夏が育てる双葉
遊び場に隣接するテニスコートは、こちらもオジイ手作りのクレイコートだ。
長年、何十人もの子供たちに使われ、何度も修繕を繰り返されてきたコートは、親しみやすく素朴ながらも、どこか貫禄に満ちている。
試合の形をとりながら、部長は子供たちを順番に相手にしていった。
当然の如く勝敗は見えているけれど、重要なのは勝敗ではない。
格上の相手と打ちながら、自分の欠点を見つけ、克服するチャンスを掴むことだ。
「いいリターンするようになったなあ!」「でもまだこっちが弱いぜ」声をかけながらあしらう部長も、立ち向かっていく少年たちも、心から楽しそうな笑顔で。
みんな本当にテニスが好きなんだ、と花音は思った。
なんだか自分には立ち入れない世界のように思えて少しさびしい気もするけれど、いきいきとした彼らの姿を見ているのはとても楽しかった。
「サーティー・ラブ!」
審判役の首藤が声を上げる。
花音は、傍らで試合を見る亮に尋ねた。
「ねえ亮ちゃん、ラブってなに?」
「え? ああ、ゼロってことだよ」
「へえ。それで、なんで15の次が30なの?」
「…花音ってほんとにテニスのこと何も知らないんだね」
「…うん」
そばで聞いていた黒羽が、笑いながら花音の肩を叩いた。
「そりゃ仕方ねーよな! でも、なんだよ突然。テニスに興味が出たのか?」
「…うん。興味っていうか…もっとよく知りたいなって」
「へえ?」
「ルールを知らなきゃ、みんなのこと応援もできないし」
「へ。俺らのこと応援してくれんの?」
「うん! 今見ててすごく思ったの。みんなを応援したいなって」
真っ直ぐにコートを見つめたまま花音が言った台詞に、黒羽は少し虚を突かれて「それは…ありがとな」と頬を掻く。
亮が帽子の下でクスクスと笑った。
「花音、はっきり言ったら? 応援したいのはみんなじゃなくてサエだろ? クスクス」
「──へ?」
花音は目を丸くしてコートから亮に視線を移すと、ぱちぱちと瞬きをした。
確かに今コートの中で六角中の部長と打ち会っているのは佐伯だったが。
黒羽もああ、とコートに目をやると納得したように呟く。
「あ、なんだ。そーゆーことね」
「えーっ! ちがうよ! みんなだよ!」
「はいはい、わかってるわかってる。クスクス」
「ぜんぜんわかってないよ亮ちゃん! 私はほんとに…」
「花音がどうかしたのね?」
「おー樹っちゃん。ダビデも聞いてくれよ。花音がなー、サエのことをー」
「バネちゃん! だから違うんだってば」
「なになに、僕にも聞かせて!」
「剣太郎にはまだちょっと早いかな〜」
「あ、なんだ。やっぱりそうなんだ、亮? クスクス」
「そうらしいよ、淳。まあ見てたらわかるけどね。クスクス」
「亮ちゃんもあっちゃんも! なんでそうなるのかなあ」
「なんだなんだ、騒がしいな」
「あれ? 首藤、審判やってたはずじゃ…ああ、もう終わっちゃたんだ」
亮の言葉に皆がコートを振り返ると、佐伯と部長が並んでこちらへ戻ってくるところだった。
炎天下で打ち合っていたふたりは、だらだらと汗をかいて息を弾ませている。
花音が悲鳴を上げた。
「ぎゃーっ! こーちゃん、汗! 汗すごい!」
名指しされた佐伯は一瞬きょとんとして、それから「ははっ」と笑う。
「これくらいテニスしてたらいつものことだよ。それより、やっぱりかっこ悪いとこ見せちゃったな」
「かっこ悪くなかったよ、かっこよかったよすごく! …じゃなくて、汗! 汗拭かなきゃ! あと飲み物! 脱水症状起しちゃう。私飲み物とタオル取ってくる!」
「え。ちょっと花音」
佐伯が呼びとめる間もなく、花音は物凄い勢いでオジイの工房の方へ走り去って行った。
呆然とする佐伯。部長がけらけらと笑いだした。
「行っちまった。元気だなーあの子」
「…はい。もう…元気過ぎて…。自分の体力考えずに行動するから、危なっかしくてしょうがないんです。今だってあんなに走ったらまた後で疲れて熱出すんじゃないかな…」
