夜に咲く火の花
「祭り、楽しい?」
出店の並ぶ通りから離れて、神社の反対側へ回りながら佐伯が尋ねる。
花音は大きく頷いた。
「すごく楽しいよ。連れて来てくれてありがとう」
「そっか。よかった」
神社の裏側にもぐるりと祭り提灯が灯されていて、辺りはぼんやりと明るかった。
人混みの喧騒を抜けてもそれなりに人はいて、賑やかな雰囲気には変わりない。ベンチや石段に腰掛けて休んでいる人が多かった。
「ちょっと休憩しよっか」
「うん」
佐伯に促されて、花音は浴衣を汚さないように気を付けながら、空いている石段に腰掛ける。
「わ、ここから海が見えるんだね」
高台になっている神社の裏側からは、夜の海がよく見渡せた。
「花音、足痛くない? 大丈夫?」
「うん全然大丈夫。夜の海もきれいだねー、真っ暗だけど」
「確かめさせてもらってもいいかな」
「へっ?」
何を?と花音が訊き返す間もなく、「ちょっとごめんね」と佐伯が花音の足もとに屈みこんで、足を持ち上げた。
「ひゃっ! ちょっと何してるのこーちゃん!」
慌てる花音を気にも留めず、佐伯は勝手に花音の下駄を脱がせて、足が傷ついていないか調べている。花音は恥ずかしさで泣きたくなった。
「うん、本当に平気みたいだね」
花音って足結構丈夫なんだねー、等と失礼極まりない事をけろりと口にしながら、佐伯は花音の足に元通りに下駄を履かせて立ち上がると隣に腰を下ろした。
「…こーちゃん…こーちゃんさあ…、それセクハラだよ分かってる?」
「あはは。ごめんごめん。花音って気分悪くても限界まで言わないから。心配だったんだよ」
にこりと笑って言われると、花音もぐっと口を噤む他ない。
虎のぬいぐるみを抱きしめて黙り込む花音に、佐伯は優しく微笑みかけた。
「でもセクハラだよね、実際。ごめんね?」
「…いいよ。こーちゃんは優しいし。そういうの、誰にでもやってるんだよね」
「ははっ、それはない」
「嘘だー」
「嘘じゃないよ」
佐伯はふっと笑って花音の耳元に唇を寄せる。
「花音にだけだよ」
花音はびくりと肩を竦ませて、それから、はあーっと深い溜め息をついた。
「あれ? 信じてない?」
「…そうじゃないよ。あのね、こーちゃん」
「うん」
「私、そんなに気が長くないの」
「うん、知ってる」
「気持ちを隠しておくのも苦手だし」
「そうだね。花音って思ってること隠せないよね。そこが可愛いんだけど」
「っ……だから!」
薄化粧の白い頬を赤く染めながら、花音がぬいぐるみから顔を上げて佐伯を見上げた。今にも泣きそうな目をしているのに、正面から真っ直ぐに佐伯を射抜く視線はとても強い。
佐伯は、穏やかな瞳でその視線を受け止めた。
「だから…っ、私ちゃんと言いたい、自分の気持ち。…こーちゃんが聞きたくなくても、自分の中に閉じ込めておくこと、できない。…勝手でごめんなさい」
「…ごめんなさいって…」
先刻あんず飴を口に突っ込まれて「黙って」と懇願された事を気にしてか、律儀にも最初に謝ってきた花音に、佐伯は思わず苦笑する。
「それは俺の台詞。こっちこそ、今日は意地悪してごめんね、花音」
「…やっぱり意地悪してたんだ」
「うん、花音があんまり可愛いからついからかった」
佐伯が素直に白状すると、花音は佐伯をきっと睨んだ。
「…だから、それが意地悪だよ。私がどきどきするの分かってて可愛いとか言うの。私、そういうのこーちゃんみたいにさらっと上手に流せない。いちいち苦しくなるんだから、面白がって言ってるんだったらやめてほしい」
一生懸命な眼差しで、正直な言葉を使って、花音は真っ直ぐに佐伯に伝えてくる。けれど、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる手はちいさく震えていて、彼女が精一杯の勇気を振り絞って話していることが見て取れた。
その弱さと、逃げない視線の強さを、佐伯は好きだと思う。
出会ってから1か月。たった1か月間の彼女しか知らないけれど、自分の知らない彼女のすべてを知りたいと思った。
「…面白がってないよ」
自分でも思いがけないほど低く掠れた声が出た。花音が瞬きをするのが見える。
「俺、花音が言うみたいにさらっと流せてるわけじゃないよ」
「…嘘。だってこーちゃんばっかりいつも余裕で、笑ってるし。…他の、学校の女の子とかにも、きっと同じように言ってるんだよね…?」
言いにくそうに、消えそうな声で呟くと花音は視線を泳がせる。
そんなふうに思われていたのかと佐伯は驚いた。と同時に、花音の真っ直ぐな視線が自分から逸らされた事にひやりとした焦りを感じ、気付いた時にはその衝動のままに花音を抱きしめていた。
「っ! こーちゃんっ!?」
慌てたような花音の声が胸元で聞こえて、佐伯は彼女を抱く腕に力を込める。
「そんなことない。俺、小学生だよ? 女の子に慣れてるわけないじゃん。余裕なんかない。いつもみっともなく必死だよ。…可愛いって思うのも、意地悪してみたくなるのも、すごく、大事にしたいって思ったのも、全部花音が初めてだ」
