冬の迷子





海に手を浸し、掬いあげてみる。

「つめた…」

指の間をすり抜けていく水はとても冷たくて、指を凍えさせた。
吹きつける乾いた風も、身を切るように冷たい。
季節はもう、もうすっかり冬だ。

花音は凍える指を握りしめて立ち上がった。冷たい風がスカートの裾を翻らせて、体の芯まで冷やしていく。
ついさっき母から聞かされた話は、おとぎ話のように現実感を伴わず、ふわふわと頭の周りを漂っている。しっかりしなくてはと思うのに、受け止めることが怖くて。寒い。

「…大丈夫?」

ふいに、温かい温度の優しい声が頭のすぐ上から降ってきた。
はっとして顔を上げるより早く、彼の手が、海水で冷たくなった花音の手を包みこんだ。強張って握りしめていた指をゆっくりと解いて、体温を分けてくれる肉刺だらけの掌。

「こーちゃん」

この海で彼と出会った。
今とは全然違う、眩しい夏の朝に。

いつから好きになって、どうして好きになったのか、どうして好きになってくれたのか、もうわからない。忘れてしまったわけではなくて、きっと一生言葉で説明することなんてできない。

「こーちゃん」

そういえば、初めて会ったとき、彼はこの呼び名に戸惑って苦笑していた。
そんなことを思い出した。

「花音、大丈夫?」

心配そうな目の色で同じ台詞を繰り返す佐伯に、花音はしっかりと頷いた。大丈夫。

「うん、もう大丈夫」
「無理しなくてもいいんだよ」
「無理してない。ていうか、こーちゃんの前で無理ってできない。自分を作ることとか、こーちゃんの前では意味なくなっちゃう。…だからいつも、みっともないとこ見せて恥ずかしいんだけど」

佐伯は花音の言葉に少しだけ目を丸くして、照れたように笑った。

「そっか。それは嬉しいな」
「嬉しいの?」
「うん」

繋いだ手を揺らして、佐伯は「行こうか」と花音を波打ち際から遠ざけた。砂浜に、ぽつぽつとふたり分の足跡が残って行く。

「でも私は少し悔しいよ」
「悔しいの? どうして?」
「だって、私ばっかり甘えてるみたいで。私だってこーちゃんの情けないところとか、かっこ悪い顔とか見たいのに、こーちゃんはいつもかっこよくてずるい」
「…そっか」

佐伯は複雑な笑い方をした。打ち寄せる波の音。

「俺は、花音の前だといつも余裕なくて、かっこ悪いとこ晒してるって思うけど」
「こーちゃんはいつもそう言うね」
「だって本当のことだから」

そんなことないのにと花音は笑う。けれど嬉しくもあった。

素顔を晒してくれるのは、うれしい。自分がありのままの素顔でいられるのも、恥ずかしいけれどしあわせなことだ。お互いがそういう存在でいられることがうれしい。

好きなひとが、自分を好きになってくれたこと。今も好きでいてくれること。
それを、一瞬でも当たり前のことだと思ったりはしない。この気持ちは一生大切にする。

「こーちゃん」

足を止めて振り返って、自分の台詞の続きをただ待っていてくれる佐伯の頬は、冷たい風に晒されて白かった。あたためたいと思う。今、彼が自分の手を温めていてくれるように。

「おうちに帰ろう。おこた入って、あったかいお汁粉飲もう」
「お汁粉か。いいね」
「白玉も作ってあるの。かぼちゃのと、プレーンの」
「はは、旨そう」
「美味しいよきっと。ママに教わったやつだから」

笑う佐伯の腕にぎゅっとしがみつくと、反対に全身を抱きしめられた。波の音が大きく響く。

「花音、大丈夫?」

優しい声でもう一度問われる。頷くこともできないほどきつく抱きしめられていたので、花音は目を閉じて「うん」としっかりした声で答えた。

「だいじょうぶ。本当は、さっきまでは大丈夫じゃなかった、けど」
「うん」
「こーちゃんが来てくれたから。こーちゃんがいてくれたら私は大丈夫になるの。だから平気。ありがとう」
「…そっか」

