとかなるさ」

「なんとかなるって、サエさんはいっつもそうだよね…」

まあ実際、それでなんとかなってしまってるのがサエさんなんだけどさ。
少しは頼ってくれてもいいなのなあ、と頬を膨らませた僕の頭を、サエさんがカウンター越しに優しく撫でてくる。…僕、もう坊主頭じゃないんだけどな…。

「頼りにしてるよ。ほんと、いつも助けられてるよ、剣太郎」

にっこりと笑って言われると、いつまでも拗ねている事は出来なくて、僕もつられて顔を崩してしまう。サエさんってほんとずるいよなあ…。

「それにね、今はしっかり者のウエイトレスさんがいるから」

サエさんの台詞に僕は今度こそ笑ってしまった。うん、確かに。

そこへタイミングを計ったかのように、ちりんちりんとベルの音と共に店の扉が開いて、「ただいまーっ」と元気な(でも一応お店の中だからと少し潜められた)可愛い声がした。
僕とサエさんは顔を見合わせて笑って、振り返る。

「おかえり、さくらちゃん!」

「けんたろうくん! こんにちは!」

ランドセルを背負ったさくらちゃんは、僕を見てぱっと笑顔になってくれた。
他の常連のお客さんからかけられる「おかえり」の声にも、ひとりひとりに丁寧に「ただいまです。いらっしゃいませ」と笑顔で返しながら、真っ直ぐに僕がいるカウンター席に来てくれる。
…うん、確かに。ものすごく優秀な、ちっちゃなウェイトレスさんだ。

「おかえり、さくら」

「ただいまパパ! いらっしゃいませ、けんたろうくん!」

さくらちゃんは満面の笑みではきはきと挨拶をしてくれた。

さくらちゃんは2歳を過ぎる事からようやく夜泣きをしなくなり、同時に、それまでほとんど出なかった言葉を一気に喋り出した。
それからは普通の子以上のスピードでぐんぐん元気に成長し、今では、小さい頃に成長の遅れを指摘されていたなんて信じられないくらいだ。

「けんたろうくん、すごく久しぶり! お仕事いそがしかったの?」

「ちょっとね。でも大分落ち着いたから、サエさんのコーヒー飲みに来たんだ」

さくらちゃんは、サエさんのコーヒーを褒められると凄く嬉しそうにえへへと笑った。ああ、めちゃくちゃ可愛い。僕も娘が欲しい! その前に彼女が欲しい!

「さくらちゃんは学校頑張ってる? 楽しい?」

「うん! すごく楽しいよ」

にっこりと笑うさくらちゃんは、とても頼もしい。何かに怯えるように泣いていたあの赤ちゃんがこんなに大きくなったんだと思うと僕はじんとする。
さくらちゃんは、僕を見てふっと瞬きをすると、ちょっと首を傾げて(その仕草はサエさんにそっくりだ)「あれ?」と呟いた。

「…けんたろうくん、もしかしてさっきまで寝てた? まだ疲れてる? だいじょうぶ?」

「……」

僕は、サエさんと顔を見合わせて、それから同時に噴き出した。

「え? わたしなにか変なこと言った?」

僕は笑いながら、きょとんとするさくらちゃんの頭を撫でた。サエさん譲りの、色素の薄いさらさらの髪。

「そんなことないよ。さくらちゃんがあんまり鋭いからびっくりしたんだ。心配してくれてありがとう、僕は元気だよ」

「…ほんと?」

「うん、本当! 確かにちょっと疲れてたけど、今日はしっかり寝たし、サエさんのコーヒー飲んでさくらちゃんの顔見たら元気になっちゃった」

「ええー?」

恥ずかしそうに笑うさくらちゃんの頭を撫でながら、確かにこの子がいればサエさんは大丈夫だと思った。頼もしすぎるよさくらちゃん。

「さくらちゃん、今日の夜、お店が終わってから海に散歩に行かない?」

「ほんと!? 行きたい! パパ、行ってもいい?」

ぱあっと顔を輝かせたさくらちゃんに、サエさんがカウンターの中から「仕方ないな」と笑う。

「サエさんも行こうよ。皆も誘ってさ、花火しようよ」

「花火!?」

目を丸くするさくらちゃんは、あの夜の事を覚えてはいないだろうけど。
久しぶりに季節外れの花火をしたくなって、僕は皆に連絡するために携帯を取り出した。

そうだ、不二さんも誘おう。大事な出発前夜だけど、面白い事が大好きなあの人はきっと来てくれる。さしずめ、今夜は不二さんの壮行会というところだ。

不二さんがしばらく留守にすると知ったら、さくらちゃんはきっと寂しがるだろう。
性格までサエさん似に成長したさくらちゃんは、全然気にしない素振りで、笑顔で「行ってらっしゃい、がんばってね!」と不二さんを送り出して、後でこっそり泣くかもしれない。というより、泣く。絶対。

だから、今夜は皆ではしゃごう!





笑っていてほしい人たちがいる。
痛みを隠した、つくった笑顔じゃなくて、本当に心から笑っていてほしいと願う人たちが。それはとても幸せなことだ。

僕の足を、明日へと進ませるもの。ひとを想う気持ち。

いろんな痛みを抱えながら、毎日つまらないことにヒーコラ言いながら、大人も子どもも生きていく。
疲れた時には優しい味のコーヒーを飲んで、泣きたい夜には海で花火をしたりなんかして。なんとか生きていくんだ。

海のそばの、優しいこの場所で。






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