佐伯の腕の中で、花音がびくりと肩を跳ねさせた。
「花音だけだよ、全部」
佐伯は花音の髪を撫でながらその耳元で囁いて、ゆっくりと腕を緩めた。
息がかかりそうな近い距離で、花音が静かに顔を上げて、真っ直ぐに見上げてくる。既に半分泣き出しているその瞳をしっかりと見返して、佐伯は伝わるようにと願った。
「──君が、好きだよ」
声や、目や、姿勢や。自分の全てを一心に傾けて、この心が伝わるようにと願う。
目の奥の奥まで覗いて、心まで暴いてほしいと思った。そうすれば、稚拙で、未成熟で、それでもどうしようもないほどに真剣なこの気持ちが分かってもらえるだろうから。
「……」
花音がぎゅっと唇を噛んで、涙をこらえる表情をした。目だけは決してそらさずに、佐伯の言葉を受け止める。
「…信じる」
硬い表情を崩さないままで花音がちいさく答えた。
「信じるからね、こーちゃん」
言葉だけでなく、混じり気のない信頼を込めた瞳で真っ直ぐに見つめられて、佐伯は胸を突かれた。
自分でも驚くほどその信頼が嬉しくて、思わず「ありがとう」と笑った。
花音は佐伯の笑顔を見て、ほっと息を吐き出して表情を緩める。途端に、一粒零れ落ちた涙を慌てて隠そうとする仕草がたまらなく可愛いと佐伯は思った。
佐伯が手を伸ばして涙を拭うと、花音はくすぐったそうに少し笑った。
「じゃあ、私ももう言っていいんだよね? 迷惑じゃないんだよね?」
「…うん。ごめんね、どうしても俺から言いたくて」
ふたりは顔を見合わせて、同時にぷっと噴き出した。
「…こーちゃん、おかしい…。自分が先に言いたかったからって、人の口に飴突っ込んだの?」
「あれは…っ、ごめん、花音があんまりストレートだから焦ってつい」
「こーちゃんでも焦ったりするんだ」
「そりゃするよ。焦りまくりだよ。花音は俺をなんだと思ってるの」
「だってこーちゃん、いつも余裕で。私ばっかりどきどきして、ずるいって思うよ」
「ふうん? …でもさ」
笑いながら軽口を交わしていた佐伯が、急に花音の手を取って自分の胸に当てる。花音は目を丸くして、それから、掌から伝わってくる佐伯の心臓の鼓動に顔を赤くした。
「わかる?」
「…うん」
「全然、余裕じゃないよ。めちゃくちゃどきどきしてる、俺だって」
「…うん」
「花音」
赤くなって俯いてしまいそうな花音に、佐伯は笑った。
「聞きたい。聞かせてくれる?」
「…うん」
佐伯の左胸に手を当てたまま、花音はゆっくりと顔を上げて、ふにゃりと崩れるように笑った。心から、油断しきった笑顔で。
「好き。大好き」
その笑顔に引き寄せられるように、気がつけばくちびるを重ねていた。
僅かに触れるだけの、幼いキス。
「……嫌だった?」
顔を離しながら佐伯が訊くと、花音はふにゃりとした笑顔のまま首を振る。
「あのね、しあわせだった」
えへへ、と照れくさそうに言われて、佐伯は堪らなくなってまた抱きしめた。
「大切にする。絶対」
抱きしめられて、花音はくすくすとおかしそうに笑う。
「私も大切にする、こーちゃんのこと」
「…うん」
花音が背伸びをして佐伯の髪を撫でる。
素直に撫でられながら、何故自分が泣きそうになっているんだろうと佐伯は思った。
精一杯交わされた約束は、幼すぎて頼りなく思えた。
「…なんか、魔法みたい」
「え?」
唐突な単語に瞬きをする佐伯に、花音がふわりと笑う。
「こーちゃんのお姉ちゃんが言ってたの、お祭りの夜には魔法が起きるんだって」
「姉さんが…」
あの現実主義の姉がそんなふわついた事を、と佐伯は内心で冷や汗が出る思いだった。どんな裏があって姉がそんな事を言ったのが、うすうす分かるだけに怖い。
「ほんとに魔法が起きたみたい。うれしすぎておかしくなっちゃいそう」
ふにゃりと無邪気な笑顔を晒す花音に、佐伯はわざとむっとした顔を作ってみせた。
「魔法とかじゃないよ。これが夢だったら俺は泣く」
「あはは! 私も! 夢だったらすごくしあわせな夢だけど、目が覚めたら泣く!」
声を上げて花音が笑ったとき、ヒュルヒュルヒュル…と細い音がして、次いで、どおんという大音響と共に、夜空に大輪の花が咲いた。
「わ! 打ち上げ花火! 私こんなに大きいの見るの初めて。すごいすごい!」
花音が飛び上がって喜び、その手に抱かれている間抜けな顔をした虎のぬいぐるみのしっぽがぴょこぴょこと揺れた。
花火は、夜の海を背景に何発も続けて打ち上げられ、辺りは眩しく照らし出された。
ベンチや石段で休憩していた人々からも歓声が上がる。
「ここ、すごく良く見えるね。特等席だねー。だからここに連れてきてくれたんだ! こーちゃんありがとう!」
「…いや、花火はあくまでもついでだったんだけどね…」と呟いた佐伯の声は、新たに上がった花火の爆発音にかき消された。
まあいいか、と思う。花火にはしゃぐ花音が、とても嬉しそうだから。
隣に立ち、手を伸ばしてその掌に触れると、迷いなくするりと、指と指が絡まった。