先に病室に入った花音に招き入れられて、佐伯と黒羽はおずおずとその白い室内に足を踏み入れた。
相変わらず、病室にはタブーの筈の鉢植えの植物で埋め尽くされた部屋だ。鉢の数は以前よりずっと増えて、白く明る過ぎる室内に緑の影を投げかけている。空気はまるで森の中のようだった。

「ママ、こーちゃんとバネちゃんだよー」

花音が明るく母親に告げて、そちらに目をやった佐伯は、思わず息を呑んだ。

元から、12歳の娘がいるようにはとても見えない、細く白い、小さな女性だった。けれど今は、本当に十代の少女のように頼りなく儚く見える。
「生きているもの」らしからぬぼやけた存在感の、まるで絵のようにつるりとした美しい顔で、花音の母親はベッドに横たわったまま訪問者たちに柔らかく微笑んでいた。その目も、微笑む口元も、美しすぎてどこか怖いほどだった。

──やっと自由になれるって。それでかえって元気になってるの。

いつか聞いた、花音の寂しげな声が蘇る。

──ほんと勝手だよね。残される娘の気持ちより、自分が楽になれる喜びの方が大きいの。

聞いた時は実感の湧かなかったその言葉の意味が、今になってはっきりと分かった。
ベッドから、天使のようにうつくしく微笑む花音の母親の、心の殆どはもうここにはないのだ。
この世に生きている人間が、こんな顔をできるわけがない。

「こーちゃんとはお久しぶりだよね。バネちゃんとは初めてだね。いつも話してた、頼りになるみんなのお兄ちゃんみたいな人だよ」

花音はベッドの脇の丸椅子に腰かけて、母親の手を握りながら楽しげな口調で話しかけていた。その表情は明るく、ひとかけらの陰りも見えない。母親は口では答えを返さず、にこりと笑う事と、握られた掌に僅かに力を込める事で娘に応えているようだった。花音がくすくすと笑う。

「それは仕方ないでしょ! 私が一人っ子なのはママのせいじゃない。…やだ、また姉妹とか言って図々しいなあ。年を考えてよね」

返される言葉はなくても、そこには確かに会話が成立していた。花音は否定したが、二人の様子は仲の良い姉妹のようにしか見えなかった。
ベッドの奥、大きな窓の向こうには真っ青な海が広がっていて、冬の僅かな陽射しをきらきらと眩しく反射させていて。
佐伯は、何故だか泣きたいような気持ちでその光景を見守った。隣で黒羽も動けないでいるのが分かる。

「え? なあに? ……もう、全くママは子どもみたいなんだから」

母親を覗き込んでいた花音がふいに呆れた顔をして、立ち尽くす佐伯と黒羽の方を振り向いた。

「バネちゃん! ママがバネちゃんのことかっこいいねって!」
「えっ……うぁあっ?」

突然名指しされた黒羽は明らかにうろたえて、真っ赤になった頬を掻きながら花音の母親に向かって頭を下げる。

「あの…初めまして! 黒羽春風です! 花音には…っと花音さんにはいつも大変お世話に…っていうか俺が世話してるっていうか…いやその、仲良くさせてもらってるっつーか…っ」
「何言ってんだよバネは。──お母さん、こんにちは。お久しぶりです」

どもりながら挨拶をする黒羽の隣で、佐伯はそつのない笑顔を母娘に向けた。さり気なく「お母さん」呼びした事にぎょっとした顔をしたのは黒羽だけだ。

そのまま、佐伯と黒羽も花音に椅子を勧められて座り、四人は和やかにお喋りをして過ごした。
お喋りと言っても花音の母親が直接口を開く事はなかったけれど、花音の代弁と、にこにこと楽しげに微笑んだり頷いたりする母親の表情だけで、いつの間にか彼女も普通に会話に参加しているような錯覚を佐伯も黒羽も抱いた。
会話の内容は彼らの日常生活の事。オジイの家での出来事や、普段花音と皆がどんな風に遊んでいるかとか、佐伯と黒羽の小学校での生活など。
話題が六角中学校に及んだ時、佐伯は一瞬躊躇って口を噤んだが、花音は気にする様子もなく「凄く楽しみなの! みんなと一緒に学校に行けるのが」と笑顔で語り、母親もにっこりと目を細めてそれを聞いていた。

