晩秋の浮かない心
朝、起きた時の空気が、日に日に冷たくなっていくのを感じる。
きゅ、と蛇口の栓を捻って水を止めて、花音は濡れた顔を上げた。
まだ薄暗い洗面所の、飾り気のない鏡に映る顔はぼんやりとして覇気がない。寝不足の瞼は重く腫れていた。
──だめだ、こんなんじゃ。
花音は鏡の中の自分を睨みつけると、もう一度蛇口を捻って冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗った。そのまま、ぴしゃぴしゃと両手でほっぺたを叩く。
今日だけは、ぴしっとしていたかった。
六角第三小学校には、秋の文化発表会という行事がある。
合唱や演劇など、クラスや個人有志の出し物をするというささやかな行事ではあるが、一昨年に運動会が秋から春に変更されてからは、秋の一番大きなイベントということで学校全体が気合いを入れている。父兄や近所の人など外部の者も観覧できるとあって、ちょっとしたお祭りのようなものだった。
花音がその行事の開催を知ったのは、ほんの三日前の事だった。
みんなの会話の流れでなんとなくその話題が出て、佐伯のクラスが『白雪姫』の劇をやるという事が分かった。
「え。なんで教えてくれなかったの!?」
当然花音は憤慨したが、佐伯は物凄く気まずそうな顔をして目を逸らし、「…だって、教えたら絶対見に来るじゃん」とぼそぼそと呟いた。
「あたりまえでしょ!」
「…………」
黙り込む佐伯に、同じ学校に通う樹が苦笑する。
「サエは照れてるだけなのね。なにしろ今年サエは」
「樹っちゃん!」
「サエさんまた王子様役なの!? 凄い! ますますモテモテだね!」
佐伯の声と葵の声が重なった。佐伯は額を押さえてがくりと項垂れる。
「王子様…?」
ぱちぱと瞬きをする花音に、黒羽が笑いながら教えてくれた。
「サエは去年も王子様役だったんだぜー。去年は確かシンデレラだっけ?」
「毎年毎年、よくそんなベタなチョイスをするよね…クスクス」
「あれ。でも…白雪姫って、キスシーンあるよね」
葵が無邪気に放った一言で、その場はしーんと静まり返った。
「サエさん凄いなあ! ね、お姫様役の子、可愛い?」
「…………」
「平日だから見に行けないんだよね、残念! サエさん、今年もお姉さんがビデオ撮ってくれるんでしょ? 後で見せてね!」
なおも無邪気に言い募る葵に、佐伯はうんざりした目を向けて「駄目」ときっぱり答えた。
「ええーっ、なんでーっ!?」
「なんでも駄目。…今年は、姉さんも大学休めない日だし、親も仕事で誰も来ないから。ビデオなんてないよ。…っていうか、見たって面白いことなんかないし」
「そんな事ないよ、おもしろいよ! 去年のビデオのサエさん超かっこよかったじゃん! 女の子にキャーキャー言われてさ」
「…駄目なものは駄目」
花音は、自分は今どんな表情をしているのだろうかと考えていた。あまり変な顔じゃなければいいと思う。
葵をあしらう佐伯に「ねえ、こーちゃん」と声をかけると、佐伯はなぜかびくりと肩を揺らして振り返った。
「…なに、花音」
「それ、いつ?」
「え?」
「だから、その発表会。いつなの?」
「…三日後だけど」
「わかった」
花音が頷くと、佐伯は「え」と目を丸くした。
「わかったって、花音」
「見に行く」
「見に…って…ええ!? 駄目だよ花音、学校あるだろ!」
「フリースクールだもん。大丈夫」
「大丈夫って…」
困ったように瞳を揺らす佐伯に、花音はにっこりと笑って見せた。けれども成功していたかどうかはあやしい。佐伯は、ますます困ったような複雑な顔をしたから。
何か言いたそうな顔で心配そうに二人を見る樹と、触らぬ神に祟りなしとばかりに目を逸らす他の面々の中で、葵だけが無邪気に「いいなあ、僕も見たい!」と叫んでいた。
そして、今日がその文化発表会の当日。
ふたりの間でほとんど日課のようになっていた夕方の海辺の散策も、この三日間はしていなかった。
花音から「海に行きたい」とメールを送らなければ、こんなにも簡単にあっさり途絶えてしまう習慣。昨日は佐伯の方から「行かない?」とメールがあったけれど、花音は「劇の練習で疲れてるでしょ。楽しみにしてるからゆっくり休んでね」と返してしまった。返してから、あまりの可愛くなさに自分でひどく落ち込んだ。
…疲れているときこそ海に行きたい。海を見て波の音を聞きたい。花音も佐伯もそう思っていることくらい、わかっていたのに。
顔を洗い直して、花音は鏡の中の自分をもう一度見る。冷たい水で頬が赤くなってみっともないと思った。
──たかがお芝居、真似だけのキス。分かっているけれど。
サエは去年も王子様役だった、という黒羽の言葉が、驚くほど胸に引っかかっていた。
シンデレラの王子様。次いで、白雪姫の王子様。
毎年王子様役に抜擢される小学生男子なんて、そうそういるとは思えない。あの容姿と性格で佐伯がもてる事は予想していたつもりだったけれど、改めて学校での彼の人気の高さを思い知らされた気分だった。
小学校。生活の大半を占めるその場所での佐伯を、花音は知らない。
そして王子様には、当然相手役のお姫様がいるはずで。
「……だから、なんでこんなことで」
鏡の中の、みっともない赤い頬をした女の子の眉がへにゃりと下がる。ますますみっともない顔になる。
些細な事で、簡単に心が塞いでしまう事。驚くほどに揺れて、持て余してしまう感情。
そんなものは漫画やドラマの中だけのものだとずっと思っていた。
恋をするというのは、誰かと想いを通わせるという事は、もっとずっと、毎日が華やかに輝くような事だと思っていた。
花音は自分の事を天然だとは全く思わないが、佐伯にはよく指摘される。
『花音はほんとに天然だなあ。そこが可愛いんだけどね』
大切な宝物を見るような目をして笑った佐伯の顔を思い出して、花音は深々と溜め息をついた。
ごめんね。全然、天然じゃない。
今、胸に渦巻いてるもやもやしている気持ち。認めたくないけれど、自分でその名前をもう知っている。これは嫉妬だ。
「…私、今、すごくぶさいく」
可愛くなんかないと思った。
逃げてしまいたい気持ちもあったけれど、行くと宣言してしまった以上は行くしかない。
花音はなんとか支度を整え、時間通り、発表会が始まる9時には六角第三小学校に来て、会場である体育館に並べられたパイプ椅子のひとつに座っていた。
自由な校風なのか児童席と来賓席の区切りがなく、児童も、外から見に来ている大人たちもごちゃまぜに好きな席に座っていたので、花音のような子どもがひとりでいても浮かずに済んで少しほっとした。傍から見れば花音もこの学校の生徒のように見えるだろう。
ざわざわとした雰囲気の中で、受付で渡されたパンフレットを開く。
佐伯のクラス、6年2組の『白雪姫』は全体の真ん中辺りの順番だった。もっとゆっくり来てもよかったかなあと思いながらパンフレットを閉じたとき、ぎしりと音を立てて隣の椅子に誰かが座った。他にも空席がたくさんあるのに、と目を上げて、花音はぴしりと固まった。
「…こ……」
「おはよ、花音」
隣の椅子に座って、にこにことこちらを覗き込んでくるのは紛れもなく佐伯で。花音はどもりながら挨拶を返した。
「お、おはよう…」