番外編 夜の隙間、こどもじかん (後)






佐伯はそっと自室を出た。寝静まる家の中に音が響かないように気をつけながら階下に降り、キッチンに行って水を一杯飲む。
夜の台所というものは不思議だ、と思う。
しんとして暗く、生き物の気配はなく。でも何かが息づいているような。昼間ここで楽しそうに料理をしていた母と姉と花音の残り香のようなものがあちこちに零れ落ちているような。

「……こーちゃん?」

だから、控えめな声で呼ばれた時、佐伯ははじめそれが自分の幻聴かと思った。
花音の声は綺麗な音楽みたいだなあ。夜に聞くオルゴールのようだ。そんな乙女な思考を巡らせながら声が聞こえた(気がした)方向にぼんやりと視線を向けると、キッチンのドアのところに本物の花音が立っていた。

「わっ!」
「わぁ!?」

驚いて声をあげてしまった佐伯に、花音もつられてびくりと肩を揺らす。静かな夜の家の中で二人の声は思いのほか大きく響いた。

「…………花音」

反響が消えるのを待って、佐伯が今度は小声で名前を呼ぶと、花音も神妙に声を潜めて「はい」と生真面目な返事をする。

「どうしたの? こんな夜中に。眠れない?」
「…ううん。寝てたよ。寝てたんだけど、今、なんでか目が覚めて。なんかいつもと違うなあって…あ、お泊りに来てるんだからいつもと違うのは当たり前なんだけどそういうんじゃなくて、ええと…夜のかんじ? なんかざわざわする、ここが」

ここ、と心臓を押さえながら花音が首を傾げる。

「眠たいのに眠れない、みたいな。嫌なかんじじゃ、ないんだけど」
「……」

それは。
自分も同じだ、と佐伯が言葉を失っていると。

「そしたらこーちゃんが下へ行く音がしたから。ついてきちゃった」

にこりと花音が笑った。夜に滲むような静かな笑い方で。
佐伯は思わずくすくすと笑いだした。

「ついてきちゃったの。俺に」
「うん」

本当に敵わないなあ、と思う。

「おいで」

手招きをすると、花音は許しを得たようにぱあっと明るい笑顔になって近くに来た。

「花音も水飲む?」
「うん。ありがと」

佐伯が新しいコップに水を入れようとすると、花音は「これでいいよ」と佐伯の飲みかけのコップを勝手に手に取り、半分ほど残っていた水をごくごくと飲み干してしまった。
なんとなく、佐伯はその動く白い喉から目が離せなくなる。

「ごちそうさま!」
「……ああ、うん」
「こーちゃん?」
「…や、なんでもない」
「こーちゃんはお水、もっと要る?」
「いや、もういいよ」

そう、と花音は頷くと、シンクでコップをざっと洗った。佐伯家の台所はもう使いなれている様子で、洗ったコップをクロスで拭き上げると食器棚のコップの場所に迷うことなくきちんと仕舞う。

「こーちゃんは」
「え?」
「なんで目が覚めたの? 怖い夢を見たとか?」
「え……」

唐突な質問に佐伯は目を瞬かせたが、花音の表情は真剣そのものだった。

「もし怖い夢を見て一人で寝られないとかだったら、私、しばらく一緒にいるけど」

……笑ったらいけない。彼女は本気で心配してくれているのだから。
そう思うほどにこみ上げる笑いを押さえきれない。口元を手で覆って笑いだす佐伯に、花音はぽかんとした後むっとした表情になった。

「ちょっとこーちゃん!?」

それでも声のボリュームは下げて佐伯を睨む花音。佐伯は「ごめんごめん」と謝りながら彼女の髪を撫でた。少し寝乱れているやわらかな髪。

「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「……」
「俺も花音と同じ。なんとなく目が覚めて、眠いのに眠れなくて」
「……そう、なんだ」
「うん。多分さ、昼間の会話のせいだよね」
「昼間の……って、あ……」

途端に頬を染めて目を泳がせる花音は、やはり自分と同じ事を思ったのだろう。

「およめさんになる……とか、そういう……?」
「そう、その話。ちょっと吃驚したな。まさかうちの親がそのつもりで花音を見てるとは思わなかったから」
「あー……あの、私は、ちょっとだけ話した事あるんだ。こーちゃんのお母さんと、前に」
「え、そうなの?」

うん、と頷く花音は耳まで真っ赤で、佐伯の顔を見ようとしない。

「なんか話の流れでね、その…まあ、こーちゃんの、およめさんになりたい的な事を言いました…私が」
「あ……そうなんだ……」
「うん…………」
「…………」
「…………」

例の女子会(と呼ぶには無理がある年齢の人もいるが、そこは突っ込むべきではない事を佐伯は父から学んでいた)ではそんな話まで出ているのか。女のひとって怖いな…と佐伯はこっそり胸を押さえた。そんな会話、到底自分は参加できそうもない。

「花音」

名前を呼ぶと、花音の肩がびくりと揺れる。

「……そんなに、怖がらないでくれると嬉しいんだけど」
「! こわくないよ!」

ゆらゆらと視線を泳がせていた花音が、佐伯の呟きにキッと真っ直ぐな目を上げて反論した。

「私、こーちゃんは全然こわくない! こわくなることとか、きっと一生ないから! さっきのはね、ちょっとびっくりしただけで…っていうか恥ずかしかっただけで……ごめんなさい、気にしないで」

