小さな冒険 2





佐伯の背中が見えなくなってから、淳はぽつりと呟いた。

「お別れのキスくらいするかと思った」

あまりといえばあまりに唐突な台詞に、花音はぎょっとして淳を見上げた。淳はのほほんとした顔のままで「花音が泣きそうだったから」と続ける。

「…私、泣きそうだった?」
「僕にはそう見えたけど」
「私が泣きそうだったらこーちゃんがキスするの?」

今度は淳がぎょっとした顔で花音を見下ろす番だった。

「だってそういう意味でしょう?」

淳は真顔で訊いてくる花音をしばらく眺めていたが、やがて「…なるほど、そう来るか」とぼそりと呟いた。

「? なにそれ」
「うん。花音って本当にストレートだよね。あまりにストレート過ぎるからさ、実は半分くらい計算なのかと怪しんでたんだよね。うん、ごめん。僕が悪かった。ホンモノだった」
「…………あっちゃんまで私を天然とか言うの?」
「僕までっていうか、まあ、誰から見てもそうだよねっていう」
「私から見たらあっちゃんのほうが天然だよ」
「へっ?」

思いもよらぬことを告げられたという顔できょとんとする淳を、花音はむっとして見上げた。彼が天然でなくて誰が天然だというのだろう。男の子というのは全く分かっていない、と腹立たしく思う。

「半分くらい計算? そんな可愛いこと考えてる時点であっちゃんがホンモノだよ。あのね、計算なんてするよ。当然だよ。しない訳ないよ。キスなんていつでもしたいに決まってるよね」
「……決まってるんだ?」
「決まってるよ。でも、今したらきっと弱くなるって、さっきこーちゃんと私、同時に思ったのがわかったの。泣いていいときと駄目なときがあるでしょ。泣かないで頑張らないといけないときに、そういう、弱くなる種類のキスをしたら駄目だよね」

今は剣ちゃんが心配、と生真面目に言う花音を見下ろして、淳は「ああ」と何かに気付いた顔をした。

「…サエが自分で花音を送らないのもそういう理由?」
「たぶん。私たち、まだ子どもで流されたら自制が効かないから。流される前に考えて気をつけないといけないの。だからいっぱい計算してるし我慢もしてるの。天然とかそんなんじゃないよ」
「…そっか。なるほどね」
「……あっちゃん、幻滅した?」

しょんぼりと肩を落とす花音に、淳は今度こそ驚いて問い返す。

「幻滅? なんで?」
「…だって」

花音は言いにくそうに目を逸らしながら、小さな声でぼそぼそと説明した。

「だって、大事な幼馴染みがこんな女に引っかかっちゃったら、友達としては面白くないんじゃないかと思って…。天然な、可愛い、計算できない女の子じゃなくてがっかりしたかなって…」

淳は目を丸くして、それから思い切り吹き出した。彼にしてはとても珍しい反応だ。

「ちょ、あっちゃん!」
「…ごめん、あのね、花音があんまりおかしいこと言うから」
「おかしい!?」
「うん、まあその…うん。大丈夫、幻滅なんかしないよ。むしろ安心したよ。花音もサエも、可愛いよね」

クスクス笑いながら、淳は花音の頭を撫でた。心の中で、さっきのサエの代わりに、とこっそり思う。淳に優しく髪を撫でられても、花音は別に泣くこともなく駄目になることもない。何故なら、自分は木更津淳で、佐伯ではないからだ。