母から聞かされた話がばらばらの断片となって頭の周りでふわふわと寄る辺なく漂って、茫洋とした世界で頼りない迷子になっているような感覚は、消えていた。もう寒くない、と思う。

「話を聞いてくれる? 私のことと、ママのこと」

佐伯がゆっくりと腕の力を緩めた。
母の病院を訪ねた後、海で待ち合わせて。花音の顔を一目見たときから、病院で何かあったことに佐伯は気付いていたのだろう。その聡さには感心するし、何も言わなくても分かってくれるところにひどく救われてもいる。けれど、だからといって伝える努力を怠っていい事にはならないと花音は思った。大切にするというのはそういうことだ。楽な方向に逃げないこと。
このひとを好きなことも、このひとが好きでいてくれることも、当たり前のことではないから。想い合う気持ちの上に胡坐をかいてしまったら、この幼い恋なんか簡単に吹き飛んで消え去ってしまうと知っているから。

本当に無理していないか、真意を確かめるように真っ直ぐに見詰めてくる心配そうな目に向かって、花音はしっかりと頷いた。

「こーちゃんに知っといてもらいたいの」

じっと目を合わせて花音の視線を受け止めて、佐伯はふわりと笑った。

「そっか。俺は、花音のことならなんでも知りたいよ」

でも、と佐伯は声の調子を明るく変える。

「オジイの家で、お汁粉もらいながらでもいい? ここは寒すぎるから」

花音はぷっと噴き出した。
寒すぎると言いながら、佐伯の手は今も花音の手を温め続けていて。彼が本当に心配しているのは自分のことだと十分わかっていたので。

「いいよ。あったかくして、話そ。その方がいい話だから」

手を繋いで、ひと気のない冬の海岸を後にする。

冬の海は冷たいのに、あたたかくて大好きだと思った。



「ママの治療がね、今日で終わったの」
「…そっか」

花音の母の病状に関して、日頃から話を聞いていたし、時には病院へ同行して一緒に見舞うこともあった佐伯は、花音の言葉の意味を正確に理解した。
治療の終了。その言葉が表すのは患者の回復ではなく。

「これからは苦痛を和らげる処置だけするの。今日、オジイちゃんと、お医者さんの話聞いてきた」
「…うん」
「春までは、なんとか持つかもって」
「花音、本当に大丈夫?」

オジイの家の居間で炬燵に入りながら、空っぽになったお汁粉のお椀を前に佐伯が尚も心配そうな顔をして、花音はおかしくなって笑った。

「もう、こーちゃんはそればっかり。大丈夫じゃないかどうか、見たらわかるでしょ」
「…と思う、けど。でも俺の自惚れかもしれないし」
「なんで変なところで自信ないのかなあこーちゃんは! 普段有り得ないほど気障なくせに!」
「…俺、普段、有り得ないほど気障なんだ?」
「えっ、自覚なかったの?」
「……」

地味にショックを受けたらしい佐伯のお椀に、花音は容赦なく二杯目のお汁粉を流しこむ。

「ちょ、花音、それ多すぎ」
「作りすぎちゃったんだもん。ノルマ三杯ね! オジイちゃんも三杯食べて部活行ったよ」
「……オジイ……」

口では呻きながらも素直に箸を持ち上げる佐伯。花音はくすくすと笑った。
この話は、あたたかい甘いものを食べながら聞いてもらうくらいがちょうどいい。
自分もお椀に口をつけて、とろりと熱いお汁粉で体の中を温めながら、花音は話の続きを始めた。


