おさななじみ





ずしゃ、ぺっしょん。

およそ人間が転ぶ時の効果音としてはふさわしくない(と、黒羽には思われる)音がした。
しかし、これは紛れもなく人間が転んだ音だ。この夏からこっち、何度も聞いてきた黒羽にはもはや馴染みの効果音である。
「またか」と呆れた溜め息をつく黒羽は、オジイの家の居間で、天井すれすれに巨大なクリスマスツリーの飾り付けをしているところだった。
高い部分の飾り付けをするために乗っている脚立の上から、音の発生源と思われる台所の方を振り返る。大丈夫か、と声をかけようとしたところに。

「…いったぁ」

微かに呻く声が聞こえてきて、黒羽は慌てて脚立から飛び降りた。

「花音!?」
「…え? バネちゃん?」

ものの数秒で台所に駆け込んだ黒羽を、土間に這いつくばった花音がきょとんと見上げてくる。

「おっ前! 何やってんだよ!」
「え、あ、ちょっと躓いちゃって」
「怪我したのか? 見せてみろ」
「え。わっ」

黒羽は花音の返事を待たずに隣にしゃがみこみ、「悪い」と一言だけかけると、膝を押さえる手を強引にどけて花音のスカートを捲りあげた。

「…こりゃまた派手にやったなー…」

広範囲に擦りむけて血が滲んでいる膝を見て、黒羽がやれやれと溜め息をつく。花音はばつの悪そうな顔をした。

「花音お前な、なんでそう毎回毎回何もない所で転べるんだ? ある意味器用だぞそれ」
「なっ、何もなくない! お勝手の段差に躓いたんだよ」

花音が赤くなって反論してくるが、彼女の言う勝手口の段差とは、ほんの数ミリにもならないわずかな土の凹凸だ。黒羽は呆れつつも、むきになる彼女がおかしくて笑ってしまった。

「はいはい。じゃ、手当てしような」
「え、いいよ、自分でできるよ」
「いいからそのままにしてな。花音、もう少し気をつけねーと、あちこちに痕残るぞ。俺らは別にいいけど、お前は女なんだからそういうの困んだろ」
「……」

黙り込んでしまった花音の頭をぽんぽんと撫でてやる。
同い年だが、黒羽にとって彼女はいつの間にか妹のような存在になっていた。

「あーあ、こっちまで擦りむけてんじゃんか。お前一体どういう転び方したんだよ」

膝の裏側から内腿にかけても擦り傷を見つけて、黒羽が花音の脚を持ち上げた。花音が「わっ」と慌てた声を出す。

「バネちゃん! いいから! 自分でやるから大丈夫!」
「っつったって、こんなとこ自分ではできねーじゃん。いーからおとなしくしてな」
「大丈夫自分でできるってば。そこまでしてくれなくてもほんとに…………こーちゃん」
「そうそう、サエがいねーんだから仕方ねーだろ。俺で我慢しとけ。今救急箱持ってくるから……って、え?」

花音の口から突然飛び出した友人の名前に、黒羽はぱちぱちと目を瞬かせた。次いで、花音の視線の先を追ってゆっくりと振り返る。何故か冷や汗が出た。

「……何やってんの、バネ」

勝手口の前でにっこりと微笑んでいるのは佐伯だ。顔は笑っているが目が笑っていない。
佐伯の隣では、大きく膨らんだエコバッグをふたつも抱えた天根が、口をあんぐりと開けてこちらを凝視していた。

…ええと。今の自分たちの状況は。
黒羽は乾いた笑いを顔に張り付かせながら、改めて現状を把握しようと努めた。

台所の土間にぺたりと座りこんでいる花音。そのスカートはきわどいところまで捲れあがっていて、彼女の膝を持ち上げている男。ていうか俺。

「っ! サエ! 違うぞ! ぜってー違うから! お前誤解すんなよ!?」

自分たちが客観的にどう見えるかを理解した途端、黒羽は真っ赤になって叫んだ。
表面だけの笑顔すらあっさり消し去った佐伯が、「誤解って何を」と無表情で突っ込む。余計に怖かった。天根の呆れたような眼差しもとても痛い。

「…ぷっ、あははは!」

状況を変えたのは、花音の楽しげな笑い声だった。
呆気にとられる黒羽の前で、スカートの奥が丸見えになるのも構わず脚をじたばたさせながら、お腹を抱えて大笑いしている。はっきり言って、その姿に色気など0,1パーセントたりともなかった。樹の小さい妹がパンツ丸出しではしゃぐのと何の変わりもない。

「あははははは、おかしい…! バネちゃんおもしろい…!」
「な…っ、何笑ってんだ! ていうか消毒! 消毒すっから、サエ救急箱…じゃない、ここ代われ!」

こんなガキ同士で彼氏とか彼女とかわっかんねえと思うが、とにかく彼氏が来たならわざわざ自分が花音の脚を触り続けている道理はない。黒羽は乱暴に佐伯を呼びつけ、花音の膝を見て目を瞠る彼に構わず彼女を任せ、自分で救急箱を取りに行く為に立ち上がり居間に向かった。

