秋風





「──花音!」

佐伯が真っ直ぐに走って行くと、花音は始め驚いたような顔をして、それから笑顔になって佐伯を迎えた。

「おかえりなさい、こーちゃん」
「どうしたの? 今日は」
「どうしたのって…」

花音は視線を逸らして「…会いたかったから」と、まるで言い訳をしているかのような小さな声で言いにくそうに呟いた。

…佐伯は、抱きしめたい衝動を必死で抑えた。
最近は、急に抱きしめても抵抗なく受け入れてもらえるようになった(そして黒羽に「いい加減にしろこのバカップル!」と言われる)とはいえ、いくらなんでも通学路では躊躇われる。
──しかも俺、ランドセルしょってるし。

代わりに手を繋いだ。何も言わずにその手を取っても、花音は素直にするりと指を絡めてくる。無意識のうちに捧げられる信頼が嬉しくて、佐伯は今日の疲れが消えていくのを感じた。
大切にしたい、彼女に誠実でありたいと深く思う。

「俺も会いたかったよ」
「…えーと、うん」

花音は視線を逸らしたまま曖昧な答えを返したが、絡められた指にきゅっと力が込められたのが分かって佐伯は笑った。

「海、行こうか」
「えっ」

佐伯の唐突な提案に、花音がきょとんと顔を上げる。

「花音に会ったら海を見たくなったんだ。つきあってくれる?」
「……うん」

花音はまじまじと佐伯の顔を見つめて、ふわりとほどけるように笑って頷いた。





秋の海は、夏よりも深い色をしていると佐伯は思う。
夏の喧騒が去った今、砂浜はひと気がなく、吹き抜ける風が微かに冷たい。

「花音、寒くない?」
「大丈夫。……こーちゃん」

浜に面したコンクリートの階段に座るなり、花音は妙に真剣な目で佐伯を真っ直ぐに見つめた。

「え。な、何…?」

なんとなく身構えながら問い返した佐伯に、花音が勢いよくぺこりと頭を下げる。佐伯はぎょっとして硬直した。

「お誕生日おめでとうございますっ!!」

「…………え…?」

耳に飛び込んできたのはあっけないくらい単純な、今日何度も聞いた言葉で。
佐伯はぽかんとして、頭を下げたままの花音の頭頂部を見返した。

「こーちゃんが生まれてきてくれてよかった。今一緒にいられることがすごくしあわせです。12歳、おめでとう」
「…………」
「…そ、れと…。大好きです。これからも一緒にいて下さい」
「…………」
「…これを言いたくて、今日は帰り道で待ってたの。ごめんね」
「…………」

花音は佐伯に向かって頭を下げたままで、佐伯からその表情を窺う事は出来ない。けれど垂れた髪の隙間から見える小さな耳が真っ赤になっているのはわかった。

…なんというか、いろいろ限界だ、と佐伯は思った。

こんなに可愛過ぎる生き物がこの世にいていいのか、とか。
狙ってやってるんじゃなければ天然砲もここまでくると罪だ、とか。
今ここで押し倒しても神様は許してくれるんじゃないか、とか。
普段冷静沈着な頭の中で、不穏な思考がぐるぐると渦を巻く。とりあえず、今日一日の苦労は報われた気がした。
しかし当然押し倒すことなどはできずに、佐伯はただ項垂れて、「はああああ」と大きな溜め息をつくにとどめた。我ながら素晴らしい自制心だと思う。

「こ、こーちゃん?」

佐伯ががっくりと肩を落としたので、驚いた花音は反対に顔を上げて不安そうに瞬きをした。そして佐伯の顔が真っ赤になっているのを知って目を丸くする。

「こーちゃん…」
「ごめん。なんでもないんだ。大丈夫」
「あの、もしかして……照れてるの?」
「…………てる」
「え?」
「照れてるよっ!」

花音は思い切りびっくりした顔で「うわあ」と一言呟くと、みるみるうちに真っ赤になった。
お互い真っ赤にのぼせた顔で向き合いながら、何と言ったらいいのか分からずに微妙な沈黙が流れる。…ふたりの間を秋の風がぴゅうと吹き抜けていった。

「あ…あのね、困らせようと思った訳じゃなくてね。ただその…今私が思ってる事を伝えたくて」
「…わかってるよ。ありがとう」
「あ、ううん。えっと…。でも照れてるこーちゃんってレアだよねっ。すごく可愛いなっ」
「……花音はさ、俺に泣かされたいのかな?」
「はいぃ!?」

低い声でぼそりと言われて、花音は飛び上がった。

「なっ、なっ、なんで…!?」
「…可愛いとか男が言われても嬉しくないんだよ。ていうか可愛いのは花音だよね。泣かせたくなるくらい可愛いよね」
「だからなんで泣かせ…!?」
「俺、花音のこと好きだから大切にしたいし、花音が泣くのは嫌だけど…。…なんかさ、好きだから苛めたくなるというか…困らせたいっていうか…」
「コドモ! コドモの理屈だ!」
「俺、子どもだもん。小学生だもーん」
「だもーんって…」

