女の子の気持ち





夏の夜。なまぬるい空気の中、出店の光が闇に鮮やかに浮かび上がって、着飾った人たちが笑いさざめきながら歩き、遠く、近く、いくつもの種類の祭囃子が聞こえてきて。

「夢のなかにいるみたい」

花音はぽつりと呟いた。ずっと繋いだままの手から、隣で佐伯が笑った気配が伝わってくる。

「また酔いそう?」
「へいき」

目は合わせずに答えながら、佐伯の手の温もりが余計に現実感を失わせているのだ、とは言えなかった。

…生まれて初めて自覚した、誰かの特別になりたいという気持ち。
恋と呼ぶには幼すぎるその気持ちが、今夜は全身を支配して足取りまで覚束なくさせている気がした。ふわふわして落ち着かないのは慣れない浴衣や、初めて履いた下駄のせいだけでは絶対にないと花音は思う。

「花音、あんず飴食べる?」
「へっ!?」

物思いに沈んでいたところに急に声を掛けられて、花音は弾かれたように顔を上げた。途端、にっこりと笑顔で自分を見つめる佐伯と目が合って、たちまち顔が熱くなる。

「あんず飴。食べたことない?」
「えっ、あ、うん! 食べたことない!」

慌てて答えると、佐伯は何が嬉しいのか「そっか」とますます笑顔になって頷いた。

「じゃあ買ってくるよ。ちょっと待ってて」
「あ、うん…」

「あんずあめ」の暖簾が踊る出店に向かう佐伯の背中を、花音はぽけっと眺める。
…多分、自分は今とんでもなく真っ赤な顔をしていると思うと、居たたまれなかった。夜で良かったと心から思う。

花音にとって、佐伯はこの海辺の街で初めて出来た大切な友達だった。
大切で、大好きな、特別な友達だった。
距離が近すぎたかもしれないけれど、当たり前のように大好きだと公言して隣にいて、佐伯も花音が隣にいることを自然に受け入れていてくれて、それがとても嬉しかった。
花音の行きたいときに海に付き合ってくれて、泣きたいときには黙って抱きしめてくれて。
…佐伯の優しさに、少し甘え過ぎていたと花音は今思う。

本当は友達ではなく、彼の特別な『彼女』になりたいのだと気付いたのはほんのつい先刻。
気付いたと同時に心は沈んだ。
佐伯は誰にでも優しいから、勘違いしては駄目だと。
きっと異性にもてるであろう彼の、特別な女の子になりたいなんて高望みを抱いては駄目だと。
大切で大好きな友達のままでいいと思おうと、花音は花音なりに一生懸命考えて普通にふるまっていたつもりだった。

──つもりだった、のに。
佐伯の、先刻からの怒涛の攻めは一体。

可愛いねとか優しいのは君にだけだよとか、花音には、はっきり言ってドラマか少女漫画の中の台詞にしか思えない。現実世界でそれを口にする小6男子がいたとは。しかも、さらりと笑顔で、嫌味なほど似合う態度で。…もの凄く優しい表情で。

ついこの前まで、動物の子ども同士みたいにはしゃいで転げまわっていた相手なのに。海ではお互い水着姿で、平気で手とり足とり泳ぎを教えてもらったりしていたのに。
考えると花音の顔はまた熱くなる。今の自分は絶対に茹でダコだ。誰が見ても。

頭を抱えたくなってひとりうろたえる花音に、ドン、と誰かがぶつかった。

「わっ」
「あ、悪いっ!」

後ろから突き飛ばされたかたちになったけれど、咄嗟に差し出された手に捕まえられて、なんとか転ばずに済んだ。花音はほっとして振り返り、慌てて頭を下げる。

「いいえっ! こっちこそぼーっとしてたからごめんなさい」
「いや、俺がよそ見してた。怪我とかない?」

親切に声をかけてくる男は、しかし掴んだままの花音の手をなかなか離してくれない。
花音は「大丈夫です」と繰り返しながら内心かなり困った。…こういうときって、どうすればいいんだろう…。

「よかったー。ねえねえ君ひとり? お詫びに何か奢らせてくれない?」
「へっ…」

これはもしかして世に言うナンパというものだろうか。
花音が固まっているうちに、その男は笑いながら肩を抱いてこようとした。
肩に触れた知らない人間の掌の温度に、花音はなぜかひやりとして、そう感じた自分自身に驚いた。

