約束
怖い、と一度思ってしまったらもう駄目だった。
怖い怖い怖い怖い。それしか考えられずに目を瞑る。
周りにあるのは黒い冷たい水だけ。吸いこめる空気がない。音もない。大好きな海が今はただ怖くて、怖くて、苦しくて。
ふいに訪れた、意識が遠ざかる感覚が救いのように思えて、その感覚に身を委ねようとして。
「──花音!」
耳を打つ声に、花音ははっとして目を見開いた。
真っ暗な水の中、何も見えないのも苦しいのも変わらなかったけれど、確かに声を聞いた。
その方向へ必死で手を伸ばす。真っ黒い闇色の水の抵抗を縫って、力強い、あたたかい手が確かな存在感を伴って伸びてきて、花音が力なく伸ばした手をつよく握りしめた。
これ以上はないという強さで、絶対に離さないという確かな意志の力で。
その瞬間花音が感じた安堵感は、ほとんど畏怖とも呼べる程のものだった。
こんなのは、こわい。
心臓が震える。数秒前までの恐怖と、比べ物にならない畏れ。
もうこの存在無しで生きていく事はできない。知ってしまったから。見つけてしまったから。
自分の手をしっかりと握って、体ごと引き上げて抱きしめる相手を、もう知っている。
ざぶり。
勢いよく水面に引き上げられて、音も、月明かりに照らされた青い視界も、澄んだ冬の夜の呼吸できる空気も、全てがいっぺんに戻って来て花音は咳き込んだ。
つよく抱きしめられて、呼吸を助けるように背中を優しく叩かれる。その腕の確かな温度。
「……こー、ちゃん、」
ようやくその名前を呼ぶと、抱きしめる腕がますますつよくなった。支えられているのは花音の方なのに、佐伯が花音に縋りついているような必死さで。
「……なんでここにいるの」
ぼんやりと問い掛けた声に応えたのは、佐伯ではなく淳だった。
「さっき、僕が花音の携帯でサエに電話したから。剣太郎が見つかったって」
花音が顔を上げると、思い切り目を吊り上げた亮の隣で、びしょ濡れの淳が小さく肩を竦めて立っていた。その横には同じくびしょ濡れの葵が泣きそうな顔で立っていて、黒羽、樹、首藤、天根の姿もあった。
「…さっきって、いつ?」
「だから、剣太郎見つけてすぐ。花音が岩場にむかって猪みたいに突進していった後」
「……いのしし…みたい、だった? 私」
「バッグ放り投げて、人が止めるのも聞かないでさ。だから僕は、勝手に花音のバッグから携帯を借りてサエに電話した訳。それから花音を追って剣太郎のところに行ったの」
冷静に説明する淳の横で、亮の目がきりきりと音を立てそうな勢いで吊り上がっていった。
「…海に行くなんて、聞いてなかったぞ」
低く発せられた亮の声は明らかに本気の怒りに満ちていたが、淳は平気な顔で「まあねえ」と頷いただけだった。
「だって言ってないから」
「淳…! お前なああああ!」
「ここに剣太郎がいるって保証はなかったし。単に僕の勘ってだけで皆を付き合わせるのも時間の無駄だと思って。…満潮は、想定外だったけど」
淳はそこで一旦言葉を切って、亮に正面から向き直り「心配掛けてごめん」とはっきりと言った。
亮はぐっと押し黙ると、しばらく怒鳴り出そうかどうか迷うような素振りを見せた後で、はあっと深い溜め息をついた。
「…淳、お前、ずるいよ」
「うん。ごめんね」
困ったように笑う淳の横で、今度は葵がうわっと泣き出した。
「──みんなほんとにごめん!」
心配掛けてごめん、探してくれてありがとう。
淳くん、見つけてくれてありがとう。
花音ちゃん、危ない目に合わせてごめん。
わんわん泣きながら謝る葵の肩を、樹が優しく包む。天根はおどおどと釣られて泣きそうになり、黒羽と首藤は顔を見合わせて苦笑した。
「──剣太郎」
優しい声に、葵がびくりと肩を震わせ、花音がはっとして顔を上げる。
佐伯は、海水に濡れた髪を軽く掻き上げながらいつものように笑っていた。
「無事でよかった」
叱られることもなく、とろりと優しく目を細めて本当に安堵したように笑われて、葵は呆然と立ち尽くした後、再びうわーんと声をあげて泣き出してしまった。
当然、焼肉どころではなく、葵は樹と首藤に付き添われて早々に家に帰されることになった。黒羽と天根も途中までついて行くと同行し、淳も、亮にほとんど引きずられるような格好で立ち去っていった。
何しろ真冬だ。すぐに着替えて体を温めなければ風邪をひいてしまう。
花音も慌てて佐伯の手を引いた。
「こーちゃん、お風呂沸かすから! 早くオジイちゃんちに行こう」
単純に、オジイの家の方が佐伯の家よりずっと近いからこその花音の発言だったのだが、佐伯は小さく笑って首を傾げた。
「…一緒に入るの? 風呂」
「え。一緒、って……」
花音は数秒硬直した後で、さあっと青くなり、それからかあっと赤くなり、首を振りかけてから慌てて辞めて、最後には意を決した表情で大きく頷いた。
「うん。一緒に入ろう。そうしなきゃ二人とも風邪ひいちゃうから」