威勢の良かった台詞がだんだんと力を無くしてゆき、語尾は消えそうに小さくなる。また目が逸らされそうになるのを佐伯は彼女の顔を両手で包む事で阻止した。

「へっ? …こ、こーちゃん…?」
「花音。俺を見て」
「え。むり」
「…無理……」
「え、や、だから怖いとかじゃなくて! なんでそこで落ち込むかなこーちゃんは! そうじゃなくて、恥ずかしいからだよ! 赤くなるのみっともないしやだ。こーちゃんがかっこよすぎなのがいけないの」
「俺は怖いよ」
「え?」
「俺は、花音が怖い」

佐伯のてのひらに包まれた花音のちいさな白い顔が、大きな目を見開いて固まった。

「こわい…?」
「うん。花音に嫌われたらどうしようとか、花音を失望させるような俺になったらどうしようとか、いつも、怖い」
「……そん、なの」
「俺はちっともかっこよくなんかない」
「……ほんとに、こーちゃんはもう」

泣きだす寸前のような、ふわりとほどけるような笑い方をして、花音が手を伸ばした。そのまま佐伯の頭を抱きしめる。花音の方が背が低いので佐伯の首にしがみつくような、半ばぶら下がるようなかたちだったけれど、佐伯は抱きしめられていると感じた。彼女の全身と心で抱きしめられ包まれていると。

「ほら。こわくない、こわくない」

幼い子供をあやすように、やさしく繰り返される声。

「だいじょうぶだいじょうぶ。そのままのこーちゃんが好きだよ。そんなふうにひとりで悩んで怖がっちゃうところまで、好き。毎日どんどん好きになる。どんなふうに変わっても、変わらなくても、こーちゃんが大好きだよ。私があなたを嫌いになる事なんて、絶対、ないから」

……やっぱり綺麗な音楽みたいだ、と佐伯は震えそうになる瞼を閉じた。





手を繋いで、そっと足音を忍ばせて階段を上った。小さな子供が二人、こっそりと抜け出したベッドに戻るように。
けれど実際そうなのだ。自分たちはまだ子供で、それぞれ抜け出したベッドに戻るところなのだ。親の庇護下の、あたたかい屋根のもと守られたベッドへ。
早く大人になりたい、でも急いてはいけない。佐伯は不安定にうねる心を宥める。
彼女を守りたいから。ちゃんと幸せにしたいから。
大切なものがあるから、焦って急ぎ過ぎて失敗はできない。見守り待っていてくれる家族の為にも、自分は段階を踏んで子供から大人へ成長しなくてはいけない。一足跳びでは駄目なのだ。

「もう眠れそう?」

姉の部屋の前まで来て、ほとんど吐息ほどに小さく声を潜めて訊くと、花音も小声で「うん」と頷いた。

「だいじょうぶ。ざわざわしてたの、こーちゃんと話したら落ち着いたから。こーちゃんは?」
「うん、俺も。……落ち着いた。ありがとう花音」

えへへ、と声を出さずに花音が笑った。

「こういうのでお礼を言われるのって変だけど、でもちょっとうれしいかな。私もこーちゃんの助けになれてるんだって自惚れそう」
「自惚れじゃなくて。凄く、助けられてるから。いつも」
「……それじゃ一緒だね」

「おやすみ」と囁きを交わして。
姉の部屋のドアノブに手をかけた花音が、「あ」と振り向いて佐伯に向き直った。

「? どうしたの?」
「あのね、さっきキッチンで最初に考えた事思い出したの」
「最初に…?」
「うん。キッチンでこーちゃんを見て一番最初に思った事。夜中に目が覚めちゃったとき、初めて目を合わせて言葉を交わせるのが世界で一番大好きな人だなんて、信じられないくらい幸せだなあって思った。幸せで眩暈がしそう、こわいくらい」
「…………」

何故。この子はこんなにも惜しげなく心を曝け出して、それを迷いなく差し出してくれるのか。自分なんかに。何故そんな事ができるのだろう。
湧き上がる想いを言葉で上手く表現できる気がしなくて、佐伯は花音を引き寄せてこつんと額に額を当てた。

「花音。怖くない怖くない」
「こーちゃん…」
「今の幸せなんて目じゃないくらい、花音の事は目一杯幸せにするつもりだから。これくらいで眩暈おこされてちゃ俺が困る」
「……ええと、じゃあ、私もがんばらないと。負けないくらいこーちゃんを幸せにしないと」
「そこは負けてくれてもいいよ。俺が花音を幸せにしたいんだから」
「あはは、でも駄目。こーちゃんが幸せじゃないと私の幸せはないから」
「……手強いなあ」
「そっちこそ」

声を潜めて至近距離でくすくすと笑い合う。それからどちらともなく唇を軽く触れ合わせた。
恋の仕方、キスの仕方、全部、彼女と一緒に初めてを知って行く。

「じゃあ、今度こそ本当におやすみなさい」

離れたばかりの唇をそっと指でなぞりながら、花音が佐伯の姉の部屋にするりと音もなく入って行った。
佐伯も足音を立てないようにして自分の部屋に戻る。
ベッドに滑り込んで枕元の時計を確かめると午前2時になるところで、佐伯は目を瞠った。今の出来事がたった15分間の事だったなんて。
驚きと呆れと、同時に眠気が押し寄せてくる。子供は寝る時間だ。寝なくては。

とろりと流されていく意識の中で、彼女もちゃんと眠りにつけていますように、と願った。
怖い夢や不安に心乱されずに。彼女の眠りが安らかなものであるように。
今夜も、その次の晩もずっと。

怖くない、怖くない。



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