「…あっちゃん?」

不思議そうに自分を見上げる瞳を受け止めて、淳は「うん」と笑った。

「行こっか、花音。剣太郎を探しに」





「──あっちゃん?」

目的だった筈の駄菓子屋の前を、淳は素通りした。

「ごめん。駄菓子屋のおばあちゃん、一昨日から東京の息子さんとこに遊びに行っちゃってて留守なんだよね」
「ええ!?」

花音は目を丸くする。
夕陽は既に沈んで、濃紺の空にチカチカと星が瞬き始めていた。街灯の少ない通りはとても暗い。

「実はちょっと心当たりがあって。もしかしたら見当違いかもしれないけど。花音はオジイの家で待っててくれる?」

淳の足は海の方向へ向かっている。花音は一瞬迷って、その後を追いかけた。淳は少しだけ眉を上げたが、特に止めようとする素振りは見せなかった。

「いいの? サエに焼肉頼まれてたんじゃないの」
「こーちゃんが焼肉食べたい訳じゃないもん。剣ちゃんが見つからなかったら意味ない」

きっぱりと言い切った花音の返事に、「そうだね」と淳は唇の端を引き上げる。

「でも、花音を夜の海に連れだしたって分かったら僕がサエに殴られるかもね」

花音は驚いて淳の顔を見た。

「そういえば、こーちゃん以外と夜の海に行くのって初めて」
「ほらね。やっぱり僕の命はないな」
「や、そういう面白い展開には絶対ならないから…」
「…僕がサエに殴られるのが面白い展開か。花音もなかなか言うよね」
「や、そういう意味じゃなくて。っていうかこーちゃんが誰かを殴るとかないよね」

海へ続く坂道を下りながら、淳はちらりと笑った。

「小さい頃にね。…って言ってもサエが転校して来てからだから、3年生か4年生の頃かな。あいつも取っ組み合いのケンカしたことあるよ」
「ええっ!? ほんとに!?」
「ほんとほんと。しかも年上の上級生相手にさ」
「えー!?」
「きっかけはもう忘れちゃったけど、公園の遊具をどっちが先に使うかとか、多分そんな些細なこと。俺たちと、その上級生のグループが揉めて、食ってかかった剣太郎がそいつに突き飛ばされて。あいつ、びっくりするほど飛ばされちゃって、木にぶつかっておでこから血が出ちゃったんだよね。そしたらそれまで黙ってたサエが、急に相手に殴りかかってさ。俺たちも驚いたし相手も驚いたし。何しろ物凄い体格差だったし、サエってどう見てもケンカが強そうには見えないじゃん。バネは自分もかかっていこうとしてたくせに慌てて止めるし、ダビデなんか泣き出しちゃうし、亮も聡も樹っちゃんもぽかーんとしちゃってさあ。…でも結局、俺たち全員で取っ組み合いの大ゲンカになったんだっけ。もうみんな傷だらけの泥だらけ」

懐かしむように目を細めながら語る淳の口調は穏やかだが、その内容はなかなかに物騒だ。女子校育ちの花音は「男の子って…」と呆れ顔をする。そういうことは幼稚園生くらいの子どもがやることではないのだろうか。小学生になってまでやることだろうか。

「でもね、最後は俺たちが勝ったんだ。まあほとんどはバネのお陰だけど、僕と亮の輪ゴム攻撃も結構効いたと思うよね」
「……輪ゴム……あ、そう……」
「ダビデの噛みつきもなかなかだったよ。聡は鼻血出してたけど」
「……」
「でも意外なことにサエもかなり強かったんだ。殴り方が、なんかピンポイントなの。急所を突くっていうか。で、相手もちょっとびびったんだよね。こりゃ素人じゃないぞみたいな。後で聞いたらさ、東京にいた時に痴漢撃退用の護身術講座にお姉さんに付き合わされて参加したことがあったんだって。笑っちゃったよ」
「ち、ちかんげきたい…」

淳は花音が微妙な表情をしている事に気付いてくすりと笑った。

「まあ、安心しなよ。サエが暴力をふるったのはその時だけだから。暴力っていうか、まあ、やんちゃだよね」
「やんちゃ…うん、やんちゃ…そうだね」
「あの後は拳じゃなく言葉の暴力で相手を叩き潰す方向にシフトチェンジしてったね。あの笑顔でさ、理路整然と」
「……あー…」
「昔からさ。サエが怒るのはいつだって自分の為じゃなく仲間の為だった」


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