佐伯は少し力の抜けた疲れたような顔をしていたが、それでも花音の反応を面白そうに眺め、くすくすと笑いだした。
「一大決心だね、花音」
「…だって。こーちゃん、絶対自分が後に入るって聞かないでしょ」
「それはまあそうだけど。でもごめん。冗談だよ」
俺は大丈夫だから、やっぱり花音が先に入って。
そうあっさりと言われて、花音はへにゃりと眉を下げた。
「そんな顔しないで、花音」
「……だって。こーちゃんが風邪ひくのも、寒いのも嫌なのに」
「ありがとう。でも俺は本当に大丈夫。慣れてるから、絶対風邪はひかない」
「慣れてるって……真冬に海に入ることに?」
花音が猜疑心たっぷりの眼差しを向けるが、佐伯は気にした風もなく「まあね」と軽く頷く。
「実際、結構あるよ。俺たち真冬でも海岸で遊ぶし、ふざけて海に落ちることも実は珍しくない」
「ええー…」
「だからほんとに大丈夫なんだってば。剣太郎も、淳もああ見えて丈夫だから、多分平気。それより花音が熱でも出して寝込む方が、俺たちのダメージは大きいな。特に剣太郎なんてまた泣いちゃうかもね」
さらりと言う佐伯は本当に平気そうな顔で、花音は仕方なく「わかった」と頷いた。
「じゃ、なるべく早く上がるようにする。そしたら交代する。だから早くオジイちゃんち行こ。お風呂沸かす前に濡れた服を替えるだけでもしないと」
「それはそうだね」
そうだね、と言いつつ佐伯はその場を動かない。
「…こーちゃん?」
仕方なく花音が手を引くと、反対にその手を引っ張られ、つよく抱き込まれた。
「──こーちゃん」
「ごめん。平気なつもりだったけど、駄目だ、俺」
頭を胸に押しつけられた花音から佐伯の表情は見えないけれど、声が震えているのは分かった。
同じだ、と思う。
皆がいて、葵が無事で。いつものように皆で笑って、さっきは平気な振りをしたけれど、全然平気なんかじゃなかった。
誤魔化す事は出来ない。自分は、ついさっき死にかけたのだ。
花音は震える息を吐いて、「ごめんね」と呟いた。
「たすけてくれて、ありがとう」
「…間にあわないかもしれないと思った…っ」
頭上から降ってくる声が濡れて、揺れている。
花音はその声に寄りかかるように目を閉じて「大丈夫」と呟いた。
「すごく怖かったけど、こーちゃんの声が聞こえたらもう大丈夫ってわかった。その瞬間から、助からないかもなんて全然考えなかった。それより、わかってしまったことの方がこわくて」
「…うん。俺も」
「うん、わかったの、一緒だったよね」
冷たく暗い水の中で、指が触れた瞬間から。海は怖い存在ではなくなった。いつも通りの、ふたりを包む、ただ大好きな場所に過ぎなかった。
こわかったのは別のことだ。死の恐怖よりもこわいもの。こわくて、絶望的に幸せな事実。
「──あなたのことがすき。すきよりもっと、たぶん」
「うん、あいしてる」
愛してる、という言葉そのものが、まだ子どものふたりには怖くてたまらなかった。
死ぬかもしれない時に、声を聞いて、指が触れただけで安堵感を覚えてしまうほどの相手。そこまでの信頼を、ひとりの他人を相手に感じてしまえたこと。それが何よりもこわいこと。
たった12歳で。多分、この先一生、これ以上の相手には出会えないとわかってしまったことが。
こわくて、しあわせで、おそろしくて。
「花音、俺と結婚して」
震える声で佐伯が、ほとんど懇願するように言うので、花音はなんだか泣きそうな気持ちで頷いた。
「それしかない。うん、それしかないと思う。でも、こーちゃん、ごめんね」
「…なんで謝るの、花音は」
「だって、こーちゃんがそれこそギャグみたいにもてるの知ってるから。これから、素敵な人に、たくさんたくさん出会うのに。今そんな大切なこと、私なんかと」
「……ギャグみたいにって…それは褒められてるのかな」
腕の力を緩めて花音と顔を見合わせた佐伯は、情けなくへにゃりと眉を下げて笑っていた。
多分自分も同じくらい変な顔をしていると花音は思う。
プロポーズの場面にしてはあまりにもお粗末だったけれど、今、こうするしかなかった。
一生お互いを縛る言葉を今交わしておかなければ、こわくて一歩も歩けないとふたりともが分かっていて、怯えていて。
「ごめん。こんなんで。本当に。でも」
情けない表情のまま、目だけは酷く真剣に佐伯が言う。
「俺と結婚するって、約束して下さい。俺にはもう、一生、君しかいないから」
それはある種の絶望感すら伴った愛の告白で。消去法?と花音は笑い出したくなった。
それでも一瞬も迷うことなく頷く。そうしなければ息をする自信さえなかった。
「うん。私も」
子どもには抱えきれない気持ちを持て余して酷く怯えて、情けなくて、それでも幸せなことが、喜んでいいのか悲しむべきなのか分からずに。
全身を海水でぬらしたまま、月のひかりだけで幼いキスをした。