『彼』の家族





紫を溶かしこんだような深い藍色に、あやめの花模様の浴衣。帯は鮮やかな紅。
髪もきれいに結いあげて、蝶を象ったヘアピンを差してもらって。
うっすらお化粧までしてもらって。

花音は落ち着かない気持ちで立っていた。
鏡の中の自分は、佐伯の姉の大人っぽい浴衣がどうにも似合っていない気がして居たたまれない。けれどやっぱり嬉しい気持ちもあって、とにかく、そわそわした。

「はいできました。すごく可愛い!」

ぽんと両肩をあたたかな掌で包まれる。
鏡の中の花音に顔をくっつけるようにして佐伯の姉が微笑んでいた。弟に良く似た笑顔に、花音は意味もなく顔が熱くなるのを感じた。

「…ありがとう、ございます」
「苦しいとことかない?」
「大丈夫です」
「よかった。お洋服の花音ちゃんも可愛いけど、こういうのも新鮮でいいね〜」
「あの、お姉ちゃん。浴衣、ほんとにお借りしちゃってよかったんですか?」

おずおずと尋ねると、からりとした笑顔が返ってくる。

「いいのいいの。それね、私が小学生の時に着てたやつだもん。もうちっちゃくて着られないよ」

小学生の時の浴衣という割りに、自分が着せてもらうときには随分とおはしょりをされた気がする。
すらりと背の高い姉を見上げて、花音は、このひとならとても似合っただろうな、と考えた。
それに引き換え自分は、どうしても着られている感が抜けない。
…佐伯が、姉の浴衣を着た自分を見たとき、姉との違いにがっかりしないかと考え、少し不安になった。

「花音ちゃんどうかした? やっぱり苦しい? タオル巻きすぎたかなあ」
「あ、違うんです! そうじゃなくてあの…浴衣、すごく素敵で、髪の毛もきれいにしてもらって、でも、なんか…自分がそれに追いつけてない気が、しちゃって、ですね…」

鏡から目を逸らしながらごにょごにょと白状すると、佐伯の姉は一瞬押し黙り、それから真剣な顔をつくった。

「花音ちゃん」
「は、はい」

真っ直ぐな目もやはり佐伯に似ていて、花音はまたもや謎の緊張に包まれた。

「押し倒したいんだけど」
「────はい?」
「押し倒したいんだけどっ! 可愛く過ぎて!」
「はいぃ?」

目を輝かせて叫ぶ佐伯姉。花音は意味が分からず呆然とした。
ふたりのいるリビングと続くキッチンの方から、佐伯母の「ほら、その辺でやめておきなさいよ。花音ちゃんが困ってるでしょう」という呆れ声が聞こえてくる。

「だってお母さん! こんなのってあり!? 可愛過ぎるでしょどう考えても! ああもうっ、浴衣が崩れる心配さえなければっ! 押し倒して、抱きしめて、可愛がりたいい〜!」
「虎次郎に怒られるわよ」
「そうよあいつ生意気よねっ。こんな可愛い彼女あっさりゲットしてきてさあ、人生舐めてるわよね。──時に花音ちゃん」

至近距離から真剣に覗きこまれて、花音は「な、なんでしょう」とどもる。
…なんとなく、佐伯が、花音が姉と会う事にあまり乗り気でない風だったのを今更ながら理解できた気がした。
佐伯の姉は無駄に迫力満点の整った顔を近づけて、花音の耳に囁いた。

「──虎次郎にはもう押し倒されちゃったりしてないわよね?」

「…………はい?」

たっぷり十数秒の間を置いた後に漸く相手の台詞の意味を理解した花音は、「…ああ」と目をぱちくりさせながら頷いた。

「おしたおされちゃったりって、つまりそういう…」
「そうそう。いやー私もまさか小学生でって思うけど、今時の小学生って進んでるんでしょ? あいつも無駄にませてるところあるしさー」
「ませてる…んですか……ふうん…」
「大変なのは花音ちゃんでしょ。何かあったら私に言ってね。虎次郎にガツンと言ってやるから」
「……あの、お姉ちゃん」
「ん? 何なに?」
「…あの、私、こーちゃんの『彼女』ではないので、そういう心配はいらないです」
「えっ?」
「私はこーちゃんを大好きで、友達の中でも一番に特別で大好きですけど、でも、『彼女』じゃないです。こーちゃんは、そういうふうには思っていないから」