佐伯はTシャツの裾で汗を拭いながら溜め息をついた。その肩を亮が叩く。
「まあそう言ってやるなって。お前の為にテニスのルール覚えようと頑張ってるんだからさ」
「…俺の為?」
「そう。応援したいんだってさ」
「なんだ、そんなの。俺だけじゃなくてみんなの為に決まってるじゃん」
当たり前だろ、とさらりと言う佐伯に、皆は顔を見合わせた。
「…同じこと言ってる」
「さすがサエさん。冴えてる。…ブッ」
「ダビデッ!」
「ちょ、バネさんタンマ!」
ドタバタしているうちに、あっという間に花音が返ってくる。
花音は息を弾ませながら佐伯と部長にタオルと麦茶のボトルを押しつけた。
「これっ…飲んで…、あと…汗も拭いて…体冷やす…から…っ」
「ちょ、花音! 走り過ぎ! ちょっと休んで」
「へ? 俺の分もあるの? ありがとなー花音ちゃん」
ぜえぜえと息をしながら途切れ途切れに言う花音と、慌てる佐伯と呑気に喜ぶ部長の声が重なった。
「だいじょうぶっ! あと、みんなの分も持ってくるから!」
花音はくるりと方向転換すると、ひらひらとスカートを翻して再び工房の方へ駆け出して行った。
「花音! ちょっと休んでからに…」
佐伯の伸ばされた手も空しく、あっという間に小さくなる背中。
「……」
佐伯はがっくりと肩を落とした。その肩を部長がからからと笑いながら叩く。
「面白い子だなー。小動物みたいだな!」
「…はは」
「でもいい子じゃん。6年生だっけ」
「え、はい」
「来年六角中来てマネージャーやってくれなーかなー。女子マネージャー欲しいなー」
「…六角の男テニにマネージャーがいないのは、テニスバカだらけで男臭すぎるからって姉が言ってましたけど」
「うわ、サエのねーちゃん相変わらずきついねー。でもそれ当たってるわ。あとクラスの女どもには『年中海に入ってるガキ』とか『砂まみれで汚い』とか言われるなー。…うち、一応全国クラスなんだけどな。なんでこんなに女子に人気ないんだろうな…」
佐伯は苦笑しながら、花音に渡されたタオルで汗を拭った。
今日はテニスをする予定ではなかったから、タオルも飲み物も持って来ていなかった。正直とても助かったとは思う。
部長の台詞に反応したのは亮だ。
「いいじゃん、マネージャー。花音テニスのルールとか覚えたがってたし。あいつ本人は体力なさすぎでテニスなんてできないけど、マネージャーなら喜んでやりたがるんじゃないの」
「マネージャーだって結構きついだろう、体力的に」
「でも花音ちゃんがマネージャーっていいね! みんなで花音ちゃんを全国大会に連れて行こう!
なーんて」
「剣太郎それマンガの見過ぎなのね。…でも、花音がマネージャーやってくれたら俺も嬉しいのね」
「…花音、多分六角中には行かないんじゃないかな」
わいわいと盛り上がる面々に佐伯が遠慮がちに口を挟むと、皆は一様に「ああ」と肩を落とした。
「だよなあ。あいつ長野の小学校に籍置いたままだって行ってたもんな」
「私立の女子校らしいし。中学もそっち行くつもりなんだろうなー」
「ええ〜。花音ちゃんずっと六角にいてくれたらいいのに」
「バカ剣太郎、お母さんが入院してる間だけなんだから、そんなこと言ったら駄目だろ」
「うん、そうだよね…」
しょぼんと俯く葵の坊主頭を、部長が大きな手で乱暴に掻き混ぜた。
「よっしゃ! 次、誰がやる?」
「え、部長もう休憩終わり?」
「小学生相手に休憩なんかいらねーよ。六角中の部長なめんな。なんならまとめてかかってくるか?」
「さっすが! じゃあ僕! 僕とやって!」
「よっしゃいい度胸だチビ。コート入りな」
「チビじゃないよー剣太郎だよ!」
元気いっぱいの葵を余裕であしらう部長を横目に見ながら、佐伯は麦茶を一口飲み、ふうと溜め息をついた。
「バネ、俺、花音手伝ってくるから」
「おー了解」
ぴらぴらと軽く手を振り、黒羽は空を見上げる。雲ひとつない青空に眩しい太陽。
「あー、今日もあっちいなー…」