──私には、ママしか家族がいなくて。ずっとふたりきりで。
山の家で、子どもふたりでおままごとしてるみたいに暮らしてて楽しかったから、その理由を聞いたこともなかった。
けどママがいっちゃうのが分かって、私がひとりになることがわかったから、ママがやっと自分と私のこと話してくれたの。初めて。もうほんと勝手だよね。
私のママは、自分の生まれた家庭とうまく行ってなくて、十代で家出してそれっきりなんだって。びっくり。あののほほーんとした人が、元家出少女だって。やんきーだよ? 人って分からないものだよねえ。
でね、家出してた時に助けてくれたのがオジイちゃんなんだって。ママもしばらくここに住んでたんだって。オジイちゃん、親戚でもないのにどうして私を預かってくれるんだろうって不思議だったけど、そういう繋がりだったの。
ママはここにいる時に、避暑に来てた別荘の男の人と海で会って恋に落ちて、あっさり妊娠しちゃったんだって。呆れるでしょ? それが私なの。もう笑っちゃったよ。
私のパパにあたる人はどこかのお金持ちの御曹司さんで、奥さんもいて、だからママは愛人。パパは奥さんと別れてママと結婚するつもりだったってママは言うけど、どうなのかなあ。それはもうわかんないの。私がママのお腹の中にいる時にパパは急な病気で死んじゃって、それから二時間ドラマみたいなドロドロのやり取りの後で、ママは山の別荘とお金をもらってパパの親族との縁を切ったんだって。切ってやったのよ、とか言ってたど、切られたの間違いだよねえ。
で、ママが山の家で、ハーブとか作りながら、ひらひらしたお洋服着て、なんか絵本みたいなふわふわした暮らししてた謎がやっと解けた。お金あったから働かなくてもよかったのね。今まで考えもしなかった私も私だけど。
そんなわけで、ママが死んだら私には頼れる親戚が誰もいないから、お金の話とか、今日してきたの。なんかくらくらしたけど、仕方ないよね。ママはもうすっかりパパのところに行くつもりで楽な気分になっちゃってるし、私はこれからもちゃんと生きていかなきゃいけないんだからしっかりしないと。そしたらオジイちゃんが…。


「──オジイが?」

それまで黙って話を聞いていた佐伯が、馴染んだ単語に反応して訊き返した。花音はほにゃりと笑って頷く。

「そう、オジイちゃんが。私のこと家族って言ってくれた。正式に引き取って、成人まで責任持ちたいって」
「え…」
「私、ずっとここにいていいんだって」
「……」
「長野の学校の退学の手続き、してきた。私、春からはみんなと一緒に六角中に行くの。ここから」

静かであたたかな部屋の中。
佐伯の見開いた目の中に、ふにゃふにゃに崩れた顔の自分が映っている。しっかりしないといけないのになんでこんな変な顔してるんだろう、と花音はおかしく思った。

「…ごめん、花音、俺」

まだ呆然とした表情のまま、少し掠れた声で佐伯が口を開いて、花音は「うん」と答えた。
きっと、同じことを考えている。

「…ごめん。俺今喜んでる。ごめん」
「こーちゃん」

花音は炬燵の上に身を乗り出して、俯く茶色い頭を抱きしめた。さらさらの髪に顔を埋めるようにしながら、大丈夫だいじょうぶ、と何度も繰り返す。自分に言い聞かせる呪文のように。

「かなしいのと、うれしいのと、一緒になったっていいじゃない。おかしくないよ。謝ることないよ。だって私も同じだから。いろんなことで頭がいっぱいになってるけど、一番つよいのは、うれしい気持ち。ひどいよね」

下を向いたままぷるぷると横に振られる佐伯の頭に少し笑う。

「…ママは、もうずっと、パパを好きで。現実から逃げて、半分夢の世界で生きてきたみたいな人で。私の為に今まで頑張ってくれてたの。もう解放してあげないとって思うの。…私はもう大丈夫だから、行きたくて仕方ないパパのところに、行かせてあげないと」
「…花音」

ちいさく震える佐伯の頭を優しく抱きながら、「なあに?」と答える自分の声も震えていた。

「…君は、すごくつよい女の子だけど。自分で言うほど大丈夫じゃないよ。分かってる?」
「うん、わかってる」
「分かってないよ。多分、全然、分かってない」
「ふふ。ひどいなあ」
「でも…俺がいたら大丈夫になるって、さっき君は言ったよね」
「うん、言った」
「だったら」
「うん」

花音は目を閉じて、佐伯の言葉に全身で耳を傾けた。
彼の声で、ぐちゃぐちゃの心が静かに凪いでいく。海のように。

「ずっと傍にいる、俺が。花音が大丈夫なように」

…男の子が泣くのを見るのは初めてで。
見たらいけないような気がして、だから目を閉じたままで花音は頷いた。

「うん。…ありがとう」


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