花音は本格的に拗ねた佐伯をぽかんと見つめて、それからぶっと噴き出すとお腹を抱えて笑いだした。

「こ、こーちゃんっ……やっぱり可愛いよ…っ」

笑いの発作の合間に息も絶え絶えに言われて、佐伯はまた溜め息をついた。
なぜ彼女の前だと、こうもみっともない自分を晒してしまうのだろう。学校で自分を好きだと言ってきてくれる女の子たちだって、こんな姿を見たら幻滅するに違いない。けれど。

「やだな、こーちゃんますます好きになっちゃった。ほんと大好き」

笑い過ぎで滲んだ涙を拭いながら、花音がさらりと言うから。

「──こら、いい加減笑い過ぎ」

いつまでもむっとしていられなくて、佐伯も顔を崩して花音を抱き寄せた。尚もクスクスと笑いながら、花音が素直に体を寄せてくる。ふわりと甘い匂いがした。

「あれ? 花音、髪に何かついてる」
「え? ゴミ?」

佐伯は目についた小さな黄色いものを指でつまんで、「ああ」と納得したように頷いた。

「金木犀の花だ」
「あ…。スクールの近くで咲いてたの。きれいだなーってずっと見てたから、そのときについちゃったんだ、きっと」
「はは、花音らしい」

夏休みが終わっても花音の母親の入院は続いていて、花音は転校もしないまま、今は近所のフリースクールに通っている。

「金木犀って大好き。秋は海の色も深くなっていく気がしてきれいだし。こーちゃんはきれいな季節に生まれたんだね。…って、バネちゃんもか」

秋は、海の色が深くなる。誰に言っても首を傾げられるだけだった言葉を、花音が当たり前のことのように言うので。佐伯は無性に胸が詰まって、彼女の体に回した腕に力を込めた。

「バネの話は今、いいから」

え、と瞬きをする花音の頬にくちびるを落とすと、白い顔がほわりと赤くなる。そのまま目元、おでこ、とキスをする佐伯を、花音は慌てたように「ストップ!」と叫んで押しのけた。

「…ストップって…俺、犬?」

苦笑する佐伯を置いて花音は立ち上がった。すぐ傍に置いてあったバッグを拾い上げる。

「こーちゃんってほんとに油断できない。お姉ちゃんが言ってた通り」
「……姉さんが、何て?」
「内緒。もう帰るよ! こーちゃんお誕生日なんだからお家でお母さんたち待ってるでしょ。早く帰らないと。オジイちゃんちに寄ってね、プレゼントのケーキあるから」
「え。作ってくれたの!?」

思いがけない花音の台詞に、佐伯は驚いて訊き返した。
なぜなら花音には既に誕生日ケーキをもらっていたからだ。樹と共作ではあったけれど。
昨日、オジイの家で黒羽と佐伯の合同誕生会が催されて、いつものメンバーに祝ってもらったばかりだった。
だから当日の今日、花音がわざわざ改めておめでとうを言いに来てくれただけでも嬉しかったのに。

「…作ったよ。今日のはこーちゃんのお誕生日用に、私ひとりで作ったやつだから。昨日の今日で食べたくないかもしれないけど、甘さ控えめにしてあるから、よかったらお家の人とみんなで食べて」
「何言ってるの、俺ひとりで食べるよ」
「え!? いやだって、ホールだよ、おっきいよ!? 無理無理、お腹壊すから」
「大丈夫。花音が俺だけに作ってくれたものなら、俺が全部食べる」
「え、でもあの…私がケーキ作るってこーちゃんのお姉ちゃんもお母さんも知ってるし、楽しみにしてるねって言ってくれてたから…みんなで」
「…なんで俺の誕生日ケーキを姉さんたちが楽しみにしてるんだよ…。ていうか花音、俺の知らないところで姉さんたちと仲良くし過ぎ…」
「え。ええー…?」

しょんぼりと項垂れてしまった佐伯に、花音は困った顔で首を傾げた。佐伯の落ち込みのツボはまだよくわからない。

「えーと、じゃあ。クリスマスには、こーちゃんだけにケーキ作るよ!」

我ながら変な提案だと思いながら花音が言うと、佐伯がちらりと目を上げた。そして不機嫌な顔のままでぼそりと「…バレンタインも」と呟く。

「バ、バレンタイン!? わかった、じゃあバレンタインもね」
「あと来年の誕生日も」
「…わかった。来年のお誕生日も」
「再来年も、その次の年もずっとだよ」
「……」
「花音。返事は?」

いつの間にかすっかり機嫌を直して──そもそも最初から不機嫌は演技だったのかもしれないが──くすくす笑いながら佐伯が立ち上がり、真っ赤な顔で立ち尽くす花音を抱きしめた。

「返事。聞かせて」

耳元に囁くと、花音がぎゅっと目をつぶったまま無言でこくこくと頷く。赤い頬にちゅっと口づけて、佐伯は花音の体を解放すると代わりにその手を握った。

「じゃあ、帰ろうか。風が冷たくなってきたし」

爽やかな笑顔に、花音は「…やっぱり油断できない」と恨めしそうに呟いた。けれどその手はしっかりと繋がれたままで、佐伯はちいさく笑う。

12歳の誕生日。


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