さっき、佐伯に触れられたときには全く不快感を覚えなかったのに。
むしろ安心して肩の力が抜けたのに。

「……」

佐伯だけが、特別。

誰かを好きになるというのはこういうことなのか、とどこかで目が覚めたように感じた。
それから、いつまでも子どもではいられないということも。

──小学生でも、大人っぽい浴衣を着せてもらってお化粧をしてもらったら、ナンパくらいされてしまうんだ。いつまでもぽやぽやして、危なっかしいままでいたらいけないんだ。しっかりしなくちゃ。

「あの! ごめんなさい、一緒に来てる人いるので」

花音は口元に力を込めてはっきりと強い調子で言って、肩に置かれた手から逃れようとした。

「あ、トモダチ? だったら一緒に連れてきてよ、俺もトモダチいるからさー」

へらりと笑いながら尚も手を離そうとしない男は人が悪いようには見えなかったが、花音はちょっとむかついた。むかついたので、その勢いのまま、これくらい言ってもいいだろうと口を開いた。

「友達じゃないです、「彼氏です」」

……言ってしまってから、台詞の最後の言葉が誰かと被ったような気がして花音は固まった。

気がしただけじゃない、確実に被った。
当然聞かれた。一番聞かれたくない相手に。

なぜなら今、やわらかく肩を抱かれている。
さっきまで不快に感じて逃げたくてたまらなかった知らない男の掌から、一瞬で、けれど乱暴ではないやり方で花音の肩を奪い返した、良く知った掌の感触。大好きな温度。
いつの間にか戻って来ていた佐伯が、花音の肩を抱いてすぐ隣に立っていた。距離が近くて花音からその表情は見えないが、相手の男を真っ直ぐに見上げていることだけは分かった。

固まる花音の目の前で、相手の男もぽかんとして、それから、あはは、と乾いた笑いを浮かべた。

「あ、なんだ、カレシかあ。ゴメンねー」

あっさりと引き下がる辺り、本当に質の悪い人間ではないのだろう。「ごめんごめん」とひらひらと手を振って去ろうとする男に、花音は慌てて声をかけた。

「あの! ぶつかっちゃってすみませんでした!」
「こっちこそゴメンね〜。あはは、カレシくんそんなに睨まないでよ〜」

笑いながらあっという間に人ごみへ消えていくナンパ男。花音は彼の最後の台詞に再び固まった。に、睨んでいるのか…。

「…………」
「…………」

なんとなく気まずい沈黙が流れる。
固まったまま佐伯の顔を見られずにいる花音の耳に、「…はあ」と佐伯が深い溜め息をつくのが聞こえた。花音はびくりと肩を揺らす。

「……ぷっ」
「!」

噴き出す声に顔を上げると、佐伯はおかしそうに笑っていた。

「そんなに怯えないでよ」
「! おっ、怯えてないよ!」
「そう?」
「そうだよ! なんで私がこーちゃんに怯えるの!?」
「うーん。なんでだと思う?」

にこにこと微笑みながら顔を覗き込まれて、花音はまたびくりと肩を揺らした。

「ほら、怯えてる」
「お、お、怯えてないっ! こーちゃん怖くないもん。今、私、安心してるんだよ」

花音が言い返すと、佐伯は微かに目を瞠って、ふいに真剣な顔をした。

「…なんで?」
「な、なんでって…。さっきの人、別に怖い人じゃなかったけど、やっぱり、触られたりするの、やだったし…こーちゃんが来てくれたからよかったって…」
「…俺にならいいの?」
「…へっ?」
「俺に触られるのは、平気?」
「……っ」

真っ直ぐに目を見て問われて、花音は口ごもる。
平気? 平気かと訊かれたら平気というほか、ない。ないけれど。

「…安心してくれたの?」

囁くような、少し掠れた声で。追い打ちをかけるように尚も真剣な目で訊かれて、花音は頭が爆発するかと思った。
ナンパから逃れられてほっとしたのと、咄嗟に「彼氏」と言ってしまったのをばっちり聞かれた恥ずかしさと。…しかも佐伯も彼氏ですと名乗った。口の巧い佐伯のこと、ナンパを撃退するための方便に決まっていると花音は思う。思うけれども、嬉しかったりどきどきしたりしてしまうのは仕方がないとも思う。自覚したばかりの稚拙な想いは自分でコントロールできずに、真っ赤になったり挙動不審な態度となって表れて…我ながらバレバレだと思う。バレバレ過ぎる。いくらなんでもこれで気付かなかったら佐伯は鈍すぎる。気付いていて、そんなことを訊いてきているのなら…。

説明のつかない感情が沸き上がって、花音の心のどこかがぷちんと切れた。
あ、爆発した、と思った。


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