説明しながら、花音はだんだんと項垂れていって。
なぜ項垂れてしまうのだろうかと自分でも不思議に思った。
いったい、自分はなぜこんなに落ち込むのだろうか。

──佐伯と良く似た笑顔で彼の姉に笑いかけられて頬が熱くなったことや、初めて着た浴衣姿を彼にどう思われるか気になって仕方なかったこと。

その意味に行き当たって、自分の鈍感さに気付く。
佐伯の姉が誤解していた通りに彼の『彼女』だったらよかったと、そう思っていたのだ、自分は。
だから今、彼とは友達でしかないと説明しながら、自分が一番打ちのめされている。
…無意識での思い込み。自分の図々しさに花音は驚いた。
こんな自分は、知らない。

「…ああ、そうなんだぁ。ごめんね、私先走っちゃって」

佐伯の姉がしょんぼりして謝ってきて、花音は慌てた。

「私こそごめんなさい」

弟の『彼女』だから優しくしてくれたとは思わないけれど、それでも、説明のつかない罪悪感があった。
それに対し佐伯の姉はやわらかく笑う。

「やだ花音ちゃん、謝らないで。私が勝手にそうだったらいいなって思ってただけだから」

…そうだったらいいなと、自分も思っていた。無意識に、当たり前に。
自覚したばかりの本音の傲慢さに花音は少なからずへこまされた。

今まで考えたこともなかったが、佐伯は学校できっと相当もてるのだろうと思った。彼を好きな女の子なんて、きっとたくさんいる。
会ったばかりの自分が、友達として優しくしてもらえたからといって、隣にいて当然のように思い込むのは違う。そういう誤解をしていい相手ではない。
きれいな浴衣を着て高揚していた気持ちがすぅと冷えて、切なくなった。

俯く花音の肩を、佐伯の姉があたたかく包んだ。

「花音ちゃん、大丈夫。お祭りの夜はね、魔法が起きるのよ。今夜は花火も上がるの。花音ちゃん、打ち上げ花火見たことある? おっきいの」

花音が首を振ると、彼女は「じゃあちょうどよかった」とにっこり笑う。

「虎次郎と見て。すっごく綺麗だから。それと、絶対いいことあるから。ねっ?」

優しい笑顔が弟にそっくりで、花音はなぜか泣きだしたいような気持ちで笑った。

「…魔法が起きるんですか」
「そうそう」

佐伯の姉は花音にとびきり優しく笑いかけた後で、つと無表情に天井の方を見上げて「チッ、あのグズ」と低く呟いた。花音は思わずひっと肩を竦める。

「おっ、お姉ちゃんっ?」
「ん? あらやだ私何か言ったかしら?」
「い、今、舌打ち…」
「やあねー花音ちゃんったら、それは幻聴よ。気にしない気にしない。オホホホホ」
「は、はあ…」
「じゃああのバカ呼んでくるから。ちょっと待っててね」
「は、はあ」

あのバカというのはまさか佐伯のことなのだろうか…と考え込んでいるうちに、リビングのドアを開けた佐伯の姉が2階に向かって大声で佐伯を呼ぶ声が聞こえて、花音はまた飛び上がった。

「お、お、お、お姉ちゃんっ! 私どこか変じゃないですかっ、おかしくないですか後ろとか!」

慌てる花音に対し、佐伯の姉はうっふっふと意味深に笑う。

「大丈夫。私のプロデュースは完璧よ」
「歩き方はこうで、脚を開かないで、手を上げるときはこうで…」
「もうっ、花音ちゃんほんと可愛い! 平気平気、普通にしてて大丈夫よ。ほら、楽しんできてね。初めての夏祭り」

初めての夏祭り。
落ち込んではいても、その言葉はやはり嬉しくて胸が高鳴る。
佐伯の姉に背中を押されてリビングを出ながら、花音は笑顔で振り返った。

「はい。お姉ちゃんほんとにありがとう!」

どういたしまして、と綺麗に笑う年上の女性は、やはりその弟によく似ていた。





リビングを出て玄関の方に向かうと、階段から下りてきた佐伯にばったりと遭遇する。

「……」
「……」

藍色の浴衣を着た佐伯が妙に大人びて見えて、花音は目を丸くして立ち止まった。

「…こーちゃん、浴衣すっごく似合うね」

思ったままの感想を漏らすと、佐伯は数秒押し黙り、それから花音の大好きな、少し照れたような笑顔を見せる。

「花音も、すごく可愛い」

何度も見てきた佐伯の笑顔。
けれどもなぜか今までで一番優しく見えて、花音は思わず瞬きをした。

…やっぱり、お姉ちゃんとよく似てるなあ、と場違いな感想が浮かんだ。


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