「六角中はね、テニス部が凄く強くて、古豪って呼ばれているの。かっこいいでしょ? こーちゃんもバネちゃんももうレギュラー候補なんだよー」

無邪気に言い切られて、佐伯と黒羽は慌てた。

「ちょっと待って花音! それは買い被り過ぎだよ」
「六角テニス部はマジですっげー強えんだから! んなこと軽く言うなよ」

それに対して、花音はきょとんと首を傾げる。

「あれ? ふたりともなんか弱気?」
「えっ…」
「弱気って程じゃ…ねえけどよ」
「でも自信ないんだ?」
「えっ…いや、自信がないとかそういう訳じゃ」
「そりゃ、俺たちは先輩にも負けねえ自信はあるけど…」
「じゃあがんばろうよ!!」

ずいっ。
花音が丸椅子から身を乗り出して二人に顔をぐっと近づけ、たじろぐ二人を大きな目で真っ直ぐに見詰める。

「こーちゃんもバネちゃんも、すごいもの! テニスってあんなにきれいでかっこいいものなんだって、みんなが教えてくれたんだもの。テニスをやってるふたりはすごくかっこいいよ! 私は同じコートの中には入れないけど、ずっと傍で応援したいって思っているの。だからがんばって! 楽しんでテニスする姿を私にずっと見せていて」
「……」
「……花音」

佐伯と黒羽は呆気にとられて花音を見返し、それから何となく顔を見合わせて、どちらからともなくぷっと噴き出した。

「……ここまで言われたら、頑張らない訳にはいかねーな、サエ」
「だな。一年でレギュラー入りして、我儘なお姫様を全国大会に連れて行かないと」
「確かに我儘だよなあ! 平気な顔でえらいこと言いやがる」

くすくすと笑い合う二人を前に、花音は憮然とした顔で「…それ私のこと?」と口を尖らせる。佐伯がやれやれと笑いながらその頬を撫でて仏頂面をへにゃりと崩させ、黒羽がわしゃわしゃとその頭をかき混ぜた。

「わあっ! ちょっとバネちゃん! やめてよーっ」
「頑張るのは俺らだけじゃねーんだぞ、わかってんのか? 花音」
「へ?」
「花音もサポート、しっかり頑張ってくれないと」
「…え」

二人の言葉に花音は髪を直す手を止めた。不思議そうな表情に、佐伯は思わず笑い出す。
人に発破をかける事はいとも簡単にしてみせるくせに、相変わらず自分の事には鈍感で。けれどそんなところが、たまらなく愛しいと思う。

「マネージャー、やってくれるんだろ? 頼りにしてるよ、花音」

笑顔で告げると、花音は大きな目を見開いて佐伯を見つめた。みるみるうちにその頬が紅潮して、じわりと涙が滲んでいく。

「一緒に全国に行こうぜ!」

追い打ちをかけるように黒羽がその肩を叩いて、花音は慌てて顔を伏せて「うん」と頷いた。零れそうになった涙を隠す仕草だと佐伯には分かる。
抱きしめたかったけれどさすがにこの場では躊躇われ、佐伯は代わりに黒羽の背中を強く叩いた。「うお」とよろめく黒羽。強く叩き過ぎたかも知れない。

「全国に行く? 当然だろ、バネ。目指すのはその上だよ」

誤魔化す気持ちもあっての発言だったのだが、黒羽は気持ちがいいほどすんなりと納得した顔で、にかっと笑った。

「おう! 全国優勝な!」
「…………バネって……呆れるほど単純……」
「あ? 何か言ったか? サエ」
「いや、なんでもないよ」

そこで花音が、佐伯と黒羽両方の腕を引っ掴んでぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。

「全国優勝だよ! がんばろうね、こーちゃん、バネちゃんっ!!」

…感極まっている彼女に自覚はないが、捕まえられて、思い切り抱きしめられた少年二人の腕は、花音の胸にぎゅっと押し付けられていて。

「だっ、ばっ、ばかお前、花音…っ!」
「花音、とにかくバネのことは離して今すぐ! バネ、触るな!」
「触るなってサエお前状況見てモノ言え!」

ぎゃあぎゃあと騒がしい三人を、花音の母親はにこにこと微笑みながら、楽しそうに見ていた。
花音はそんな母親に気付くと、にっこりと笑って「ママ」と話しかける。

「ママ、安心してくれた? 私、今すごく楽しくて幸せだよ」


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