居間で、定位置である棚の上の救急箱を下ろしていると、天根がやって来て襖を閉めた。
すぐに台所に引き返すつもりだった黒羽は眉を顰める。

「おいダビデ、なんで閉めんだよ」
「…ちょっと、待った方がいいから」
「はあ?」

天根は黒羽に構わず、膨らんだエコバッグを居間のテーブルにおいた。どさりと重い音がして、袋の口からネギやら大根やらりんごやらが顔を覗かせる。

「バネさん、りんご食べよう」

天根は袋から零れ落ちたりんごを手にとって、黒羽に差し出した。思わず「ああ、サンキュ」と受け取ってしまってから、黒羽ははっと我に返る。

「じゃねえだろ! だからお前も見ただろ、花音がまた何もねえところですっ転んで怪我したから、救急箱持ってってやらねえと…」
「うん、見た。また今回も派手にやったよね」
「だろ!」
「うん。でも、今はちょっと。りんごひとつ食べてから持ってくくらいがいいと思う」

顔の下半分をマフラーに埋めている天根の表情は読み難い。
それでも、幼いころから兄弟のように育ってきた黒羽には、天根の言いたい事が少し見えてきた。

「……サエ?」

短く、友人の名前だけを口にすると、天根が即座にこくりと頷く。
黒羽は大きく溜め息をついて、天根から渡された赤いりんごに噛みついた。広がる酸味と甘み。

「お説教タイムってやつか」
「…うぃ。よくわかんないけど、多分、そんなかんじ?」
「なんだそりゃ。言っとくが、俺は食うの早いかんな」
「知ってる。だからちょうどいいかなって。あんまり長くほっといても、それはそれでまずそうな気が」
「お前は一体何を言ってんだ」

突っ込みつつも、天根の言いたい事は黒羽にも分かる気がしていた。不本意ながら。
ずっと一緒にじゃれあいながら育ってきた彼らの幼馴染みは、最近少し変わった。自分たちより一足先に大人になろうとしている彼も、夏から新しく加わってすっかり自分たちに溶け込んでいる彼女も、同じように大切で、微笑ましくて、そしてほんの少しだけ心配だ。

「…無理して大人になる必要ねえのにな」

しゃり、とりんごを齧りながら黒羽が呟くと、天根はぐるぐる巻きのマフラーを外しながら「うぃ」と頷いた。

「でも、無理してるわけでもない、気がする。特にサエさん」
「まーあいつ昔からちょっと大人っぽくはあったけどさ」
「変わったよね、最近。あのふたり」
「変わったってどんな」

黒羽の問いに天根はうーむと考え込み、ぽすんと手を叩いた。

「熟年夫婦。みたいな」
「──はぁ!?」
「うちのじいちゃんばあちゃんの関係にそっくりなかんじ、する。前は見ててちょっとハラハラしたけど、今はほっといても平気なかんじ」
「あー……」

言われてみれば、確かに。あまりといえばあまりな言われ方だが、妙にしっくりくる例えに黒羽は得意の突っ込みを出せなかった。

石油ストーブの上のやかんが、しゅんしゅんと音を立てて湯気を吐き出す。
台所方面は妙に静まり返っていて、佐伯のお説教も花音の言い訳も聞こえてこなかった。

りんごの最後の一欠片を飲み下して、「よし!」と黒羽は立ち上がる。

「もう行くからな!」

何に対してか分からないが宣言して救急箱を持ち上げると、天根も「うぃ」と頷いてついてきた。
…ちょっとほっとした自分が空しい。



「サエ! 救急箱持ってき…」

台所に足を踏み入れながらの黒羽の台詞は、途中で敢え無く途切れる事となった。
黒羽の肩越しに覗き込んだ天根が「…あれまあ」と低く呟く。黒羽は思い切り固まっていた。

佐伯と花音は、先程と同じ場所にいた。つまり土間に。
そして先程黒羽がしていたのと同じように、佐伯が花音の脚を持ち上げていて。けれど先程と完全に違う点は、屈みこんだ佐伯が彼女の膝裏に口をつけていた事だ。

「っ、バネちゃん」

赤くなったのは花音だけで、佐伯は慌てた様子もなくゆっくりと顔を上げた。

「ああバネ、ありがと。傷、見た目ほど深くないから、消毒と絆創膏だけで大丈夫そうだよ」

口元についた血をぺろりと舐めて笑う佐伯に、黒羽は眩暈を感じた。
なんだこれ。誰だこいつ。

改めて見れば、顔を赤くして目を逸らす花音も、先程自分といた時とは全く違って見えた。全然、樹の小さい妹と同じようには見えなかった。

無理して大人になる必要なんか、ない。けれど。
無理しなくても大人にはなってしまう。なぜかそんなふうに感じた。

「バネちゃんごめんね、今度からちゃんと気をつけるから」

ついさっきとはうって変わってしおらしく謝ってくる花音に、黒羽は深々と息を吐き出して、心の底から答えた。

「…ああ、ぜひそうしてくれ。マジで。頼むから」

佐伯と天根が揃ってぶっと噴き出す。この野郎と思いつつ、黒羽もまた笑い出していた。


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