小さな冒険 3





急に視界が開け、潮の匂いが濃くなった。海岸に着いたのだ。
花音は瞬きをして淳を見上げたが、宵闇の中でその表情まではよく分からなかった。

「…あっちゃん? どうして、今その話をしたの?」
「うん。どうしてかな」

自分でもよく分からないけど、と淳は続ける。

「今話しておかないと、もう花音とサエの話をする機会なんてないような気がしたから、かな?」
「…なんで?」
「さあ。自分でもよく分からないって言ったろ」

あっちゃん、と呼びかけた花音を遮って、淳がすいと腕を持ち上げて波打ち際の岩陰を指差した。

「花音、見つけた。あそこだ」
「え…? だって、海は、最初にバネちゃんたちが探した筈なのに」
「バネに見つけられる訳ない。あいつは、兄弟と喧嘩して一人ぼっちになりたくなったことなんてないから」
「え…」

その言葉の意味を問うより前に、さっと月明かりが辺りを薄青く照らし出した。淳の指差した岩陰に、仄かに浮かび上がった小さなシルエットを認めて、花音は目を見開いた。

「剣ちゃん!」

名前を呼ぶと、岩の間に隠れるように膝を抱えていた少年がびくりと体を震わせたのが分かった。

花音は砂に足を取られながら駆け寄って、岩場によじ登った。
ごつごつした岩場はあちこち尖っていて、よく確かめずに進む花音の腕や足を擦る。スカートが引っかかってピリッと破れた感触がしたが、花音は全く構わなかった。岩に貼りついた得体の知れない何かにぬるりと手が滑っても、顔のすぐ横の岩の隙間を気味の悪い虫が駆け抜けていってもどうでもよかった。

「…花音ちゃん?」

岩場の窪みに蹲ったまま葵が呆然と顔を上げた。今起きたばかり、というぼんやりした表情で目を瞬かせて、駆け寄る花音を眺めている。月明かりに照らされたその姿の、どこにも怪我のないことを素早く確認すると、花音はほとんど倒れ込むようにして葵に抱きついた。

「わあっ! 花音ちゃん!?」

葵がうろたえた声を上げる。花音は笑って「なんだ、元気じゃない」と口にしようとして失敗した。
押し倒され抱きつかれた葵は、「わ」とか「ちょっと!」などと叫んでじたばたしていたが、花音の顔を押しつけられている肩の感触に気付くと、はっと表情を凍らせて動きを止めた。

「…花音、ちゃん…? なんで泣いてるの?」
「お前のせいだよ、馬鹿剣太郎」

苦笑交じりの声が背後から降ってくる。葵はそちらを見上げて「淳くん…」とやはり呆然とした声を出した。
花音は葵に抱きついたまま、首に回した腕にぎゅうっと力を込める。

「うわ、花音ちゃん苦しい!」
「剣太郎、我慢するしかないよ」

剣太郎が上げた悲鳴に答えを返したのは、やはり淳だ。
花音は何も言えないまま、とにかくぎゅうぎゅうと力の限り葵を締め付けた。
葵を見つけたら、言いたい事はたくさんあった筈だった。どうしてお兄さんと喧嘩なんかしたのかとか、皆がどんなに心配したかとか、早く帰ろう、とか。
けれどそのひとつも言えなくて、葵の無事な顔を見たら全てがどうでもよくなってしまった。

「剣ちゃん…っ」
「花音ちゃん…」

葵はしばらく呆然としていたが、やがてぽつりと、「…ごめん」と掠れた声で呟いた。
花音は無言のままぶんぶんと首を振り、淳はただ「うん」と頷いて葵の坊主頭を撫でた。

きっと、兄弟のいない自分には分からない事がある、と花音は思う。
朝からこんなところに蹲って、いつしか眠り込んでしまうほどの何かを抱えていた剣太郎に、花音は何も伝えられる言葉を持っていなかった。
淳には共感できるものがあるのだろう。彼もやはり何も言わなかったけれど、剣太郎の頭を撫でる手つきは乱暴で優しかった。



三人とも無言のまま、しばらくそうしていて。

やがて、ざぱん、と冷たい波飛沫が三人にかかった。

「え? なんでこんなとこまで波…?」

顔を上げた花音は、月明かりを反射する波打ち際がついさっきまでよりもずっと近くなっていることに気付いてぎょっとした。
淳が「あ、やばい」と冷静に呟き、葵が「わあっ!」と慌てて花音の手を引いて立ち上がる。

「え? え? なに?」
「満潮だよ花音ちゃん! 急がないと海に呑まれちゃう!」
「え……えええーっ!?」
「花音! 剣太郎! 二人とも早く!」

淳が先頭に立って走りながら、彼にしては珍しく声を荒げる。

早く、と言われても岩場はとても走りにくい。花音は葵に手を引かれながら、何度も足を滑らせては「わあ、花音ちゃん!」と引っ張り上げられた。体格的に葵の方が小さいので、それは難しい役目だった。
ほんの数分前、葵を見つけた時はあっという間に走れたというのに。
彼を探しに来たつもりで、自分の方が重荷になっている。花音は情けなさに泣きたくなった。

「剣ちゃん、いいよ、先に行って」

葵は幼い頬にむっとした表情を浮かべて振り返る。花音の左手を握る手にぎゅっと力が込められた。

「駄目だよ、一緒に行こう」
「だって私と手を繋いでたら剣ちゃんまで一緒に転んじゃうよ。大丈夫、私ひとりでちゃんと行けるから」
「何言ってんの! 花音ちゃんカナヅチなくせに!」
「カナヅチって…まさか、海に呑まれちゃうなんてないでしょ。いくら満潮だからってこんなとこまで波が来るわけ…」

言いかけた花音の肩に、背後から冷たい波がかかった。
え、と振り返る間もなく、音もなく上昇した海面が膝、腰、胸、とあっという間に全身を呑みこんでいく。花音が事態を把握するより前に、一際高い波が頭の上から降り注ぎ強い力で体を押し流した。
花音の手を強く掴んでいた葵の指が、波に抗えずに呆気ない程簡単に引き離される。ぶわりと体が浮き、波に攫われた足が完全に地面から離れた。

パニックになったらいけないという事だけははっきりと分かっていて、花音は方角を見失わないように沁みる目をこらした。

──真っ暗の闇。
月明かりも、何も見えない。
感じるのは氷のように冷たい黒い水の感触だけ。
水が全身を包んで、そして、更に深い場所へ流れようとする強いうねり。

「や…!」

やだ、と思わず口をついた叫びも水に飲み込まれる。水を吸った衣服は信じられない程重く体に絡みつき、手足はみるみるうちに冷たく痺れて感覚をなくしていった。


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